徳川 五郎太(とくがわ ごろうた、正徳元年1月9日1711年2月25日) - 正徳3年10月18日1713年12月5日[1])は、尾張藩の第5代藩主。

 
徳川 五郎太
時代 江戸時代中期
生誕 正徳元年1月9日1711年2月25日
死没 正徳3年10月18日1713年12月5日
戒名 眞巌院源譽法仙性蓬大居士
墓所 徳興山建中寺平和公園
幕府 江戸幕府
尾張尾張藩
氏族 尾張徳川家
父母 父:徳川吉通、母:瑞祥院九条輔実女)
兄弟 三千君九条幸教室)、三姫徳川宗勝室)、五郎太
なし
なし
特記
事項
次当主、徳川継友
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生涯 編集

第4代藩主徳川吉通の長男。母は吉通の正室である九条輔実の娘・瑞祥院輔子。輔子の実母益子内親王は後西天皇の息女。吉通の父の第3代藩主徳川綱誠は、第2代藩主徳川光友と3代将軍徳川家光の長女の霊仙院千代の嫡男である。また、母方の祖父の九条輔実は、豊臣秀勝秀吉の甥)の娘である完子の曾孫にあたる。つまり、五郎太は徳川将軍家越前松平家豊臣家皇室五摂家の血を引いていた。

正徳3年(1713年7月21日、父の吉通が生母本寿院(五郎太からは祖母にあたる)との会食ののち急に吐血し、同月26日に死去した。享年25(満23歳)であった[2]。家督は幼い五郎太が継ぐこととなった[3][注釈 1]

しかし、五郎太も相続の約2ヶ月後の10月18日、数え3歳で死去した[3]。家督は叔父の徳川継友が継いだ。

官位は生前にはなく、11月3日、贈従三位参議。法名は贈三品宰相眞巌院源譽法仙性蓬大居士。

墓所は名古屋市東区筒井の徳興山建中寺にあったが、第二次世界大戦空襲で破壊されてしまい、現在は位牌が祀られるのみである。

尾張徳川家嫡男の幼名「五郎太」 編集

五郎太は元来、 初代藩主徳川義直の幼名であり、代々の尾張徳川家嫡男に付けられる幼名であった。他には以下の人物が五郎太と名付けられていた。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 儒学者室鳩巣は著書『兼山麗澤秘策』に、7代将軍家継の後見人として、徳川吉宗の最大のライバルであった吉通の突然の死に関し、「食後に血を吐き、苦しみながら死んだ。医者も全く手に負えなかったため、多くの者がその死を疑った」と記述している。

出典 編集

参考文献 編集

  • 竹内誠『大系日本の歴史10 江戸と大坂』小学館小学館ライブラリー〉、1993年4月。ISBN 4-09-461010-3 

外部リンク 編集