志摩 八郎・辰巳 柳子(しま はちろう・たつみ りゅうこ)は、戦中から戦後期にかけて活動していた漫才コンビ(夫婦漫才)である。

メンバー 編集

本名:梨本 繁雄(なしもと しげお)。大阪の生まれ。名の表記は「志 八郎」[1]とも。芸人仲間の愛称は「志摩八ちゃん(しまはっちゃん)」。
無声映画の楽士(バイオリン奏者)を経て、島陽之助一座の役者となった(島田洋之介・今喜多代の島田洋之介やミスワカサ・島ひろしの島ひろしとは兄弟弟子)。この経歴のため「楽譜の読める最初の漫才師[2]」と称された。島田洋之介とは、長らく漫才コンビを組んでいた事もある。
戦後すぐに専業の漫才作家に転じた。1951年宝塚新芸座に入り、その後1958年からは上方演芸(のちの松竹芸能)に移って文芸課長[2]を長く務めるなど、秋田實に帯同。秋田の「右腕」として活動した。様々なコンビ(ミスワカサ・島ひろし、人生幸朗・生恵幸子など)の新作を多数書き上げ、小島貞二は「秋田實より多く書いた漫才作者[2]」としている。幸朗は「志摩さんのものがいちばんやりやすかった[2]」と特に信頼を寄せていた。漫才作家協会では丹田重雄会長のもとで副会長を務めた[2]
著書に「昭和爆笑漫才集[1]」。
  • 辰巳 柳子(たつみ りゅうこ)

コンビ略歴・芸風 編集

戦前から地方を回って活動していたが、わらわし隊に憧れ、大阪で本格的に漫才の道に進んだ。

八郎は洋装でバイオリンを手に持ち、柳子も時折ギターを持った。演歌師ばりのノンキ節を唸るなどの音曲漫才を披露していた。

秋田Aスケ・Bスケ夢路いとし・喜味こいしらとともに「青春ブラザーズ」という音楽ショウの一員でもあった。

エピソード 編集

  • 八郎は自身の年齢を周囲に知られることを極端に嫌った。芸界の仲間たちは、八郎が亡くなったときにようやく本当の年齢を知った[2]
  • 八郎はあるとき、「秋田實」の名前を使って台本を書いた。八郎いわく、「秋田はんの名前使うだけでギャラが3倍ぐらいちゃうんでっせ」。
  • 紙切り師の香見喜利平は当初本名で舞台に出ていたが、ある日八郎に「今日から香見喜利平に変えなはれ」と突然言われ、改名した。

脚注 編集

  1. ^ a b 書誌詳細『昭和爆笑漫才集』(漫才作家協会 1974) 国立国会図書館サーチ
  2. ^ a b c d e f 小島貞二『漫才世相史 改訂新版』毎日新聞社、1978 p.15

出典 編集

  • 桂米朝上岡龍太郎『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』朝日新聞出版、2000年。ISBN 4-02-257522-0