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悼王(とうおう、生年不詳 - 紀元前381年、在位:紀元前402年 - 紀元前381年)は、悼哲王(とうてつおう)ともいい、中国戦国時代の王。[2]

悼王
王朝
在位期間 前402年 - 前381年
都城
姓・諱 熊疑
諡号 悼哲王[1]
没年 紀元前402年
声王

生涯編集

楚の声王の子として生まれた。紀元前402年に声王が賊に暗殺されたため、その後を嗣いで楚王に即位した。

紀元前400年の三晋の軍が楚に侵攻してきたが、三晋の軍は乗丘まで進軍して撤退した[3]紀元前399年、鄭に楡関を返還した[4]紀元前398年、楚の郎荘平君が軍を率いてに侵攻した。鄭の皇子・子馬・子池・子封が軍を率いて楚軍を迎撃しようとした。しかし楚軍が氾を渡り会戦しようとすると、鄭軍は蔑に逃げ込んだ。楚軍は蔑を包囲し、鄭軍とその4将軍を降伏させた。楚軍が郢に凱旋すると、鄭の太宰欣がまた鄭で反乱を起こし、鄭の子陽を滅ぼした[5]紀元前397年、楚は鄭の4将軍とその兵民を鄭に帰した。軍が津や長陵を包囲して攻め落とした。悼王は長陵の報復のために平夜武君に軍を率いて晋に侵攻するよう命じた。楚軍は郜を降し、滕公渉澗をとどめて凱旋した。紀元前395年、韓・魏が郜の役の報復のために軍を率いて楚の武陽を包囲した。の陽公が軍を率いて武陽を救援し、楚・魯の連合軍と韓・魏軍が武陽の城下で戦ったが、楚軍は大敗した。の人が叛いて王子定を陳に迎え入れるなど、楚の領邦の城は多くが離反した。悼王は平夜悼武君に命じてや陳に援軍を求めさせた。陳疾目は車1000乗を率いて武陽で楚軍に従った。三晋の軍と楚軍は再び会戦した。斉軍は嵒まで達して撤退した[1]紀元前393年、楚軍は韓を攻撃して負黍を奪った。紀元前391年、趙・魏・韓の軍の侵攻を受け、楚軍は大梁・楡関で敗れた。悼王は秦に厚く賄賂を贈って仲介を頼み、趙・魏・韓と講和することができた[3]

この頃、魏では将軍の呉起が宰相の公叔痤と対立し、武侯とも折り合いが悪くなって出奔し、楚を頼った。悼王は呉起を宰相に任用した。呉起は国政や軍制の改革をおこない、軍の強化を図ったが、楚の門閥貴族たちとの対立を深めた[6]

紀元前381年、悼王は死去した[3]。王の死後まもなく、呉起は反対派の貴族ら70余家の軍に襲われ、悼王の遺体の前で射殺された。王の遺体にも矢が突き刺さっていたという[6]。悼王の子の粛王が王位を嗣いだ[3]

脚注編集

  1. ^ a b 清華簡』「繋年」23章
  2. ^ 史記』楚世家による。同書六国年表では、類とする
  3. ^ a b c d 『史記』楚世家
  4. ^ 『史記』六国年表
  5. ^ 『清華簡』「繋年」23章による。『史記』楚世家ではこの年に楚がを攻撃したとするが、『史記会注考証』が指摘するように周は鄭の誤りとみられる。同書六国年表では、楚は鄭を攻撃し鄭を包囲した、鄭人が子陽を殺したとしている
  6. ^ a b 『史記』孫子呉起列伝
先代:
声王
前402年 - 前381年
次代:
粛王