建部武彦

江戸時代後期の福岡藩士

建部 武彦(たてべ たけひこ)は江戸時代後期の福岡藩士。武彦は別名であり、本名は自強(じきょう)。

 
建部 自強
時代 江戸時代後期(幕末期
生誕 文政3年(1820年
死没 慶応元年10月25日1865年12月12日
別名 源兵衛、孫左衛門、武彦
墓所 安国寺 (福岡市)
官位従四位
幕府 江戸幕府
主君 黒田長溥
筑前福岡藩藩士
氏族 建部氏
父母 父:建部自福
兄弟 武彦、安子(加藤司書室)
黒田清定田鶴子(黒田一葦の妹)
武部小四郎建部彦麿、娘(野村助作室)
特記
事項
娘の夫の野村助作は野村望東尼の孫
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経歴 編集

文政3年(1820年)建部自福の長男として生まれる。初め源兵衛、孫左衛門と名乗った。弘化2年(1845年)家督を相続。家禄700石。大組頭、陸士頭、無足頭を勤め、嘉永6年(1853年)御用聞役に任ぜられる。元治元年(1864年第1次長州征討の際、福岡藩の正使として、長州藩と征長軍総督徳川慶勝の間を周旋。また、都落ちをして長州に身を寄せていた尊攘派公家三条実美ら5卿が太宰府に引き移れるべく尽力した。翌慶応元年(1865年)に帰藩するも藩論は一変。佐幕派が主流を占め、加藤司書ら勤王党を救い切れず、逆に「私曲を企て国法を犯す」との罪で自宅禁固ののち、福岡城下の安国寺で切腹を命ぜられた(乙丑の獄)。

子の小四郎は、家督相続が許されず武部の姓に改称している。明治10年(1877年)、不平士族を糾合して西南戦争に呼応し斬首された(福岡の変)。

明治31年(1898年)、従四位を追贈された[1]

脚注 編集

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.10

参考資料 編集

  • アクロス福岡文化誌編纂委員会『アクロス福岡文化誌9 福岡県の幕末維新』44p 2015年
  • 『三百藩家臣人名事典 第七巻』家臣人名事典編纂会、新人物往来社、1994年。
  • 坪内隆彦著『GHQが恐れた崎門学』展転社、平成28年、299p
  • 浦辺登著『維新秘話福岡』花乱社、2020年、ISBN978-4-910038-15-5