建文帝

明朝の第2代皇帝。朱元璋の皇太孫。

建文帝(けんぶんてい)は、の第2代皇帝(しゅ)。允炆(いんぶん)。廟号恵宗(けいそう)。諡号譲皇帝(じょうこうてい)、恵皇帝(けいこうてい)。

建文帝 朱允炆
第2代皇帝
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建文帝
王朝
在位期間 洪武31年5月16日 - 建文4年6月13日
1398年6月30日 - 1402年7月13日
姓・諱 朱允炆
諡号 嗣天章道誠懿淵功観文揚武克仁篤孝譲皇帝(南明弘光帝による)
恭閔恵皇帝(清朝乾隆帝による)
廟号 恵宗(弘光帝による)
生年 洪武10年11月5日
1377年12月5日
没年 建文4年(1402年)?
朱標
呂氏
后妃 馬皇后
年号 建文1398年 - 1402年

靖難の変により永楽帝に帝位を簒奪されたため、明代には皇帝としての在位が否定されていた。その在位中の年号建文」から一般的に建文帝と称される。また諡号から取って、しばしば恵帝とも譲帝とも称される。

生涯編集

洪武帝の長男で皇太子であった朱標(懿文太子・興宗)の次男として生まれた。生母は朱標の側室の呂氏。洪武25年(1392年)、父の朱標が死去したため、皇太孫に立てられた。洪武31年(1398年)、祖父の崩御により第2代皇帝に即位した。即位後、その地位を確固たるものとするため側近の方孝孺らとともに皇族の力を弱めることを画策し、周王朱橚・斉王朱榑・代王朱桂をそれぞれ庶民に落とし、湘王朱柏を焼身自殺させ、岷王朱楩漳州に流した。

建文帝にとっての最大の政敵は燕王朱棣であり、上記の諸王を廃したのは燕王を粛清するための事前準備であった。これに危機感を持った朱棣は、君側の奸である方孝孺らを殺して朝廷を靖めると称し、軍を起こした(靖難の変)。兵力では燕王軍の数万に対し、南京の官軍は50万超と圧倒的に勝っていた。しかし、燕王軍は漠北で明朝に対峙するタタール北元)とたびたび戦ってきた実戦経験豊かな朱棣自身が指揮を取ったのに対し、官軍は有能な将軍を欠いていた。

指揮官の質で大きく劣る官軍は兵力差を活かせず、内乱は長引いた。建文帝は文治政策を重視し、出陣する将軍に対して叔父殺しの汚名を自身に与えぬようにすることと訓示したり、戦闘中に朱棣が死んだという誤報を信じて将軍を南京に召還したりした。このような状態であり、官軍の軍事的な優位は確立しなかったどころか、逆に離反者を招く始末だったとされる。建文5年(1402年)、燕王軍は南京を陥落させ、建文帝はその際の混乱により行方不明となった。

人物・逸話編集

  • 永楽帝となった朱棣は自らの簒奪を隠蔽するために建文帝の即位の事実を抹消し、建文の年号もなかったことにした(建文の代わりに前皇帝の洪武の年号が使用された)。その後、明が終わるまで建文帝の正統議論は消えることが無かったが、結局明朝には建文帝の名誉は復活しなかった。年号のみは、万暦帝によって万暦23年(1595年)に復活された。乾隆帝の時期に、恭閔恵皇帝と追諡され、ようやく明の正統皇帝として認められた。
  • 建文帝の最期に関しては「都城陥るや、宮中より火起り、帝終る所を知らず。(略)或はいう。帝、地道により出亡す」(『明史』「恭閔帝本紀」)とあり、自殺の場面は確認されていないという。
  • 死後38年たった正統5年(1440年)に雲南から広西にかけて放浪していた僧侶が「我は建文帝なり」と自称した。当時の皇帝である正統帝はこの僧侶を逮捕して調査したが、全く根拠の無い偽者であった。この偽者は獄死したという。
  • 雲南・貴州四川にかけて、建文帝が皇位を追われた後に僧侶として往来したとされる旧蹟がいくつも存在しているほど、生存説は根強くある。
  • 靖難の変が起こると将軍らに「朕に叔父殺しの不名誉を成さしめないようにせよ」と訓令したり、敗戦の責任者である李景隆に太子太師の地位を授けたり、側近の斉泰黄子澄らを敗戦に応じて解任したり復帰させたりと政略の能力には欠けていたが、拷問の廃止や重税の軽減、宦官の重用禁止を実施したため、民からは慕われたという。
  • 日本の小説家の幸田露伴の作品『運命』では名君として描かれ、また逃亡説が採られ数十年の余生を過ごしたとされている。また伴野朗の小説『大航海』では、南京陥落時に脱出し海賊集団の支援で海外へ逃れた建文帝を探すよう永楽帝が宦官の鄭和に命じて大航海に出し、鄭和は十数年後にアラビアでイスラム商人となっていた建文帝と再会するが永楽帝には死亡を確認したと報告する。

宗室編集

后妃編集

  • 孝愍皇后
  • 40人くらいの妃嬪と宮女(燕王軍が皇宮に進入すると、彼女らは建文帝の後追い自殺をしたという)

男子編集

参考文献編集

登場作品編集