恵王 (楚)
恵王(けいおう、生年不詳 - 紀元前432年)は、春秋時代の楚の王。姓は羋、氏は熊。諱は章。昭王の子。
恵王 熊章 | |
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楚 | |
王 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 前489年 - 前432年 |
姓・諱 | 熊章 |
諡号 | 恵王 |
没年 | 紀元前432年 |
父 | 昭王 |
母 | 越姫 |
后妃 | 晋女 |
生涯編集
紀元前489年、呉が陳を攻撃したため、昭王は軍を動員して陳の救援に向かった。7月、陣中で昭王が病に倒れて死去すると、章は子西(公子申)と子期(公子結)に迎えられて楚王に擁立された。これが恵王である。恵王は軍を撤退させて、昭王を葬った。
紀元前487年、従兄弟の白公勝(太子建の子)が呉から帰国した。紀元前486年、陳が呉についたため、恵王は軍を動員して陳を攻撃した。紀元前485年、子期が軍を率いて陳を攻撃した。紀元前482年、子西が軍を率いて陳を攻撃した。紀元前480年、子西と子期が呉を攻撃し、桐汭に達した。
紀元前479年、白公勝が反乱を起こした。白公勝は子西と子期を殺し、恵王を拉致して高府に置いた。恵王の従者の圉公陽が王を背負って昭王夫人宮に脱出した。葉公(沈諸梁)が蔡から帰国して国人とともに白公勝を攻めると、白公勝は山に逃れて自ら縊死した。
紀元前478年、楚の公孫朝が軍を率いて陳を包囲し、これを滅ぼした。この年、子西の子の子国を令尹に任じた。
紀元前477年、巴人が楚を攻撃し、鄾を包囲した。楚の公孫寧・呉由于・蔿固が巴軍を鄾で撃破した。紀元前476年春、越が楚に侵攻してきた。公子慶と公孫寛が越軍を追撃したが、冥まで達して追いつけず退却した。秋、楚の沈諸梁が東夷を攻撃し、三夷の男女と敖で盟を交わした。このころ呉王夫差の勢力が強大で、斉や晋を侮るほどであり、楚にも侵入してきた。しかし紀元前473年に越王勾践が呉を滅ぼすと、楚の東方進出の障害が取り除かれた。
紀元前447年、楚は蔡を滅ぼした。紀元前445年、楚は杞を滅ぼし、秦と和平を結んだ。恵王時代の楚は東方に領土を広げて、泗水のほとりにまで達した。
紀元前432年、恵王は死去した。在位57年。
参考文献編集
- 『春秋左氏伝』哀公6年、8年 - 10年、13年、15年 - 19年
- 『史記』楚世家
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