恵王 (楚)
恵王(けいおう)は、春秋時代の楚の王。姓は羋、氏は熊。諱は章。昭王の子。簡王の父。
恵王 熊章 | |
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楚 | |
第14代王 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 前489年 - 前432年 |
姓・諱 | 熊章 |
諡号 | 恵王 |
生年 | 不詳 |
没年 | 恵王57年(前432年) |
父 | 昭王 |
母 | 越姫 |
后妃 | 晋女 |
生涯
編集昭王27年(紀元前489年)、呉が陳を攻撃したため、昭王は軍を動員して陳の救援に向かった。7月、陣中で昭王が病に倒れて薨去すると、章は子西(公子申)と子期(公子結)に迎えられて楚王に擁立された。これが恵王である。恵王は軍を撤退させて、昭王を葬った。
恵王2年(紀元前487年)、従兄弟の白公勝(太子建の子)が呉から帰国した。恵王3年(紀元前486年)、陳が呉についたため、恵王は軍を動員して陳を攻撃した。恵王4年(紀元前485年)、子期が軍を率いて陳を攻撃した。恵王7年(紀元前482年)、子西が軍を率いて陳を攻撃した。恵王9年(紀元前480年)、子西と子期が呉を攻撃し、桐汭に達した。
恵王10年(紀元前479年)、白公勝が反乱を起こした。白公勝は子西と子期を殺し、恵王を拉致して高府に置いた。恵王の従者の圉公陽が王を背負って昭王夫人宮に脱出した。葉公(沈諸梁)が蔡から帰国して国人とともに白公勝を攻めると、白公勝は山に逃れて自ら縊死した。
恵王11年(紀元前478年)、楚の公孫朝が軍を率いて陳を包囲し、これを滅ぼした。この年、子西の子の子国を令尹に任じた。
恵王12年(紀元前477年)、巴人が楚を攻撃し、鄾を包囲した。楚の公孫寧・呉由于・蔿固が巴軍を鄾で撃破した。恵王13年(紀元前476年)春、越が楚に侵攻してきた。公子慶と公孫寛が越軍を追撃したが、冥まで達して追いつけず退却した。秋、楚の沈諸梁が東夷を攻撃し、三夷の男女と敖で盟を交わした。このころ呉王夫差の勢力が強大で、斉や晋を侮るほどであり、楚にも侵入してきた。
恵王16年(紀元前473年)、越王勾践が呉を滅ぼすと、楚の東方進出の障害が取り除かれた。
恵王42年(紀元前447年)、楚は蔡を滅ぼした。恵王44年(紀元前445年)、楚は杞を滅ぼし、秦と和平を結んだ。恵王時代の楚は東方に領土を広げて、泗水のほとりにまで達した。
恵王57年(紀元前432年)、恵王は薨去した。在位57年。
参考文献
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