張 範(ちょう はん、? - 212年)は、中国後漢時代末期の政治家。字は公儀司隷河内郡修武県の出身。祖父は張歆(司徒)。父は張延(太尉)。弟は張承・張昭(呉の張昭とは別人)。子は張陵。甥(張承の子)は張戩。

事跡 編集

姓名 張範
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 212年建安17年)
字・別号 公儀(字)
出身地 司隷河内郡修武県
職官 議郎兼参丞相軍事
爵位 -
主君 曹操
家族・一族 祖父:張歆 父:張延

弟:張承、張昭
子:張陵 甥:張戩(張承の子)

董卓の専横が起きると、張範は弟らと共に揚州へ逃れた。すると当時、揚州を支配していた袁術が、礼を尽くして張範を招聘しようとしたため、張範は病気と称して応じず、代わりに張承を赴かせた。しかし張承は、袁術の野心を諌める発言をしたため、結局不興を買いその下を去っている。

曹操冀州を平定すると、使者を派遣して張範を迎えさせた。しかし張範は当時病気だったため、代わりに張承を派遣した。まもなく山陽の賊軍が、張範の子と甥を捕えてしまったため、張範は自ら賊軍の下に赴いて返還交渉を行ない、子を返してもらった。しかし張範が自分の子と交換で、むしろ幼い甥の方を返して欲しいと願い出たため、賊軍は感心して2人とも返している。

曹操は荊州を平定して帰還する途上、張範と対面し、彼を議郎兼参丞相軍事に任命した。以降、曹操は遠征する時に、張範・邴原を都に留め置き曹丕と共に留守を任せている。また曹丕は曹操からの指示もあって、張範・邴原に対し子や孫としての礼をとった。

建安17年(212年)、死去した。

小説『三国志演義』には登場しない。

人物像 編集

張範は、落ち着いた物静かな性格で、道家の思想を楽しみ、栄誉や利益に無関心で、朝廷からの任命にも応じなかったという。曹操に仕えてからは、窮乏している者に施しをよくし、家に財産を残そうとしなかった。また、邴原とは親友同士であったという。

参考文献 編集