徐 璜(じょ こう、生年不詳 - 164年)は、後漢宦官本貫下邳国良城県

経歴 編集

桓帝の初年、徐璜は中常侍となった。

ときに梁冀のふたりの妹が順帝と桓帝の皇后となったことから、梁冀が父の梁商に代わって大将軍となり、外戚として権勢を振るっていた。梁冀は太尉李固杜喬らを殺害し、梁皇后も多くの妃嬪を毒殺した。公卿や百官たちは口をつぐむようになり、梁氏一族の権勢を批判する者はいなくなった。桓帝も内心不満を抱きながら、廃殺を恐れて本心を漏らそうとしなかった。159年延熹2年)7月[1]、梁皇后が死去すると、桓帝は厠に行き、ひそかに宦官の唐衡を呼んで梁氏一族と確執のある側近がいないか訊ねると、唐衡は単超左悺・徐璜・具瑗を推薦した。桓帝は彼ら5人の宦官を呼び出して梁氏一族の粛清を謀議した。8月、司隷校尉の張彪が梁冀の邸を包囲して自殺させ[1]、単超が梁氏一族を収監してことごとく処刑した。徐璜は武原県侯に封じられた。単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡の5人は同日に封を受け、「五侯」と世間で呼ばれた。宦官たちが政権を掌握し、朝廷は乱脈を深めるようになった。

徐璜の弟の徐盛は河内太守となり、腐敗官僚として知られた。徐璜の兄の子の徐宣は下邳県令となり、最も暴虐なことで知られたが東海国相の黄浮に殺害された。164年(延熹7年)、徐璜は死去した。

165年(延熹8年)、左悺と具瑗が失脚すると、徐璜の後継者は郷侯に降封され、子弟で分封を受けた者は、ことごとく爵位や封土を剥奪された。

脚注 編集

  1. ^ a b 後漢書』桓帝紀

伝記資料 編集