徳源院 (古河市)
茨城県古河市にあった寺院
徳源院(とくげんいん)は、茨城県古河市鴻巣字徳源院にあった臨済宗の寺院。鎌倉・円覚寺の末寺。山号を興王山、院号を徳源院という[1]。明治初期に廃寺となり、現在は古河総合公園の中に跡地が残されている[2]。古河公方ゆかりの寺院であった。
徳源院 | |
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徳源院跡 | |
所在地 | 茨城県古河市鴻巣字徳源院409(古河総合公園内) |
位置 | 北緯36度10分44.677秒 東経139度42分5.407秒 / 北緯36.17907694度 東経139.70150194度座標: 北緯36度10分44.677秒 東経139度42分5.407秒 / 北緯36.17907694度 東経139.70150194度 |
山号 | 興王山 |
院号 | 德源院(徳源院) |
宗派 | 臨済宗 |
創建年 | 不明(戦国時代) |
開山 | 季龍周興 ? |
開基 | 足利義氏 ? |
正式名 |
興王山徳源院 興王山德源院 香雲院(旧称) *瑞雲院(旧称) *芳春院(旧称) |
文化財 | 古河公方足利義氏墓所(茨城県指定・史跡) |
歴史
編集江戸時代後期に書かれた『古河志』[1]・『許我志』[3]では、天正10年(1582年)に逝去した[4]第5代古河公方足利義氏の開基とされている。これは当院過去帳の付記にて、かつての寺名が義氏の法号「香雲院」とされていることが根拠と考えられるが、他の史料による裏付けがない[5][2]。なお、徳源院の前身である芳春院の開山を義氏に仕えていた季龍周興とする文献もある[6]。
一方、『円覚寺史』[7]掲載の末寺帳や鎌倉・東慶寺の文書から、当初は第3代足利高基正室の法号「瑞雲院」を称し、次に第4代足利晴氏正室の「芳春院」、最後に第5代足利義氏の娘・氏姫の「徳源院」と改められたとも考えられており[5][8]、この場合はさらに時代を遡る。公方家代々の女性にゆかりが深い寺院であるとも言える[2]。
本院は金藏山永僊院・感湖山松月院とともに、古河の「足利開基三ヵ院」と称されていたという(『古河志』)[1]。江戸時代後期は、他の三ヵ院同様に無住持の状態が続き、明治4年(1871年)には廃寺となって、栃木市藤岡町蛭沼・山王寺に合併された[9][5]。跡地は、現在の古河総合公園の中にあり、茨城県指定文化財(史跡)とされている。
文化財
編集交通
編集脚注
編集- ^ a b c 『古河市史 資料 別巻』 296-298頁(古河志・徳源院)
- ^ a b c 『古河市史 通史編』 195-196頁(徳源院)
- ^ 『古河市史 資料 別巻』 526頁(許我誌・徳源院)
- ^ 三島暦の天正10年閏12月20日。京暦では天正11年になる。
- ^ a b c d 山口美男「古河公方「三ヵ院」変遷の考察」 『古河市史研究』 第2号、1977年、古河市、54-68頁
- ^ 佐藤博信「季龍周興」(『戦国人名辞典』(吉川弘文館 2006年 ISBN 978-4-642-01348-2)P381-382.
- ^ 玉村竹二・井上禅定『円覚寺史』春秋社、1964年 (第五章第四節「黄梅院末派の発展」)
- ^ 山口美男 「補足 古河公方「三ヵ院」の前身について」 『古河市史研究』 第5号、1980年、古河市、44-49頁
- ^ 市内長谷町一向寺所蔵の『山王寺什具取調帳』より
- ^ 『古河市の文化財』 11頁
- ^ 駅西口前「花桃館」(まちなか再生市民ひろば)にて・古河市公式ホームページ 観光・歴史 古河市の観光パンフレット Archived 2015年9月23日, at the Wayback Machine.より
参考文献
編集- 古河市史編さん委員会 編 『古河市史 通史編』 古河市、1988年
- 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料別巻』 古河市、1973年
- 古河市文化財保護審議会 編 『古河市の文化財』 古河市、1993年