忌むべき十年間
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1823年 - 1833年 フェルナンド7世 - 変遷
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忌むべき十年間(いむべきじゅうねんかん、カスティーリャ語:Década Ominosa)は、スペイン王フェルナンド7世の治世のうち最後の10年間を指す言葉で、1823年10月1日のカディス憲法廃止から1833年9月29日のフェルナンド7世の死までの期間である。
スペインの歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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背景編集
スペインが半島戦争に勝利してナポレオンの支配から解放された後、フェルナンド7世が国王に即位した。彼は1814年3月24日にスペインに帰還し、1812年憲法の廃止をまず最初に行った。これに続き、その後、5月10日にスペイン議会の両院が解散された。
これは厳しい反自由主義的行動への最初の動きに過ぎず、1820年1月にラファエル・デル・リエゴ将軍による一連の軍事暴動を引き起こした。1820年3月10日にマドリードで行われた式典で厳粛な宣誓が行われ、国王は憲法の再導入を強いられた。これはいわゆる「自由主義の三年間(Trienio Liberal、"Liberal Triennium"、または Constitutional Triennium)」の始まりで、この期間中、フェルナンド7世は主要な絶対主義的制度や特権が崩壊し、議会の多数派が急進主義に傾いていくのを目の当たりにした。
しかし、フェルナンド7世は反動的な目標を捨てていなく、1814年のウィーン会議において、ヨーロッパの主要な絶対主義君主国のいずれかが民主主義革命を起こした場合に、互いに助け合うという神聖同盟を結んだことをアピールした。1823年4月7日、フランスは遠征を開始し、アングレーム公ルイ・アントワーヌが率いた「聖王ルイの10万人の息子たち(Los Cien Mil Hijos de San Luis)」がスペインに侵攻した。5月24日、自由主義派がマドリードを放棄し、フェルナンドが囚われの身となった商業都市カディスに避難した後、ルイはマドリードで歓迎を受けた。
ここで民主的なコルテスが開かれ、王の退位が宣言された。フランス軍は自由主義革命派の敗北と街の降伏を意味したトルカデロの戦いが行われた8月31日まで、街を包囲した。
歴史編集
反動的な復位編集
フェルナンド7世が復位した後、彼は敵の制圧に力を入れたので「忌むべき十年間」として知られる治世の時代に入った。自由主義党員の多くは、ロンドン(ナポレオンとの戦争に参加したことでイギリス政府から金銭的援助を受けた者もいた)、パリ、マルタ、アメリカ、また南アメリカの新興の共和国に逃亡した。その代わりに、革命の象徴であったデル・リエゴが1823年11月7日にマドリードのラ・セバダ広場で絞首刑にされるなど、惨殺された人もいた。
厳しい検閲が再び導入され、また古風で反動的な大学組織が法務大臣フランシスコ・タデオ・カロマルデの厳しい管理のもとで導入された。彼は反対派を弾圧し、イエズス会(18世紀末にブルボン家によって違法とされた)や修道院などの旧制度を復活させた黒幕であった。フランス軍はスペインに留まり、「事実上」占領軍としての役割を果たした。しかし、その補給コストが重く、南米革命の影響もあって自由主義政権下で枯渇していたスペイン金庫にさらなる打撃を与えた。
スペイン軍の不満は、立憲内閣崩壊直後の1823年にフェルナンド7世が自由主義派を直接弾圧するために創設した民兵「王党派義勇軍( Voluntarios Realistas)」の結成によってさらに拍車がかかった。1826年、民兵は約20万人に達し、その半数が486の歩兵大隊、20の砲兵中隊、52の騎兵中隊、そしていくつかのサッパー中隊に含まれていた。
政情不安編集
1831年12月11日にはイギリスの自由主義者の出資によるトリホスの革命が起きたように、この10年間は暴動や革命の企てが後を絶たなかった。自由主義派とは別に、フェルナンドの政策は保守派の不満も引き起こした。1827年にはカタルーニャで反乱が起こり、その後バレンシア、アラゴン、バスク、アンダルシアに拡大した。これらは、特に異端審問を復活させることに失敗したフェルナンドの復位はあまりにも臆病であるとする反動的な人々によっておこった。アグラヴィアードの戦いと呼ばれる戦争の中で、約3万人の兵士がカタルーニャの大部分と北部のいくつかの地域を支配し、自治政府まで設立した。フェルナンドは自ら介入し、タラゴナに移動して反乱を鎮圧した。彼は恩赦を約束したが、一旦暴徒が降伏すると、指導者を処刑してその他の人をフランスに追放した。
1830年3月31日にフェルナンドが、父であるカルロス4世が1789年の時点で承認していながら、それまで公表されていなかった「国事詔書」を発表したことで、さらなる政情不安に陥った。この勅令によって、男子の相続人がいないときに女子がスペイン王位を継ぐことができるようになった。フェルナンドは二人の子を持つことになるが、二人とも女子であり、1830年10月に生まれた一人は、後に女王イザベル2世として即位することになる。また、この詔書により、フェルナンドの弟モリナ伯カルロスが相続人から除外された。
フェルナンドの病気と死編集
晩年、彼は深刻な病に襲われ、自分のことを自分で指揮できなくなった。彼の若い妻であるマリア・クリスティーナが摂政となった。もう一人の宰相ドン・カルロスは絶対主義の王だと考えられていたので、マリア・クリスティーナは自由主義の反対派に支持を求めることにした。
彼女の方針は、カルロスの支持者(カルリスト)との軋轢を深めた。1833年にフェルナンドが亡くなると、カルロスはカルロス5世と名乗り、王位継承者として正統な地位を確立することを宣言した。これが第一次カルリスト戦争の始まりであった。