愛と死の記録』(あいとしのきろく、英称:The Heart of Hiroshima)は、1966年製作の日本映画。モノクロ・日活スコープ・92分・吉永小百合主演・監督は蔵原惟繕

愛と死の記録
監督 蔵原惟繕
脚本 大橋喜一
小林吉男
出演者 渡哲也
吉永小百合
芦川いづみ
中尾彬
佐野浅夫
滝沢修
音楽 黛敏郎
撮影 姫田真佐久
編集 丹治睦夫
製作会社 日活
配給 日活
公開 日本の旗1967年9月17日
上映時間 92分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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あらすじ編集

戦後から21年。ヒロシマは見事に復興した。楽器店で働く松井和江(吉永小百合)は店の前で写真製版工の三原幸雄(渡哲也)のオートバイに触れ、レコードを割った。それを見ていた同僚のふみ子(浜川智子)の画策で、和江と幸雄は公園で会う。ナイーブな幸雄に惹かれ、二人は愛を育む。しかし原爆孤児で被爆した幸雄は結婚をためらう。わけを聞かせてくれない幸雄に和江は苦しむ。

キャスト編集

スタッフ編集

製作編集

企画編集

吉永小百合浜田光夫コンビによる日活の純愛&青春映画路線は大成功し、1964年の『愛と死をみつめて』は4億7500万円と日活創業以来の大ヒットを記録した[1]。本作は題名からも分かるように、二匹目のドジョウを狙い企画された[1][2][3]。しかし浜田光夫がクランクイン直前に不幸な事故で、急遽新人・渡哲也代役に立て製作された[1][2][4]

渡哲也・吉永小百合初の共演作で、渡にとっては初めての文芸作品[5]、かつ初めての大役抜擢だった[6]

脚本編集

オリジナル脚本だが、実話を基にしているとされる[7]。吉永は「大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』の中で紹介されている実話」と話している[8](ノンクレジット)。

撮影編集

浜田光夫の思わぬ負傷で、普通なら製作を延期するところだが[3]ドル箱路線に大きなヒビが入った日活はすぐに浜田に見切りをつけ[3]、代役に渡哲也を抜擢した[1][3]。このため撮影所内で血も涙もない日活首脳陣への批判が囁かれた[3]。吉永は1966年7月15日から31日まで大阪フェスティバルホールで、労音主催のリサイタルを終え、1966年8月5日から広島ロケに入る予定だったが[5]、「長年のコンビの浜田さんが失明するかどうかという一生の危機にあるとき、代役の人と組むのは感情が許さない」と難色を示し[1]、広島ロケを目前にして吉永が「出演を延ばして」と日活に申し入れた[1]。これに対して日活は封切予定は動かせないと、主役抜きのまま広島の実景ロケを先に始め[3]、吉永には早く出演するようにと催促した[3]。日活は石神清宣伝部長が吉永の説得にあたったが、吉永はその理由以外にも『愛して泣いて突っ走れ』『風車のある街』など直前の主演作があまりヒットせず、21歳になる自分はいつまでも青春スターではいられないのではと不安を抱えていた[1]。日活は浅丘ルリ子は会社と揉め、若手の和泉雅子松原智恵子西尾三枝子はキャリア不足で、大黒柱の吉永に演技派に転じられては困る日活は、吉永小百合・浜田光夫コンビでは、監督は森永健次郎斎藤武市西河克己と相場が決まっていたが、久しぶりに蔵原惟繕をあて、作品のムードを変え吉永の気持ちを静めて説得した[1]

渡哲也も『あなたの命』の撮影で宮城県気仙沼ロケ中だったが[5]、渡も仲の良い浜田がやる気満々だった『愛と死の記録』の代役を自分が受けていいものかと悩み[3]、日活首脳に「浜ヤンが治るまで待ってあげられないのでしょうか」と掛け合ったが聞き入れられず[5]。日活の女王との初共演は嬉しいが[5]、今まで暴れまわって、人と取っ組み合いばかりの芝居をして来たため、心理描写の多い表情の芝居が多い初めての文芸作品が不安で悩んだ[5]。当時の渡は後年のイメージとは違う"のんき坊主"と言われていた[5][9]

撮影は3時間も4時間もリハーサルが繰り返され[9]、夕方から深夜まで毎日本読み[9]。吉永も音を上げそうになる程、厳しい撮影だったが「演じているうちにどんどんヒロインにひきつけられて、ヒロインの心情と一体となって、思い切り演じられたという充足感を持つことができた」と話している[8]。渡哲也は撮影以外の外出も出来ず、蔵原惟繕監督に散々絞られた[9][10]。渡はアクションばかり出ていてシリアスドラマはほぼ初体験だった[10]。撮影中に渡は「役者というものの難しさがつくづく分かった。だけど、嬉しさも少し分かりかけたみたいだ」と話した[9]

1966年夏に長期オール広島ロケが行われた[11][12][13]。当初1966年8月5日からクランクインを予定していたが[5]、吉永が気管支炎を発症して寝込んだため[5]、1966年8月半ばクランクイン[5]

ロケ地編集

興行編集

吉永は「完成した作品から原爆ドームやケロイドの顔が出ている場面はほとんど削られました。当時はまた今とは違うさまざまな思惑があったのでしょうが、原爆をテーマにした映画なのに、なぜという強い思いを持った」と話している[8]

作品の評価編集

週刊読売』は「青春映画の佳作。難病路線といえばそれまでで、事実に基づいた話でもあるのだが、それを情緒的にべとべとしないで、ここまで高めた脚本は非凡だ。広島でオールロケした蔵原惟繕監督の演出にもきれいごとに終わらせない緊張がある。原爆の恐ろしさ―原爆反対という公式な主題にとどまらず、その中に現代の青春の姿を生き生きと捉えた。吉永がいいし、ケガをした浜田光夫の代役・渡にとっては、一つの演技開眼であろう」などと評してる[11]

週刊平凡』は「渡哲也は浜田光夫に比べて体格がよく、吉永との対照に新しいよい印象を感じさせる。このコンビは成功といっていい。吉永もこの役にかけた情熱と気迫が画面からひしひしと感じとられる好演だ。二人には軽い青春明朗映画だけの起用にせず、貴重な才能と個性を浪費しないよう本格的な作品にこれからも取り組んでもらいたい」などと評した[6]

受賞編集

第17回ブルーリボン賞新人賞渡哲也)。

影響編集

吉永は本作の出演や、胎内被爆者の芸者を演じたテレビドラマ/映画『夢千代日記』の出演を切っ掛けに、1986年からボランティアで原爆詩の朗読会をスタートさせ、反戦反核運動をライフワークとしている[8][13]

本作製作当時は、渡&吉永の新コンビと騒がれたが[2]、渡はこの後はアクションを主体に、日活退社後は石原プロモーションでテレビ中心の活動になったため、がっつり映画で恋人役を演じたのは30年後の1998年時雨の記』と、本作の2本だけとなる[14]

同時上映編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h 「スクリーン 吉永の"乙女心"に泣く日活 『愛と死の記録』出演延期申し入れ」『週刊朝日』1968年7月26日号、朝日新聞社、 100頁。
  2. ^ a b c d 「今月の日本映画ご案内 『愛と死の記録』」『月刊平凡』1966年11月号、平凡出版、 225頁。
  3. ^ a b c d e f g h 「芸能ジャーナル 長びいた静養の真相は? 純愛コンビの抵抗作?」『週刊サンケイ』1966年8月29日号、産業経済新聞社、 102頁。
  4. ^ a b 愛と死の記録 - 日活
  5. ^ a b c d e f g h i j 「浜田光夫のピンチヒッター 『愛と死の記録』で吉永小百合と初共演渡哲也が悩んでいる!」『週刊平凡』1966年8月18日号、平凡出版、 56-58頁。
  6. ^ a b 「シネ・ガイド 日本映画 愛と死の記録 感動的な愛のドラマ/今週の演技賞 気迫に満ちた吉永小百合」『週刊平凡』1966年9月29日号、平凡出版、 50頁。
  7. ^ 有岡英俊 (2016年8月6日). “「愛と死の記録」映画50年展 原爆資料館に脚本や取材ノート”. 中国新聞デジタル. 中国新聞社. 2021年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月10日閲覧。
  8. ^ a b c d 由井りょう子 (2015年8月14日). “独占インタビュー吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(前編)”. AERA dot.. 朝日新聞出版. 2021年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月14日閲覧。
  9. ^ a b c d e f 「グラビア 浜ヤンのためにも… 日活『愛と死の記録』/ピンチヒッター渡哲也・吉永小百合を相手に大熱演」『週刊平凡』1966年9月15日号、平凡出版、 11–13。
  10. ^ a b 「いま何してる? 渡哲也」『週刊読売』1966年9月23日号、読売新聞社、 45頁。
  11. ^ a b 「ワイド 芸能 一般席 青春ものの佳作 『愛と死の記録』」『週刊読売』1966年10月7日号、読売新聞社、 48頁。
  12. ^ a b c 1966年夏、広島で撮影された、『愛と死の記録』で中本総合印刷が舞台になりました(Internet Archive)
  13. ^ a b 吉永小百合 核兵器廃絶への思い訴え「私の声は小さいけど…切実に」”. デイリースポーツ. 神戸新聞社 (2018年9月24日). 2018年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月10日閲覧。
  14. ^ “吉永小百合2年ぶり映画『時雨の記』 大人の恋しっとり渡哲也、相手に指名”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 芸能A7頁. (1998年3月30日) 

外部リンク編集