張滋昉

明治時代の中国語教師
張滋ホウから転送)

張 滋昉(ちょう じほう、Zhāng Zīfǎng、道光19年(1839年)11月 - 光緒26年(1900年11月21日)は明治時代中国語教師。諱は景栻。字は袖海。別号に鼑昉?[1]、匏翁。北京出身で、上海で訪中中の副島種臣と知り合い渡日、興亜会興亜黌慶應義塾大学付属支那語科、旧制東京外国語学校東京帝国大学等で中国語を教えたが、日中関係悪化や中風により不遇な晩年を過ごした。

生涯 編集

来日前 編集

道光19年(1839年)11月、順天府大興県北京市大興区)に生まれた[2]南宋張浚張栻の子孫[1]。原籍は広東省瓊州[3]海南省海口市)。国子監南学卒業[2]

1876年(光緒2年)、荊州で中国歴訪中の副島種臣に会い、後に上海に移って交流を深め、また種臣に同行していた曽根俊虎北京官話を教えた[4]

興亜会 編集

1878年(明治11年)秋に副島種臣が帰国すると、後を追うように1879年(明治12年)春来日し、長崎で地元の文人に引き止められ、10ヶ月滞在した後、1880年(明治13年)春東京に出て、曽根俊虎宅に寄寓した[4]

1880年(明治13年)2月、曽根俊虎が興亜会を設立すると、副島種臣やその支那語学校講師興亜黌本科の午前の授業において、古文音読、字音を教えた[1]。当初は芝区西久保巴町の校舎に住み込み、11月7日、麹町区五番町18番地に移った[1]。生徒には宮島大八小田切万寿之助大倉喜八郎恒屋盛服等がいた[1]

1880年(明治13年)2月28日東京地学協会に入会、1895年(明治28年)10月28日免費会員となった[1]。興亜会には3月に同盟員として入会し、12月創立員に昇進、例会、議員会、懇親会等に積極的に参加し、唯一の在京民間中国人会員としての精力的な活躍が認められ、1883年(明治16年)から3回議員に当選した[1]壟思録の後任として、1880年(明治13年)9月1日から11月まで慶應義塾大学支那語科講師を兼職した[2]。教科書には慶應義塾出版会などから販売された「興亜会支那語学校」編集の『語言自適集』を使った。その後、浙江省から郭宗儀が講師として来在したが、壟と張が北京官話(北京語を含む華北方言)を教えていたのに対し、郭は南音(南方系の発音)のため生徒が困惑するなどの事態が生じ、張は慶應義塾支那語科を退任した。

1882年(明治15年)5月4日支那語学校が廃校となり、5月16日文部省東京外国語学校漢語学講師に雇い替えとなった[1]。同校は東京商業学校第三部として統合、後に語学部と改称され、1886年(明治19年)廃止されたが、この時解雇されたか定かでない[1]

1889年(明治22年)9月、帝国大学文科大学博言学科及び漢学科で教え、同時に東京高等商業学校嘱託支那語学講師を務めた[1]。帝大では『亜細亜言語集』『西廂記』『桃花扇』等を用いたが、生徒の学習意欲は低く、滋昉もこれを放任していたという[5]。この頃浮槎(査)散人と号しているが、『論語』公冶長篇「道行はれず、桴に乗りて海に浮かばん。」から採ったもので、異国の地で自らの不遇を嘆く心境を表している[4]

1891年(明治24年)3月15日から1894年(明治27年)8月19日まで、副島種臣、榎本武揚等の推薦により、清国公使館内の日本語学校東文学堂で漢文を教えた[1]

1894年(明治27年)日清戦争が勃発し、在日清国人が次々と帰国する一方、日本人の間では中国語学習熱が高まり、日本に留まり続けた滋昉は引っ張りだことなったが[6]、市井の人から乱暴、投石等を受けるようになり、一旦帰国した[7]

1895年(明治28年)には帰国し、4月から半年間存在した東亜学院でも教えている[8]

帰国 編集

1894年(明治27年)頃から中風に罹り、1895年(明治28年)7月には東京帝国大学を免職され、生活に困窮するようになった[9]

1899年(明治32年)7月帰国したが、故郷の北京には反日感情のため戻れず、上海虹口区南潯路の日本旅館常盤舎に滞在し、後に城内に移った[6]。1900年(光緒26年)11月21日死去し、上海総領事代理小田切万寿之助等の尽力で葬送された[10]。日本滞在時は日本人の妻がいたが、死去時には妻も子もなかった[1]

編著 編集

  • ジョーン・ベビス共校、田中正程訳『英清会話独案内』、昇栄堂、明治18年7月
  • 伊沢修二編輯『日清字音鑑』、並木善道、明治28年6月
  • 重野安繹総閲『明治字典』、明治18年5月
  • 林久昌共講述『支那語』、大日本実業学会
  • 佐藤精明輯録『槎客筆談』明治14年 - 関西大学図書館増田渉文庫所蔵。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 王宝平「明治時代に来日した張滋昉の基礎的研究」『アジア文化交流研究』第4号、2009年3月
  2. ^ a b c 鱒澤彰夫「興亜会の中国語教育」『興亜会報告・亜細亜協会報告』第1巻、不二出版、1993年
  3. ^ 孫点「己丑重九讌集会者姓氏録」『己丑讌集続編』巻下
  4. ^ a b c 二宮俊博「『逍遙遺稿』札記 ―シルレルとショオペンハウエルのこと及び張滋昉について」『椙山女学園大学研究論集』第33号人文科学篇、2002年3月
  5. ^ 小柳司気太「莛鐘録」『東洋思想の研究』、1942年 p.627
  6. ^ a b 田岡嶺雲「張滋昉氏を懐ふ」『日本人』第130号、明治34年
  7. ^ 斉藤兼蔵「初代琳琅閣主人とその周辺」反町茂雄編『紙魚の昔だより』 p.137
  8. ^ 二宮俊博「『逍遥遺稿』札記 ―張 滋昉補遺」『椙山女学園大学研究論集』人文科学篇第35号、2004年3月
  9. ^ 「蒼海老伯を訪ふ」『東京朝日新聞』明治31年1月28日
  10. ^ 「張滋昉氏の逝去」『日本』雑報、明治33年12月1日

参考文献 編集

  • 葛生能久『東亜先覚志士記伝』 上、大空社〈伝記叢書 254〉、1997年5月。ISBN 4-7568-0465-9 
  • 葛生能久『東亜先覚志士記伝』 中、大空社〈伝記叢書 255〉、1997年5月。ISBN 4-7568-0466-7 
  • 葛生能久『東亜先覚志士記伝』 下、大空社〈伝記叢書 256〉、1997年5月。ISBN 4-7568-0467-5