後藤祐乗

1440-1512, 室町時代の金工家。装剣金工の後藤四郎兵衛家の祖

後藤 祐乗(ごとう ゆうじょう、永享12年(1440年) - 永正9年5月7日1512年6月20日))は、室町時代の金工家であり、装剣金工の後藤四郎兵衛家の祖。

後藤祐乗像(個人蔵、重要美術品[1]

来歴 編集

藤原利仁の後裔ともされる後藤基綱の子。正奥幼名経光丸、通称は四郎兵衛。祐乗は剃髪入道してからの法号であるらしく[2]、一説に祐乗法印と称したという。子に彦四郎(早世)・宗乗(後藤家2代)などがいる。

美濃国の出身。後藤家の所伝によると、初め将軍足利義政側近の軍士として仕えていたが、18歳の時に同僚からの讒言を受けたために入獄し、獄士に請うて小刀と桃の木を得て神輿船14艘・猿63匹を刻んで見せたところ、その出来栄えに感嘆した義政によって赦免され、装剣金工を業とするように命じられたと伝えられる。また、足利家から近江国坂本に領地300町を与えられた他、後花園天皇から従五位下右衛門尉に叙任されたという。永正9年(1512年)5月7日に73歳で病没し、上品蓮台寺に葬られた。

作品 編集

現存する祐乗の作品には自署在銘のものはなく、無銘または後代の極め銘のものばかりであるが、小柄(こづか)・(こうがい)・目貫(めぬき)の三所物(みところもの)が主で、良質な金・赤銅の地金に龍・獅子などの文様を絵師・狩野元信の下絵によって魚々子地高肉彫で表したものが多い。祐乗の彫刻は刀装具という一定の規格のなかで、細緻な文様を施し装飾効果をあげるというもので、以後17代にわたる大判座および分銅座の後藤家だけでなく、江戸時代における金工にも大きな影響を与えた。代々通字として用いた。

代表作 編集

「獅子牡丹造小さ刀拵」(前田育徳会蔵、重要文化財)がある。

脚注 編集

  1. ^ 絹本著色。九曜紋のある素袴と折烏帽子を着け、足袋を履き、腰刀を一本指し、右手にはを持って高麗縁の上畳に座す。像の上部には日蓮宗の肖像画形式に従い、中央に「南無妙法蓮華経」の題目、向かって右端に「曾祖祐乗霊魂」、左端に「永正九年壬申五月七日」の墨書がある。「曾祖(曽祖父)」とあることから、曾孫が祐乗の冥福を祈って描かせたとみられる(奈良県立美術館編集・発行 『特別展「室町時代の肖像画」』、2000年、pp.43、83)。
  2. ^ 小笠原信夫 『国史大辞典』5巻「後藤祐乗」「後藤家」、吉川弘文館、1985年