張 燮(ちょう しょう、拼音:Zhāng Xiè、1574年 - 1640年)は、中国明代文人。字は紹和。漳州府龍渓県(現在の福建省漳州市竜海区)の人。

張 燮
生誕 1574年万暦2年)
漳州府龍渓県
死没 1640年崇禎13年)
職業 文人
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出身地である龍渓県は『東西洋考』の小引に「農賈雑半、走洋如適市、朝夕之皆海供、酬酢之皆夷産」と記載されるように、農業にのみ依拠して生計を立てるのが困難であり、古くから華僑として海外に移住する者が多い地域である。

張燮は郷紳の家に生まれ、高祖父の張綽刑部郎に、伯父の張廷棟は海外にも派遣されて礼部主事に任じられている。父の張廷榜挙人になり、太平知県・鎮江府海防同知に任命されたが、30歳を過ぎた頃、官位を捨て故郷に戻っている。

張燮も1584年万暦22年)に挙人となったが、官位を辞退し、陳継儒曹学佺等の当時の文人と交際し「博学」として知られた。晩年には、芝山の麓の「霏雲居」と命名した邸宅に居住した。

張燮は詩作を中心に15種696巻を著したとされるが、現存するのは『東西洋考』・『漳州府志』・『龍渓県志』・『梁簡文帝御製集』のみである[1]

漳州七才子 編集

張燮は、蔣孟育高克正林茂桂王志遠鄭懐魁陳翼飛と漳州芝山に「玄雲詩社」を作った。この七人は文才に優れていたので、漳州七才子と呼ばれている[2]

脚注 編集

  1. ^ 謝方『東西洋考』pp.5-7
  2. ^ 『漳州府志選録』

参考文献 編集