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応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による倭寇討伐を目標とした対馬攻撃を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征기해동정)と言われる。当時足利義持が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている[2]

応永の外寇(己亥東征)
戦争:応永の外寇(己亥東征)
年月日応永26年6月20日(1419年7月12日) - 同年7月3日(1419年7月25日
場所日本対馬、糠岳
結果:李氏朝鮮の撤退
交戦勢力
So clan mon2.svg対馬国(日本) Flag of the king of Joseon.svg 朝鮮国
指導者・指揮官
So clan mon2.svg 宗貞盛 Flag of the king of Joseon.svg 世宗李従茂
戦力
不明 17,285人
損害
死者 少なくとも123人~200人
捕虜 175人(日本人捕虜21人、救出された朝鮮人・中国人捕虜154人)
180-2,500人[1]

この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。

背景編集

前期倭冦編集

高麗史と日本側の記録によると、倭寇は元寇以前にも存在して高麗から財産を略奪したが[3]その活動が目に立つほど頻繁になったのは、1350年からであった[4]。その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという[5]。このため、1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出した[6]康応の外冦)。

高麗が李氏朝鮮に代わった後にも倭寇は半島各地に被害を与えるが、対馬の守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化した事や、幕府で足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事によって、14世紀末から15世紀始めにかけて倭寇は沈静化していった。

しかし、新たに将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)にとの国交を断絶した。対馬においても宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、宗貞盛が跡を継いだが、実権を握った早田左衛門大郎は倭寇の首領であった。

 
14世紀末倭寇討伐で軍功を上げた鄭地将軍の鎧、鎖と鉄板を繋いだ物で朝鮮ではこのような鎧が鏡幡甲と呼ばれた[7]
 
14世紀~15世紀倭寇討伐で活躍した太祖 (朝鮮王)李成桂の刀「伝御刀」長さ147㎝, 刀身の長さ92㎝

経緯(朝鮮側の記録)編集

対馬側には同時代資料がないため、ここでの記載は主として朝鮮王朝実録に基づく。西暦日付はユリウス暦で示す。

対馬侵攻の決定編集

朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが[8]、応永26年5月7日(1419年5月31日)、対馬での飢饉によって数千人の倭寇が明国浙江省に向かっていた途中、食糧不足で朝鮮の庇仁県(今の韓国忠清南道舒川郡)を襲撃し[9]、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した[10]。この倭寇は5月12日(6月5日)、朝鮮の海州へも侵犯し[11]、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した[12]。朝鮮の上王である太宗は、これが対馬と壱岐からの倭寇という事を知り[13]、5月14日(6月7日)、対馬遠征を決定。世宗に出征を命じた。

朝鮮側は5月23日(6月16日)に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝え[14]、5月29日(6月22日)には宗貞盛(宗都都熊丸)に対してもその旨を伝達した[15]。一方、朝鮮に来た倭寇集団は、以後に朝鮮を脱して遼東半島へ入ったが、そこで明軍に大敗する(望海堝の戦い、中国名:望海堝大捷)。

対馬に侵攻する朝鮮軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた[16]

朝鮮軍司令部の構成は次の通りであった[17]。三軍都體察使李従茂 中軍節制使禹博李叔畝黃象爲 左軍都節制使柳濕 左軍節制使朴礎朴實 右軍都節制使李之實 右軍節制使金乙和李順蒙

太宗は朝鮮軍が対馬へ行く前に「ただ盗賊のみを討て。宗貞盛には手を出さず、九州は安堵せよ。」と命じた[18]

朝鮮の軍事力編集

朝鮮王朝実録によると世宗3年(1421年)、朝鮮八道の中一つである平安道だけでも騎兵10815人、歩兵11312人、陸軍水軍合わせて77487人の兵力を保有していた。[19] 1407年、朝鮮軍に規格化された盾が作られ、左手には盾を右手には剣を持った「防牌軍」という兵種が創設された[20]。応永の外寇が起きた1419年には数千人の防牌軍が 世宗のお出ましに同行したという記録がある[21]。この防牌軍は拳法(手拍戯)で戦わせて3人を勝つ者を選んで選抜した[22]。1410年、武官を選抜する試験では木剣を持った防牌軍と槍を持った甲士(朝鮮の職業軍人)を勝負させ甲士2人が木剣で傷を負って翌日死亡する事もあるほど厳しい軍事訓練が行われた。武官を選抜する試験では火薬武器を放つ試験も同時に行われた[23]。ただし防牌軍が対馬遠征軍に加わったという記録は見当たらず、対馬遠征軍は甲士、別牌侍衛牌と呼ばれる兵種と船に慣れている一般百姓出身の兵士で構成されていた[24]。また、1413年から朝鮮では倭寇との海戦経験から亀甲船が開発され実用化されていた。[25][26]

 
朝鮮水軍
 
朝鮮三道水軍操練戦陣図
 
亀甲船
 
16世紀女真族を討伐する朝鮮軍 「壯襄公征討時錢部胡圖」 韓国陸軍博物館所蔵
 
壯襄公征討時錢部胡圖
 
朝鮮水軍

世宗時代の朝鮮軍の武装に関しては世宗実録の兵器項目を参照 http://sillok.history.go.kr/id/kda_20008001

 
朝鮮軍の盾
 
   朝鮮軍の盾
 
朝鮮の弓
 
朝鮮の片箭(小型の矢を込めて遠く飛ばせる道具)
 
朝鮮軍の槍
 
    朝鮮軍の刀
 
    朝鮮軍の鎧
 
    朝鮮軍の鎧
 
朝鮮の小碗口(青銅製の火砲)
 
朝鮮軍の銃筒(火薬武器)
 
     朝鮮軍兜
 
    朝鮮軍兜
 
     朝鮮軍の矛
 
    朝鮮軍の斧
 
  朝鮮の長剣

糠岳での戦闘編集

6月19日(7月11日)、朝鮮軍は巨済島を出航した。[27]
6月20日(7月12日)昼頃、対馬の海岸(尾崎浦)に到着した。対馬の盗賊たちは、先行する朝鮮軍10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した[28]。その中50人ほどが朝鮮軍の上陸に抵抗するが、敗れ険阻な場所へ走り込む[29][30]。上陸した朝鮮軍はまず、出兵の理由を記した文書を使者に持たせ、対馬の宗貞盛に送った。だが答えがないと[31]、朝鮮軍は道を分けて島を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした[32]。また同日、倭冦に捕らわれていた明国人男女131人を救出する[33]。以後、朝鮮軍は船越に進軍し、柵を設置して島の交通を遮断し、僅かな食糧を持って山に逃げ込んだ盗賊たちの飢え死にを図って、長く包囲し留まる意を示す[34]
6月29日(7月21日)、李従茂は部下を送り、島を再度捜索し、加えて68戸と15隻を燃やし、9人を斬り、朝鮮人8人と明国人男女15人を救出する[35]。そして仁位郡まで至り、再び道を分け上陸した。しかしその頃、対馬側はすでに壱岐松浦党に援軍を要請し険難な山の奥に伏兵を配置していた。[36]そして朴実が率いる朝鮮左軍が、糠岳で対馬側の伏兵に会い敗北、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死した。だが朝鮮右軍が助けに入り、右軍の武官・李順蒙が対馬側の先鋒の指揮官らしき者を矢で射ち殺すと、対馬側は退いた[37][38]

撤収編集

6月29日、遠征の報告のため朝鮮に戻っていた従事官、趙義昫が対馬に帰ってきた[39]。この時、崔岐という太宗の使いが同行しており、遠征軍に二つの宣旨(手紙)を届け、全てを仔細に李従茂と論じたとおりせよと命令した[40]。その内容は、「7月は暴風が多いため、長期的に留まることを避けること」[41]、および「李従茂は宗貞盛及びその他の日本人に太宗の意を論ぜよ」[42]というものであった。このような楽観的とも言える宣旨がなされたのは、この時点では朝鮮軍が敗北したとの報告が太宗には届いていなかったためであった[43]。また、宗貞盛からも「朝鮮軍が長期間留まることを恐れるため、修好と撤退を願う。7月は暴風が吹くため大軍が留まるのは(朝鮮側にとっても)良いことではない」との文書が送られた[44]。7月3日、軍船は対馬から巨済島に戻った。

損害編集

『世宗実録』では6月29日の戦いで死者百数十人[45]、7月10日(8月1日)の記録として戦亡者180人となっている[46] 朝鮮側は応永の外寇の際戦没した朝鮮軍の遺族全員に米と豆を支給した。[47]対馬側の被害は正確には知られてないが、朝鮮の史料によると対馬の人名被害は200人に近く、対馬の糠岳には殿様壇という墓があり、応永の外寇の際戦死した対馬の守護宗貞茂の墓と伝えられているが、実際宗貞茂は前年に病死しており、誰の墓かは判明されていない。

撤収後の影響編集

糠岳での戦闘に関して朝鮮では「朴実が負ける時、護衛し共にいた11人の中国人が、我が軍の敗れる状況を見てしまったので、彼らを中国に帰らせて我が国の弱点を見せることはできない」という左議政(高位官吏)の主張があった[48]。その為、朝鮮の通訳が中国人に所見を聞くと「戦死者、倭人20人余り、朝鮮人100人余り」と朝鮮側の被害を多く言った[49]。これについて、崔雲等が「中国は北方民族との戦いで、遠征軍の兵士たちの過半数を失った例があります。100人の死、何が恥になるでしょうか?」と主張し、太宗がこれに賛同し、中国人たちを明国へ帰すこととなった[50]朴実は軽率だった罪により投獄され李従茂も朝鮮の大臣たちの非難を受けたが、東征(対馬遠征)にとって敗北は少く勝利は多かったとして[51]、後に朴実は免罪、李従茂は昇進する事になった。対馬遠征で功績があると官職を受けた朝鮮人は200人余りであった[52]。 また対馬については、「我が族類にあらず(島倭非我族類)」と前言を翻し、さらに朝鮮の京中・慶尚及び全羅道にいた対馬人を僻地に移転させることを決定[53]した。

対馬再征計画編集

7月9日(7月31日)に、明国から敗れ対馬に帰還する倭寇の迎撃のために、対馬への再遠征が提案されている[54]が、台風が静まることを待ってから軍隊を整えて再遠征しても遅くはないとし、結局実現しなかった。

日本側の記録編集

対馬には同時代の記録はない。日本側の同時代資料には少弐満貞の注進状がある。その内容は、以下のようなものであった[55]

「蒙古舟」の先陣五百余艘が対馬津に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日に終日戦い、異国の者どもは全て敗れ、その場で大半は討ち死にしたり、召し捕らえた。異国大将二名を生け捕りにし、その白状から、今回襲来した五百余艘は全て高麗国(朝鮮)の軍勢であること、唐船2万余艘が6月6日に日本に到着する予定であったが、大風のために唐船は到着せず、過半は沈没した。合戦中に奇瑞が起こり、また安楽寺(太宰府天満宮)でも怪異・奇瑞が起こった。

唐船2万余艘は事実ではないが、戦闘の日付は朝鮮側資料と合致する。満貞は自身が戦闘に参加したと足利義持に報告しているが[56]、朝鮮軍が短期で撤退したこともあって日本本土からの援軍は送られておらず、満貞も戦闘には参加していない。

対馬侵攻が実施されたのは、丁度室町幕府と明王朝との関係が悪化していた時期であった。看聞日記の5月23日の記載には、「大唐国・南蛮・高麗等、日本に責め来るべしと高麗より告げる。室町殿仰天す」(日付の観点から朝鮮王朝実録にある「5月23日に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝えた」ことを反映したものではない[57])とあるが、8月7日に少弐満貞が対馬に「蒙古舟先陣五百余艘」と注進したために、幕府と朝廷は三度目の元寇かと恐れ、対馬侵攻をその前兆と考える向きもあった。この外寇の真相を究明するため、室町幕府はこの年、大蔵経求請を名目に日本国王使・無涯亮倪一行を朝鮮に派遣した。翌年朝鮮からは回礼使・宋希璟一行が来日する。京都に着いた宋希璟は、初め足利義持に冷遇された。その原因が、応永の外寇にあると知った希璟は、陳外郎や禅僧らを介して、外寇の原因は倭寇にあることを力説し、義持の理解を得るに至った。こうして日朝関係は国家レベルでは和解した[58]

また8月13日の『看聞日記』は7月15日付けの「探題持範注進状」として、以下の内容を紹介しているが、当時の九州探題は渋川義俊であり、現在は少弐満貞の注進状を基にした偽書とみなされている[59]

6月20日、「蒙古・高麗」の軍勢500余艘が対馬島に押し寄せ、対馬を打ち取ったので、「探題持範」と太宰小弐(満貞)の軍勢がすぐに対馬の「浦々泊々の舟着」で日夜合戦したが、苦戦をしたので九カ国(九州)の軍勢を動員し、6月26日に合戦をし、異国の軍兵三千七百余人を打ち取り、海上に浮かぶ敵舟千三百余艘は、海賊に命じて攻撃させ、海に沈む者が甚だ多かった。雨風・雷・霰の発生や大将の女人が蒙古の舟に乗り移り、軍兵三百余人を手で海中に投げ入れるなど、合戦の最中に奇特の神変が多く起こった。6月27日に異国の残る兵はみな引き退き、7月2日には全ての敵舟が退散したが、これは「神明の威力」によるものである。

300年後に編纂された『宗氏家譜』(1719年)では、対馬側の反撃により糠岳で朝鮮左軍が大敗する等、苦戦を強いられた朝鮮軍は撤退したとしている[1]。この際の日本側の戦死者を123人、朝鮮兵の死者を2500人余りとしている[1]。朝鮮側の資料とは大きく食い違うが、探題持範注進状の3700人に近い数字となっている。

対馬の使臣編集

9月、朝鮮に『都伊端都老』という対馬の使者が来て降伏を請い、印章の下賜を求めた[60]。そして翌年には『時応界都(辛戒道)』という対馬の使臣も朝鮮に来て、宗貞盛が朝鮮への帰属を願っていると伝えた。これを受け朝鮮では、貞盛に「宗都々熊丸」(都々熊丸は貞盛の幼名)という印を与えるとともに、対馬を慶尚道へと編入することを決めた[61][62]。しかし、回礼使として日本へ派遣された宋希璟が対馬に立ち寄った折、当時の対馬最大の豪族早田左衛門大郎から編入について抗議を受ける[62]。さらに応永28年、対馬から朝鮮へと派遣された使者仇里安が朝鮮への帰属を否定[63][64]。属州化は有耶無耶となった。これ以降も朝鮮では、対馬が慶尚道に属する朝鮮の島であるという認識が残り[63]、現在でもそのような見方は「対馬島の日」条例などに代表されるように、一部には残っている。

その後編集

戦後、対馬と朝鮮の間に使節は相変わらず往来する。1419年10月17日、倭寇の首領早田左衛門太郎は「貴国が本島(対馬)を討つ時、王命を敬い、矢一本撃たなかった」と朝鮮に拘留されていた対馬人の送還を願い出た[65]。1419年12月2日、糠岳で対馬側の攻撃によって体に矢2本を撃たれて行方不明になった朝鮮の将校金亥の息子金彦容が対馬に行って父を探すことを朝鮮の朝廷に願い、これが許された[66]

1426年、早田左衛門大郎の要請で朝鮮は釜山浦乃而浦以外にも塩浦を開港し、両国間の貿易が再度活発化した。しかし、来往する日本人の数が日々増え、接待費などが朝鮮に負担となり[67]1443年、朝鮮は対馬と嘉吉条約(癸亥約条)を結び解決する。なお、朝鮮は倭冦制御の一環として、対馬の色々な人に官職を与え[注釈 1]、特に1461年、貞盛の子、宗成職(そうしげもと)にも官職を付与した。以後、朝鮮は定期的に、食料の少ない対馬に(海賊活動しないように)米を下賜することになったが、宗氏の側ではこれを朝鮮からの貢物と称して日本国内に喧伝した[要出典]

朝鮮が対馬人に対する帰化・救恤等の政策を行ったため前期倭寇は一応衰退していく。1430年の朝鮮の記録によると当時朝鮮は応永の外寇の際朝鮮軍が威力を見せたことで倭寇が暴虐なことをそれ以上しないようになったと認識していた[68]嘉吉条約を結んだ翌年である世宗26年(1444年)をもって倭寇終息を宣言し、明にも報告した。また海賊貿易である倭寇が減ったことで、正規の貿易はむしろ増加し、制限するために通交統制が用いられるようになる。

それが恒居倭人(朝鮮に居住する日本人)の増加を促し、三浦の乱が起きた原因となった。乱後の交渉は、対馬の宗氏が偽使を介して行ったので、以後の日朝貿易は事実上の対馬独占となった。

その後、倭寇は一時的に衰退に向かうが、約一世紀後には明の海禁を破った中国人と日本人の集団が海に繰り出して後期倭寇として勃興した。

同時代資料編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 例えば対馬人皮古三甫羅(彦三郎)」が『宣略将軍』という朝鮮の官職に任命された事を表す文書は今まで残っている。

出典編集

  1. ^ a b c 『宗氏家譜』「應永二十六年己亥六月廿日、朝鮮將李從茂率戰艦二百二十七艘、卒一萬七千二百八十五人、到對馬州與良郡淺海浦。州兵拒之海濱不利。朝鮮兵到仁位郡、分道下陸、竟進屯糠獄。貞茂率州兵、到糠嶽下。侵矢石攻之。連戰數日、七月初一日、與左軍朴松戰大破之。朝鮮兵狼狽走海濱乘船、貞茂使海人放火。以燒賊船。齋藤、立石等發兵撃之。賊兵大潰而還。我兵戰死者百二十三人。斬賊二千五百餘級。」
  2. ^ 三浦 1922, pp.812-818
  3. ^ 倭寇熊神縣勿島 掠州縣貢船 ○八月 洪泞等 還自日本曰 窮推海賊 乃對馬島倭也ー『高麗史節要1263年』庚午遣監門衛錄事韓景胤權知直史館洪貯于日本請禁海賊ー『高麗史1259年7月』四夏月,倭寇金州,防護別監盧旦,發兵,捕賊船二艘,斬三十餘級,且獻所獲兵仗。○五月,倭寇熊神縣,別將鄭金億等,潛伏山間,突出,斬七級,賊遁ー『高麗史節要1227年』倭寇金州ー『高麗史節要1223年5月』 日本側の倭寇記録は松浦党ウィキ項目の対外関係項目を参照 「鎮西凶党等(号松浦党),構数十艘兵船,行彼国之別島合戦,滅亡民家,掠取資材」ー『明月記』嘉禄二年条 『吾妻鏡』貞永元年(1232年)閏9月17日の条
  4. ^ 倭賊百餘艘、寇順天府 、掠南原求禮靈光長興府漕船ー『高麗史1350年二月』 倭賊二十艘、寇合浦、焚其營、又寇、固城、會源、長興府ー『高麗史1350年六月』
  5. ^ 時倭寇充斥(「充斥」とは「はびこる」という意)、濱海州郡、蕭然一空ー『高麗史列伝・鄭夢周』
  6. ^ 擊對馬島、燒倭船三百艘及傍岸廬舍殆盡、搜本國被虜男女百餘人以還ー『高麗史列伝・朴葳』
  7. ^ 鏡幡甲(韓国ウィキ)
  8. ^ 「対馬侵攻は倭寇討伐より、明の日本侵攻に巻き込まれることを避ける予防処置」 ソウル新聞 2009年3月18日
  9. ^ http://sillok.history.go.kr/id/kda_10105010_007 吾係對馬島人。 島中飢饉, 以船數十艘, 欲掠浙江等處, 只緣乏糧, 侵突庇仁 『老松堂日本行録』の著者である宋希璟も1420年に対馬に渡って対馬人たちの顔色が青ざめた顔であり、飢饉の患いがあると記録した。http://db.itkc.or.kr/inLink?DCI=ITKC_BT_1398A_0030_020_0070_2003_008_XML 大抵此島倭奴多有菜色。飢饉之患。丁寧有之矣。
  10. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年5月7日 賊三十二艘奪我兵船七艘焚之, 我軍死者太半城幾陷, 賊摽掠城外民家
  11. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年5月12日
  12. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年5月29日 殺掠軍士幾三百餘
  13. ^ 以下は捕まった倭寇の証言および後に対馬官吏たちが朝鮮政府へ上げる報告。※捕まった倭寇の証言(史料原文):吾係對馬島人。島中飢饉, 以船數十艘, 只緣乏糧, 侵突庇仁 ※仇里安の報告:封內之民侵犯大國之邊鄙※時応界都の報告:餘十四隻還來。七隻乃一岐州人, 已還本州, 七隻則我島人也
  14. ^ 世宗元年5月23日
  15. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年5月29日
  16. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月17日 摠二百二十七艘。摠一萬七千二百八十五, 齎六十五日糧以行。ー
  17. ^ 朝鮮王朝実録 世宗1年5月14日  李從茂爲三軍都體察使, 將中軍, 以禹博、李叔畝、黃象爲中軍節制使, 柳濕左軍都節制使, 朴礎、朴實左軍節制使, 李之實右軍都節制使, 金乙和、李順蒙右軍節制使
  18. ^ http://db.itkc.or.kr/inLink?DCI=ITKC_BT_1398A_0030_040_0080_2003_008_XML 『老松堂日本行録』只伐賊輩。其都都熊瓦(宗貞盛)與九州。則咸令安存。
  19. ^ http://sillok.history.go.kr/id/kda_10307005_006 平安道兵馬都節制使啓: "本道軍丁之數, 馬兵戶首一萬一千八百十五, 步兵戶首一萬一千三百十二, 同居三萬一千四百七、戶別八千三百八十八、同居一千四百七十七, 水軍戶首四千八十, 同居四千五百四十、戶別三千七百二十一、同居八百四十五。 摠計水陸軍丁七萬七千四百八十七。
  20. ^ http://sillok.history.go.kr/id/kca_10709005_002 始制三軍防牌。敎步卒以左手執之以自蔽, 右手操劍
  21. ^ http://sillok.history.go.kr/id/kda_10111003_001 別軍防牌數千人。
  22. ^ http://sillok.history.go.kr/id/kca_11001021_003 以手拍戲試人, 補防牌軍, 用勝三人者。
  23. ^ http://sillok.history.go.kr/id/kca_11003011_001 親試武科初場, 仍令甲士持木槍, 防牌軍持木劍角戰; 次令火㷁軍放鐵翎箭石彈子, 甲士二人, 傷於木劍, 翼日死。
  24. ^ 朝鮮王朝実録 世宗1年5月14日 下番甲士、別牌、侍衛牌及守城軍營屬才人、禾尺、閑良人民、鄕吏、日守兩班中, 有能騎船者及騎船軍丁等, 以邀倭寇還歸之路
  25. ^ http://sillok.history.go.kr/id/kca_11302005_001 觀龜船、倭船相戰之狀。
  26. ^ http://sillok.history.go.kr/id/kca_11507016_002 龜船之法, 衝突衆敵, 而敵不能害, 可謂決勝之良策。 更令堅巧造作, 以備戰勝之具。
  27. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月19日 李從茂自巨濟南面周原防浦發船, 復向對馬島
  28. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月20日 我師十餘艘先至對馬島, 賊望之以爲本島人得利而還, 持酒肉以待之, 大軍繼至, 賊皆喪魄遁逃
  29. ^ 州兵拒之海濱不利ー『宗氏家譜』
  30. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月20日 唯五十餘人拒戰而潰, 走入險阻
  31. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月20日 先遣投化倭池文, 以書諭都都熊瓦, 不報。(※原文解説:「遣投化倭池文」とは朝鮮に帰化した日本人「池文」を使者として送ったのを意味し、「都都熊瓦」は「宗貞盛(幼名:都都熊丸)」を指す。)
  32. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月20日 我師分道搜捕, 奪賊船大小百二十九艘, 擇可用者二十艘, 餘悉焚之, 又焚賊戶千九百三十九。前後斬首百十四, 擒生口二十一
  33. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月20日 獲被虜中國男婦百三十一名
  34. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月20日 知島中飢甚且倉卒, 雖富者不過持糧一二斗而走, 以爲久圍, 則必餓死, 遂置柵於訓乃串, 以遏賊往來之衝, 以示久留之意。
  35. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月29日 日遣褊將, 下陸搜捕, 復火其戶六十八, 焚其船十五艘, 斬賊九級, 獲漢人男婦十五名、本國人八名。
  36. ^ http://db.itkc.or.kr/inLink?DCI=ITKC_BT_0066A_0260_040_0010_2003_003_XML 進兵尼老郡。督左右軍先下陸。賊已請兵于一歧上松。據險設伏以待之。
  37. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月29日 從茂進至尼老郡, 令三軍分道下陸、左軍節制使朴實與賊相遇, 據險設伏以待之。實率軍士, 登高欲戰, 伏發突前, 我師敗績, 褊將朴弘信、朴茂陽、金該、金熹等戰死, 實收兵還上船, 賊追擊之, 我師戰死及墜崖死者百數十人。右軍節制使李順蒙、兵馬使金孝誠等亦遇賊力戰拒之, 賊乃退, 中軍竟不下陸。
  38. ^ http://db.itkc.or.kr/inLink?DCI=ITKC_BT_0066A_0260_040_0010_2003_003_XML 右軍節制使李順蒙計窮。距胡床而坐。賊植足以前。順蒙引弓正中其魁。賊乃却。
  39. ^ 朝鮮王朝実録世宗4巻 1年6月29日 柳廷顯從事官趙義昫自對馬島來告捷, 三品以上詣壽康宮賀。
  40. ^ 朝鮮王朝実録世宗4巻 1年6月29日 上王遣訓錬官崔岐, 奉宣旨二道如軍中, 諭都體察使李従茂。
  41. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月29日 七月之間, 例多暴風, 卿其量宜, 毋久留海上。
  42. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月29日 卿其諭予至意於都都熊瓦及大小倭人。
  43. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月29日都都熊瓦, 卽宗貞盛也。時師敗之書未到, 故降是旨。
  44. ^ 朝鮮王朝実録世宗4卷 1年6月29日 都都熊瓦(宗貞盛)恐我師久留, 奉書乞退師修好, 且曰: "七月之間, 恒有風變, 不宜久留。"
  45. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年6月29日 我師戰死及墜崖死者百數十人。
  46. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年7月10日 柳廷顯更啓: “對馬島戰亡者, 百八十人。”
  47. ^ 世宗実録 世宗1年(1419年)7月7日記録賜戰亡兵馬副使以上米豆各八石, 軍官人各五石, 軍丁人各三石
  48. ^ 世宗元年7月22日 左議政朴訔啓: “左軍節制使朴實對馬島敗軍時所、護漢人宋官童等十一名, 備知我師見敗之狀, 不可解送中國, 以見我國之弱。
  49. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年8月5日 今戰死者, 倭人二十餘名, 朝鮮人百餘名也。
  50. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年8月5日 雲等對曰: “以中國之兵征達達, 而被殺尙過其半, 百餘人之死, 何足恥(載)〔哉〕?” 上王曰: “吾意本如是也。” 乃命解赴遼東。
  51. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年8月16日 況東征勝多敗少乎
  52. ^ 世宗実録 世宗1年9月15日又論東征之功, 受賞職者二百餘人。
  53. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年7月6日島倭非我族類, 不宜多置京中及慶尙、全羅道, 乞分置深僻處。" 上曰: "然。 當啓于父王。
  54. ^ 朝鮮王朝実録 世宗元年7月9日 更待風和, 整軍復征, 未爲晩也
  55. ^ 佐伯 2010, p. 22.
  56. ^ 佐伯 2010, p. 23.
  57. ^ 佐伯 2010, p. 21.
  58. ^ 佐伯 2010, p. 26.
  59. ^ 佐伯 2010, p. 24.
  60. ^ 《朝鮮王朝實錄》世宗 5卷 1年(1419年) 9月20日
  61. ^ 佐伯 2008, p. 7.
  62. ^ a b 関 2012, p. 155.
  63. ^ a b 佐伯 2008, p. 8.
  64. ^ 関 2012, p. 156.
  65. ^ 世宗実録 世宗1年10月17日 貴國見討本島時, 敬畏王命, 不敢發一箭
  66. ^ 世宗実録 世宗1年12月2日 金該子彦容所志內: ‘父該東征時, 爲左軍節制使朴實都鎭撫, 尼老軍接戰, 左軍敗績, 父與私伴人韓約力戰, 身中二箭, 隱伏葛叢下。 約望見而來, 至今未知存沒。 乞與韓約往對馬島尋訪。’" 從之。
  67. ^ 乃而浦來往倭人, 其數日增, 供費鉅萬 朝鮮王朝実録1439年10月5日
  68. ^ 世宗実録 世宗12年4月11日東征之後, 倭寇已服天威, 不敢肆虐

参考文献編集

  • 三浦周行国立国会図書館デジタルコレクション 「應永の外寇」 『日本史の研究. 第〔1〕輯』 岩波書店、1922年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1161401/417 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 佐伯弘次 『対馬と海峡の中世史』 山川出版社〈日本史リブレット〉、2008年。ISBN 978-4634546899 
  • 佐伯弘次「応永の外寇と東アジア」『史淵』第147号、九州大学大学院人文科学研究院、2010年。
  • 関周一 『対馬と倭寇―境界に生きる中世びと』 高志書院〈高志書院選書8〉、2012年。ISBN 978-4862151148 

関連項目編集

外部リンク編集