張 之万(ちょう しばん、Zhāng Zhīwàn1811年 - 1897年)は、末の官僚。字は子青、号は鑾坡直隷省南皮出身。張之洞の従兄。

張之万

道光27年(1847年)に状元となり、翰林院修撰を授かった。咸豊2年(1852年)に河南学政となったが、太平天国軍の北伐に対して様々な防衛策を建言し、多くが容れられた。その後北京に呼び戻され、同治元年(1862年)に礼部侍郎、河南巡撫となった。当時河南省は捻軍の攻撃を受けていたが、張之万は自ら汝州許州に駐屯して督軍にあたった。

同治4年(1865年)に河道総督に就任、同治5年(1866年)に漕運総督に異動となり、漕運の要地の防衛にあたった。捻軍の平定後の同治9年(1870年)には江蘇巡撫となり、同年に起こった両江総督馬新貽暗殺事件を魁玉と共に調査した。

光緒8年(1882年)に兵部尚書、光緒9年(1883年)に刑部尚書となった。光緒10年(1884年)に軍機大臣協弁大学士、光緒15年(1889年)には体仁閣大学士、次いで東閣大学士に至った。

を善くし、書画にも巧みであった。死後、文達の諡号が贈られた。

出典 編集

先代
鄭元善
河南巡撫
1862年 - 1865年
次代
呉昌寿
先代
鄭敦謹
河道総督
1865年 - 1866年
次代
蘇廷魁
先代
呉棠
漕運総督
1866年 - 1870年
次代
張兆棟
先代
丁日昌
江蘇巡撫
1870年 - 1871年
次代
何璟
先代
毛昶熙
兵部漢尚書
1882年 - 1883年
次代
彭玉麟
先代
潘祖蔭
刑部漢尚書
1883年 - 1889年
次代
孫毓汶