後楽園競輪場(こうらくえんけいりんじょう)は東京都文京区にかつて存在した競輪場である。

後楽園競輪場
Kourakuen suidobashi 1974.jpg
航空写真に見る在りし日の後楽園競輪場。1974年撮影(写真中央付近、芝生の施設)。右隣の施設は、後楽園球場。競輪場は現在の東京ドームがあるところになる。左隣の緑地は小石川後楽園
基本情報
所在地 東京都文京区後楽1-3
座標 北緯35度42分21秒 東経139度45分7秒 / 北緯35.70583度 東経139.75194度 / 35.70583; 139.75194座標: 北緯35度42分21秒 東経139度45分7秒 / 北緯35.70583度 東経139.75194度 / 35.70583; 139.75194
開設 1949年(昭和24年)11月2日
閉場 1972年(昭和47年)10月29日(休止扱い)
所有者 株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム
施行者 東京都
走路 400m
特別競輪
競技名 日本選手権競輪
開催月 11月
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概要編集

戦後福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区小倉南区)でスタートした競輪を戦後復興の一助にしようということで1949年東京都が主催して後楽園球場に隣接する場所に都内初の競輪場を開設。同年11月からレースを開催し、一般の競輪レース(9車立て)より3人多い12車立てで開催するユニークな経営方針を取り入れたことで人気を集めた。

1950年鳴尾事件が発生。全国的に競輪の開催ができなくなると、同年12月4日から再開されるまでの期間、スタンドの一部がゴルフ練習場として開放された。ボールは2ダースで50円の料金設定で夜間照明も行われた[1]

1958年1月の開催では、一開催の入場者数が約27万人を記録するなど、全国一の売り上げを誇った。また、コースの内側にはグラウンドが設置されており、オリンピック予選を始めとするサッカー日本代表の試合が開催されたり、ボクシングプロレスの興行、1958年には全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)が開かれたこともあった[2]

しかし1967年東京都知事に当選した美濃部亮吉が、「東京都営のギャンブルは全面的に廃止する」方針を固めることを明らかにしたことで、それに則って1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された[3]。ちなみに京王閣競輪場は都営が廃止されたあとも、競輪の開催を調布市など周辺市に主催を移譲して開催している。

競輪場としての使命を終えた同施設は、後楽園球場を経営する後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)によって「後楽園ジャンボプール」として改装され、場内にはスタンドを利用したゴルフ練習場も併設された。

その後、当地には1988年に日本初の屋根付き野球場である東京ドームが建設された。

なお、東京ドームは競輪の開催を見越してフィールド内に組み立て式トラック(400mバンク)が設営できるよう予め設計されており[4]、過去には東京ドームで競輪のレースを復活させようとする動きもあった。しかし、競輪の復活に対する文京区や周辺住民の強い反対もあり、現在のところ実現できる見通しは立っていない。なお、かつては年に一度、東京ドームで競輪・自転車競技のイベントが行われていたことがあり、実際にこの時はトラックが設営された。このことから2016年東京オリンピック構想においては、自転車競技のトラックレース部門にてこのバンクの使用が検討されたが、開催時期などの関係から大井ふ頭中央海浜公園内に仮設の自転車競技場を設営する計画となった(結果は招致失敗)。なお、2020年東京オリンピックにおける自転車競技のトラックレース部門は、当初計画では江東区有明の仮設会場であったが、のち静岡県伊豆市伊豆ベロドロームでの開催へと変更となり、東京ドームは東京オリンピックでは使用されない(野球競技も別会場を使用)。

エピソード編集

  • 2000年SPEEDチャンネルで放送された『名選手列伝・吉田実』によると、1960年11月3日の第15回全国争覇競輪最終日(決勝戦)には、推定7 - 8万人の入場者があり、スタンド内に押し込まれて身動きが取れなくなった約1500名のファンが、途中から金網を上ってバンク内へと入り込み、決勝戦は、観客をバンク内に入れたまま行うという異常事態の中で行われた。この事例により警察から指導が入ったこともあり、主催者だった東京都は、翌1961年の第16回全国争覇競輪の開催が既に決定していたにもかかわらず、警備が困難という理由から開催を返上。加えて代替地に名乗りを挙げる施行者も現れなかったことから、同大会は1963年3月に一宮競輪場で行われるまで開催できなかった。
  • 後楽園競輪の廃止に当たっては、選手会、競輪専門紙販売員、売店従業員、両替係のほか後楽園競輪予想組合(162人)も補償の申し入れを行った。しかし、予想組合の理事長の1人は現役の暴力団組長であり、交渉は難航した[5]

脚注編集

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  1. ^ 「これも穴ねらい 後楽園競輪場でゴルフ」『朝日新聞』昭和25年12月5日
  2. ^ 全日本自動車ショウは翌1959年 - 1987年まで、晴海東京国際見本市会場で開催された。
  3. ^ 法的には休止扱いとなっている。
  4. ^ 実際に、阪急ブレーブス → オリックス・ブレーブスの本拠地であった阪急西宮スタジアム(現存せず)でも、フィールド内にトラックを組み立てて競輪(西宮競輪)を開催していたことがあった。
  5. ^ 「暴力団も補償要求 予想業代表し組長」『朝日新聞』昭和47年12月6日.23面

関連項目編集