征韓論

明治時代初期に日本で提唱された政策のひとつ
征韓議論図。西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)鈴木年基作。

征韓論(せいかんろん)は、日本幕末から明治初期において唱えられた朝鮮侵略論をいい、一般的には、1873年(明治6年)の対朝鮮論をさすことが多い。参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず、自ら使節になろうとし、板垣退助後藤象二郎江藤新平大隈重信大木喬任の諸参議が賛同して一旦内定したが、正式決定は岩倉使節団の帰国を待つこととした。使節団帰国後も、遣使問題は延引され、大久保利通副島種臣の参議就任を待って賛否両論が闘わされた[1]岩倉具視、大久保、木戸孝允らは遣使に反対し、病に倒れた太政大臣三条実美に代わって閣議を主導した太政大臣代行の岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり、10月24日、閣議決定は無期延期とされた。同日、西郷が参議と近衛都督を辞任し、翌25日、板垣、副島、後藤、江藤が下野した[2]

名称編集

大野敏明によれば、「『征朝論』でも『征鮮論』でもなく、『征韓論』というところが面白いですね。当時は李氏朝鮮だったのですから、『韓』の字の使用は唐突ですが、神話に出てくる神功皇后の『三韓征伐』のイメージから、『征韓論』になったものと思われます。」[3]という。

安政五カ国条約の勅許の奏請にあたり、間部詮勝は「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現することができると朝廷を説得したとされる[4]。後年渋沢栄一は「韓国に対する私の考えは、三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに刺戟せられたものであろうが、兎に角朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ、それは日本と同様の国であると考えていたのである」と日清戦争後の対露強硬路線に同調した経緯を述べた[5]

概要編集

日本では江戸時代後期に、国学水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。[要出典]幕末期には、松陰や勝海舟橋本左内の思想にその萌芽をみることができる。慶応2年(1866年)末には、広州の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった(八戸事件)。[要出典]また朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、丙寅洋擾シャーマン号事件の勝利によって、意気おおいにあがっていた。[要出典]

そのように日朝双方が強気になっている中で明治維新が起こった。日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された[6][要出典]。明治元年12月には木戸孝允が「施設を朝鮮に派遣して無礼を譴責し、相手が不服ならばその罪を問う」という征韓論の原型となる記述を日記に残している[7]。木戸は征韓を行えば国内が一致団結し、旧弊が洗い流されるだろうとしている[7]

明治3年1870年)2月、明治政府は佐田白茅森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況(後述)に憤慨し、帰国後に征韓を建白した[8]9月には、外務権少丞吉岡弘毅釜山に遣り、明治5年1872年)1月には、対馬旧藩主外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。[要出典]朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。[要出典]

また政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。[要出典]当時外交官として釜山に居た佐田、森山等はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。[要出典][9][10]

征韓論政変編集

明治6年(1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。[要出典]参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵した上で交渉すべきであると主張したが、西郷隆盛はそれに反対して責任ある全権大使を派遣して交渉し、大使が殺害された場合は出兵すべきであると主張した。[要出典]三条実美は使節は軍艦に搭乗し護衛兵を帯同すべきだと主張したが、西郷はそれにも反対し烏帽子直垂の正装で非武装の使節を派遣することを主張した。|date=2020年5月}}後藤象二郎江藤新平らが賛成し、板垣も自説を撤回して賛同して、西郷は自らその使節に当りたいと提議したが、この日は決定には至らなかった。[要出典][11]

その後、中国から帰国した副島種臣は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。[要出典]二人の議論の末三条実美の説得もあり副島が折れることとなった。[要出典]板垣退助も西郷のために尽力し、三条実美の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。[要出典][12]

8月17日、留守政府の閣議で西郷遣使が内決されたが、岩倉帰国後に再討議されることも決まり、明治天皇の裁可を得た[13]。しかし使節団の一人として渡欧していた岩倉・木戸・大久保らは征韓は時期尚早であると考えるようになり、三条や参議大木喬任らもその意見に同調するようになった[14]。岩倉・大久保が政府に復帰した10月、西郷が強硬に遣使を主張したことで、この問題は最重要の政治課題となった[15]。10月15日の閣議の後、西郷の圧力とそれに伴う軍の暴発を恐れた三条は、太政大臣としての自らの権限で西郷の即時派遣を決定した[16]。しかしこれに反発した岩倉・大久保らが辞表を提出し[17]、収拾に窮した三条は病に倒れた[18]。10月19日、岩倉が太政大臣代理となり[19]、10月23日に三条の裁断による即時派遣か、岩倉自身の考えである遣使延期かという2つの意見を上奏した[20]。これを受けて10月24日に明治天皇は遣使を延期するという裁断を行った[21]。政変に破れた西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野することとなった[22]

政変後の動き編集

台湾出兵と江華島事件編集

明治政府はこの政変で西郷らを退けたが全ての征韓派が下野した訳ではなく、また西郷遣使は「中止」されたものの公式には内外情勢を理由とした「延期」と発表されたために後日に征韓論が再燃する可能性を残した。

翌年の明治7年(1874年)には宮古島島民遭難事件を発端として、初の海外出兵となる台湾出兵を行った(木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵を行うのは矛盾であるとして反対した結果、参議を辞任して下野した)。また、翌々年の明治8年(1875年)には李氏朝鮮に対して軍艦を派遣し、武力衝突となった江華島事件の末、日朝修好条規を締結することになる。

士族反乱・自由民権運動編集

明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱自由民権運動が起こった。

研究史編集

征韓論ならびに明治六年政変については当時から様々な議論や憶測が行われてきた[23]日清戦争日露戦争の後には征韓論者としての西郷が大陸経綸の先駆者として称揚され、内治優先を唱える側からは大久保らの開明性が強調されていた[23]戦後になると、大久保らも朝鮮侵略の方向性においては征韓派と根本的に違いがなかったと言う指摘が行われている[23]。その中でも基本的に、西郷が征韓を主張したことと、西郷ら留守政府派と、内治を優先する使節団派の対立の原因となり、政府を分裂させるに至ったという認識は基本的に疑われなかった[23][24]。一方で煙山専太郎1907年の著書『征韓論実相』において「征韓論」という名称に語弊があると指摘している[25]。西郷が近い将来における征韓を視野に入れて朝鮮使節を志願したとする意見と朝鮮の開国および同国との修好関係の実現を平和的交渉によって自ら成し遂げようとしたのだとする意見とが対立した[26]

1970年代後半、毛利敏彦は一連の著作において、征韓論の中心的人物とされていた西郷隆盛は征韓を意図しておらず[24]、明治六年政変の主因も朝鮮問題ではないと主張した[24]。毛利は、西郷が板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める平和的な遣韓使節として自らが朝鮮に赴くというものであり、大久保利通らとも決定的に決裂したわけではなく[23]、明治六年政変の主因も司法卿江藤新平ら反長州藩派の追い落としが目的で、征韓論は口実に過ぎないとしている[23]事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた[要出典][27][28]。この発表は従来の定説の事実認識を根底から覆すもので近代史研究の大きな争点の一つとなった[24]

これ以降研究は活性化し[24]2000年頃には毛利説の当否が征韓論争研究の中心となっていた[23]。一方で高橋秀直は毛利の研究の意義を高く評価しながらも、朝鮮問題が政変の実質的争点でなかったという毛利説の核心は否定している[24]田村貞雄は毛利説を批判し、西郷の征韓論者説を再確認しようとしている[29]

家近良樹は2018年の著書で「死に場所を求めて征韓論を提唱したといった評価が、学界では次第に支配的になりつつある。」としている[30][注釈 1][注釈 2]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ このような説の先駆としては、明治六年政変当時の参議であった大隈重信が、政界で行き詰まった西郷が最後の光明として朝鮮の宮廷で華々しく散ることを求めたという評価を行っている(坂本多加雄 1998, p. 55)
  2. ^ 『西日本新聞』によれば、原口泉は「西郷はロシアの脅威に連携して対抗しようと考えた遣韓論だった」と主張し、落合弘樹は「鹿児島県外の研究者で遣韓論をとる人は少ない。西郷がどこを目指そうとしていたのかなど考えが分かりにくいために議論がまとまらない」と指摘している、という。[31]

出典編集

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  1. ^ 田中彰「征韓論」『改訂新版・世界大百科事典 第15巻』平凡社、2007年9月1日 改訂新版発行、
  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『征韓論』 - コトバンク
  3. ^ 大野敏明『日本語と韓国語〈文春新書 233〉』文藝春秋、2002年 (平成14年) 3月20日 第1刷発行、ISBN 4-16-660233-0、97頁。
  4. ^ 藤村(1970)、13頁
  5. ^ 島田(1999)、11頁
  6. ^ 日本が「皇」という文字を使う事は無礼だ、として朝鮮は受け取りを拒否した。それまでは将軍が「日本国大君」「日本国王」として朝鮮との外交を行っていた。[要出典]
  7. ^ a b 坂本多加雄 1998, p. 55.
  8. ^ 「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(『公文録・明治八年・第三百五巻・朝鮮講信録(一―附交際書類)』、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01100124300、国立公文書館)9頁に次のように記されている:

    「朝鮮知守不知攻、知己不知彼、其人深沈狡獰固陋傲頑

    覺之不覺、激之不激、故断然不以兵力蒞焉、則不爲我用
    也、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於
    皇國、君辱臣死、實不戴天之寇也、必不可不伐之、不伐之

    皇威不立也、非臣子也」。

    すなわち、

    「朝鮮は守るを知りて攻めるを知らず、己を知りて彼を知らず、其の人は深沈・狡獰・固陋・傲頑、

    之を覺して覺らず、之を激して激せず、故に断然兵力を以って焉(いずく)んぞ蒞(のぞ)まざれば、則ち我が用を爲(な)さざる也、
    況や朝鮮は皇國を蔑視して、文字に不遜(ふそん)有りと謂(い)う、以って耻辱を皇國に與(あた)う、
    君を辱らるれば臣は死す、實(じつ)に不戴天の寇(あだ)なり、必ず之を伐たざるべからず、之を伐たざれば

    則ち皇威は立たざる也、臣子に非ざる也」。

  9. ^ 伊藤博文言行録 秋山悟庵 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:34
  10. ^ 維新英雄言行録 吉田笠雨 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:126
  11. ^ 西南記伝上巻1 黒竜会 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:175
  12. ^ 維新英雄言行録 吉田笠雨 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:126-127
  13. ^ 高橋秀直 1994, p. 51.
  14. ^ 高橋秀直 1994, p. 55.
  15. ^ 高橋秀直 1994, p. 52.
  16. ^ 高橋秀直 1994, p. 58.
  17. ^ 高橋秀直 1994, p. 62.
  18. ^ 高橋秀直 1994, p. 63.
  19. ^ 高橋秀直 1994, p. 65.
  20. ^ 高橋秀直 1994, p. 67-68.
  21. ^ 高橋秀直 1994, p. 71.
  22. ^ 高橋秀直 1994, p. 71-72.
  23. ^ a b c d e f g 吉野誠 2000, p. 2.
  24. ^ a b c d e f 高橋秀直 1994, p. 42.
  25. ^ 吉野誠 2000, p. 13.
  26. ^ 家近良樹「西郷隆盛-謎に包まれた超人気者」筒井清忠編『明治史講義【人物篇】〈ちくま新書 1319〉』筑摩書房、二〇一八年四月一〇日 第一刷発行、ISBN 978-4-480-07140-8、040頁。
  27. ^ 毛利(1979)による。[要ページ番号]
  28. ^ 板垣(1992)、61頁。
  29. ^ 吉野誠 2000, p. 5.
  30. ^ 家近 (2018)、041~042頁。
  31. ^ “西郷どん、実は親韓論者だった?定説『征韓論』に一石 28年前の大河ドラマ放映時にも論争”. 西日本新聞. (2018年1月25日). https://www.nishinippon.co.jp/item/n/389043 

参考文献編集

  • リチャード・アンダーソン「征韓論と神功皇后絵馬」『列島の文化史』第10巻、日本エディタースクール出版部、1996年3月、 ISSN 0289-7091
  • 自由党史』(上)、板垣退助監修、遠山茂樹佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫 青105-1〉、1992年(原著1957年3月25日)。ISBN 4-00-331051-9
  • 島田昌和第一(国立)銀行の朝鮮進出と渋沢栄一 (PDF) 」 『経営論集』第9巻第1号、文京学院大学総合研究所、1999年12月、 55-69頁、 ISSN 0916-9865
  • 藤村道生萬国対峙論の意義と限界――維新外交の理念をめぐって (PDF) 」 『九州工業大学学術機関リポジトリ』第18号、九州工業大学、1970年3月30日、 1-16頁。
  • 毛利敏彦明治六年政変』中央公論社〈中公新書〉、1979年12月18日。ISBN 4-12-100561-9
  • 諸星秀俊「明治六年「征韓論」における軍事構想」『軍事史学』第45巻(1) (通号 177)、錦正社、2009年6月、 43-62頁。
  • 吉野誠明治初期における外務省の朝鮮政策――朝廷直交論のゆくえ」『東海大学紀要 文学部』第72輯、東海大学文学部、1999年2月、 1-18頁。
  • 吉野誠「明治6年の征韓論争」『東海大学紀要 文学部』第73輯、東海大学文学部、2000年、 1-18頁。
  • 高橋秀直「征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1993年、 673-709頁、 NAID 110000235395
  • 家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局:体調不良を視野に入れて』、ミネルヴァ書房、‎2011、 95頁。
  • 坂本多加雄征韓論の政治哲学」『年報政治学』第49巻第6号、日本政治学会、‎1998、 55-69頁。

関連文献編集

  • 長南政義「西郷隆盛と「征韓論」」『歴史群像』第27巻、学研プラス、‎2018、 95頁。


関連項目編集

外部リンク編集