張 鯨(ちょう げい、? - 1215年)は、末の群雄の一人。弟は張致

概要 編集

1213年よりチンギス・カン金朝侵攻が始まると、事実上金朝から見放された華北は荒廃し、各地で人望ある指導者が自立するようになった(後の漢人世侯)。1214年末、錦州に住まう張鯨は10万余りの配下を集めて金朝の節度使を殺し、臨海郡王を称した[1]。この頃、左翼万人隊長ムカリ率いる軍団が遼西地方に進出しており、張鯨はこれに降った[2]

1215年、チンギス・カンは張鯨に北京(大定府)十提控兵を統べて華北の金朝残存勢力を討伐するよう命じた。しかし、ムカリはそもそも張鯨が本心からモンゴルに降ったとは思っておらず、ムカリの要請によって契丹人将軍の石抹エセントルン・チェルビがこれを監督することになった。果たして、平州に至ると張鯨は病と称して進軍することを拒み、これを知った石抹エセンはすぐに張鯨を捕らえチンギス・カンの下まで連行した。チンギス・カンは張鯨を責めたが、張鯨は「臣は実に病であって、敢えて叛乱を起こそうという気はありません」と弁明したため、チンギス・カンは「今汝の弟を呼び出して質子(トルカク)とすれば、汝は死を免れるだろう」と弟の張致を差し出すことを要求した[3]

張鯨はチンギス・カンの要求を一旦は受けいれたものの、宵の内に逃れだし、これを追った石抹エセンによって殺された[4]。しかし、これを知った張致もモンゴルから離反して錦州で自立し[5]、モンゴル軍は一度降った遼西地方の諸城の再侵攻を行わなければならなくなった[6]。なお、『聖武親征録』は張鯨が1216年(丙子/太祖11年)に「遼西王」と称し「大漢」と改元したと記すが[7]、『元史』太祖本紀や関連する列伝とも合致しない[8]

参考文献 編集

  • 池内宏「金末の満洲」『満鮮史研究 中世第一冊』荻原星文館、1943年

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻1太祖本紀,「[太祖九年]冬十月、木華黎征遼東、高州盧琮・金朴等降。錦州張鯨殺其節度使、自立為臨海王、遣使来降」
  2. ^ 『元史』巻119列伝6木華黎伝,「[乙亥]錦州張鯨聚衆十餘万、殺節度使、称臨海郡王、至是来降。詔木華黎以鯨総北京十提控兵、従掇忽闌南征未附州郡。木華黎密察鯨有反側意、請以蕭也先監其軍。至平州、鯨称疾逗留、復謀遁去、監軍蕭也先執送行在、誅之。鯨弟致憤其兄被誅、拠錦州叛、略平・灤・瑞・利・義・懿・広寧等州」
  3. ^ 『元史』巻150列伝37石抹也先伝,「歳乙亥……奏以為興中尹。又命也先副脱忽闌闍里必、監張鯨等軍、征燕南未下州郡。至平州、鯨称疾不進、也先執鯨送行在所、帝責之曰『朕何負汝』。鯨対曰『臣実病、非敢叛』。帝曰『今呼汝弟致為質、当活汝』。鯨諾而宵遁、也先追戮之、致已殺使者応其兄矣。致既伏誅、也先籍其私養敢死之士万二千人号黒軍者、上于朝。賜虎符、進上将軍、以御史大夫提控諸路元帥府事、挙遼水之西・灤水之東、悉以付之」
  4. ^ 『元史』巻151列伝38田雄伝,「田雄字毅英、北京人也。……太祖以雄隷太師・国王木華黎麾下、従征興中・広寧諸郡、定府州県二十有九、平錦州張鯨兄弟之乱、従攻柏郷・邢・相」
  5. ^ 『元史』巻1太祖本紀,「[太祖十年]夏四月、克清・順二州。詔張鯨総北京十提控兵従南征、鯨謀叛、伏誅。鯨弟致遂拠錦州、僭号漢興皇帝、改元興龍」
  6. ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「歳乙亥、中原盗起。錦州張鯨、自立為臨海郡王、遣使納款于太祖、尋以叛伏誅。鯨弟致、初以叛謀於実、実厲声叱曰『天之暦数在朔方、汝等恣為不軌、徒自斃耳』。乃籍戸口一万、募兵三千、丙子春、来帰」
  7. ^ 『聖武親征録』,「丙子、錦州帥張鯨以錦州・広寧等郡来降、俄而復叛、自号遼西王、改元大漢。上命木花里以左軍討平之」
  8. ^ なお、『聖武親征録』を校訂した王国維は1214年の張鯨の自立とモンゴルへの投稿、1215年の張鯨の死と張致の自立、1216年の張致の敗死を誤って混同したのが『聖武親征録』の記述であると論じている(『元史』本紀「九年甲戌、錦州張鯨殺其節度使、自立為臨海王、遣使来降。十年乙亥、張鯨謀叛伏誅。鯨弟致遂拠錦州、僣号漢興皇帝、改元興龍。十一年丙子、張致陥興中府、木華黎討平之」。『元史』以此事分系甲・乙・丙三年、此『録』則因記平錦州事、兼及其縁起耳)。