徳川義礼
徳川 義礼(とくがわ よしあきら、文久3年9月19日(1863年10月31日) - 明治41年(1908年)5月17日[1])は、明治時代の侯爵、貴族院議員。尾張徳川家第18代当主。正字体では德川 義禮。
![]() 徳川義礼 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文久3年9月19日(1863年10月31日) |
死没 | 明治31年(1908年)5月17日 |
改名 | 松平晨若→徳川義礼 |
墓所 | 建中寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 尾張徳川氏 |
父母 |
父親:松平頼聰 養父:徳川慶勝 |
兄弟 | 松平頼寿、松平胖、徳川總子 ほか |
妻 |
前妻:徳川鴻子(徳川慶勝の四女) 後妻:徳川良子(徳川慶勝の七女) |
子 |
米子 婿養子:義親 |
経歴 編集
讃岐高松藩主松平頼聰の次男。幼名は晨若。明治9年(1876年)5月9日、尾張徳川家当主徳川慶勝の養子となり、明治13年(1880年)9月27日に家督を相続する。明治17年(1884年)7月、華族令制定にともない侯爵となる。同年9月からイギリスに留学、明治20年(1887年)10月に帰国する。留学によりキリスト教に惹かれるようになったようである。
帝国議会開設に伴い、明治23年(1890年)2月、貴族院侯爵議員となる[1]。明治24年(1891年)、芸妓に入れ込むようになったとされる義礼の不品行をめぐり、旧尾張藩士らが養子縁組解消を要求し、大きな騒動となったが、徳川家達ら徳川一門の仲裁によって取り静められる。神奈川県中郡大磯町の別荘跡地は、現在は大磯町立大磯中学校となっている。
明治41年(1908年)に徳川義親(松平春嶽の五男)を長女・米子の婿養子とし、同年に義礼が死去すると義親が家督を相続した。
栄典 編集
脚注 編集
参考文献 編集
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
侯爵 (尾張)徳川家初代 1884年 - 1908年 |
次代 徳川義親 |