張 悌(ちょう てい、? - 280年)は、中国三国時代の政治家・武将。巨先荊州襄陽郡(現湖北省)の人。

張悌

丞相・山都侯
出生 不明
荊州襄陽郡
死去 天紀4年(280年
拼音 Zhāng Tì
巨先
主君 孫休孫皓
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生涯編集

若くして道理にかなった人物として知られ、孫休の時代に屯騎校尉となった。幼少の頃、諸葛靚の一族で、後に丞相となる人物(諸葛恪)から抜擢されたという。

司馬昭蜀漢討伐の兵を起こすと、張悌は必ず司馬氏が勝利すると皆に語った。呉の人々は張悌の言葉を笑ったが、果たして蜀は魏に降伏した[1]蜀漢の滅亡)。

孫皓の時代には軍師となった。279年、丞相に昇進し、その直後に呉は侵攻を受けた。

張悌は孫皓の命を受け、沈瑩・諸葛靚らと共に3万の軍勢を率い、晋軍の長江渡河を迎撃しようとした。沈瑩は「河を渡って戦えば、勝てたとしてもこの地を維持するのは難しい。また、敗北すれば国家の危機は決定的となる。今は渡るべきでない」と言った。だが、張悌は「呉が滅びかかっているのは賢者でも愚者でも知っている。このまま敵の進撃を許せば、不安になった兵が逃散し、戦わずして降伏せねばならない。国難において死ぬ者が一人もいないのは、国の恥ではないか」と言って長江を渡り、王渾率いる晋軍に決戦を挑んだ。しかし、呉軍は敗北し壊滅した。諸葛靚は使者を送って張悌に退却を勧めたが、張悌はその場を動かなかったという。このため、諸葛靚は自ら張悌の元に赴き再度退却を促したが、張悌は「身を以て国に殉ずることができるならば、どうして避けたりしようか」と言ってこれを退け、乱戦の中で戦死した。

捜神記』によると、張悌軍の柳栄は行軍中に病死し、2日後、突然激昂して生き返った。人々が彼に話を聞くと、「天に昇って北斗門に迫ると、張軍師が縄で縛られていたのだ。思わず大声で叫ぶと、なぜか門から追い返されてしまった」と言った。果たして、張悌の死も偶然その日だったとある。

脚注編集

  1. ^ 裴松之が注に引く『襄陽記』による

参考文献編集

  • 陳寿『三国志』
  • 房玄齢『晋書』