愛と死をみつめて

日本の往復書簡集
愛と死を見つめてから転送)

愛と死をみつめて』(あいとしをみつめて)は、大学生河野實(こうの まこと=マコ、1941年8月8日 - )と、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた大島 みち子(おおしま みちこ=ミコ、1942年2月3日 - 1963年8月7日)との、3年間に及ぶ文通を書籍化したものである。

1963年昭和38年)12月25日大和書房より刊行された。本書は160万部を売り上げる大ヒットを記録した。また、1964年の年間ベストセラーの総合1位を記録した[1]

関連本として、大島著の『若きいのちの日記』や河野著の『佐智子の播州平野』も出版された。実際に交わされた手紙などをもとにした往復書簡集ではあるが、『世界の中心で、愛をさけぶ』や『いま、会いにゆきます』等の純愛小説の先駆け的存在であったといえる。ラジオドラマテレビドラマ・レコード・映画化された。

難病で死に別れる恋人をテーマにした純愛映画としては、アカデミー作曲賞ゴールデングローブ賞を受賞した1970年公開のアメリカ映画『ある愛の詩』が有名であるが、それより6年先駆けて公開されている。

あらすじ 編集

兵庫県立西脇高等学校に通うミコ(大島みち子)は、顔に軟骨肉腫ができる難病に冒されていた。阪大病院に入院した際、同じ病棟で長野県出身の浪人生マコ(河野実)と出会い、互いに18歳の阪神タイガース・ファン同士で意気投合し、文通を始める。

その後、ミコが京都の同志社大学、マコが東京の中央大学へ進学してからも文通は途切れず、ミコの病気が再発して再入院した後も、マコは夏休みに大阪駅ホームのビール売りのアルバイトを続けてミコを励ます。夏休みが終わって、東京に戻ったマコとの文通が闘病生活の大きな支えになっていく。マコはその後もアルバイトをして長距離電話で励ましたり、旅費を工面して阪大病院を訪れるなどし、2人の愛は深まるばかり。

しかしミコは手術で顔の半分を失い、さらに病気は悪化していく。そして、マコの22歳の誕生日の前日に、自らのメモリアルデーを刻んで、この世を去って逝く。

書籍 編集

  • 大島みち子・河野実著 『愛と死をみつめて』大和書房、2004年新版(ISBN 4-479-01177-3)、2006年2月 文庫本発刊。2006年1月、中国語版『凝視着愛与死』漓江出版(中国・桂林市)より発刊
  • 大島みち子著『若きいのちの日記―「愛と死をみつめて」ミコのノート』1992年 大和出版
  • 大島みち子著 『若きいのちの日記』大和書房、2005年新板(ISBN 4-479-01180-3)、 2006年3月 文庫本発刊
  • 河野実著 『佐智子の播州平野』フーコー、1997年(ISBN 4-795-23641-0) 当該書籍は『「愛と死をみつめて」その後』と改題され、2006年3月「展望社」より発刊。
  • 河野実著 『「愛と死をみつめて」終章 もうひとりのミコ』大和書房、2005年(ISBN 4-479-01186-2

ラジオドラマ『健康な日を3日』 編集

1964年(昭和39年)1月14日ニッポン放送「ラジオ劇場」で放送。

キャスト 編集

スタッフ 編集

レコード 編集

愛と死をみつめて
青山和子シングル
B面 若きいのちの日記
リリース
録音 1964年4月16日[2]
ジャンル 歌謡曲
レーベル 日本コロムビア
作詞・作曲 大矢弘子、土田啓四郎
プロデュース 酒井政利
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プロデューサーの酒井政利はベストセラー本を歌にしようとひらめき、書店で出版直後の原作本と出会うが、若い素人の往復書簡という体裁に新鮮な魅力を感じ、著名のベテラン作詞作曲家でなく、あえて若手作家が作ることで素直に表現できると考え、大矢弘子(当時レコード会社に詩を投稿していた明治大学4年生)に作詞、土田啓四郎(大阪在住の新進作曲家)に作曲を依頼する。歌手は、12歳でコロムビア全国コンクール第1位となった青山和子(当時18歳)。

なお、同時期には同じ主題で吉永小百合の「愛と死のテーマ」(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)も発売され、こちらも1965年5月時点で25万枚を売り上げるヒットになっている[3]

映画 編集

1964年(昭和39年)9月19日公開。モノクロシネマスコープ、118分。配給収入は4億7500万円[6]

キャスト 編集

患者 編集

高野の友人 編集

看護婦 編集

寮生 編集

その他 編集

スタッフ 編集

ビデオソフト 編集

  • 『愛と死をみつめて』(1990年、日活)VHSビデオとして発売。2005年にDVD化され再発。

テレビドラマ 編集

1964年版 編集

1964年(昭和39年)4月12日4月19日、前・後編に分けてTBS系「東芝日曜劇場」枠で放送された。1話完結を基本としていた同枠始まって以来の2回に分けての放送であった。橋田壽賀子の脚本がとても1時間枠では収まらない長さになった時、慣例を破って視聴者を混乱させることを心配したのか、TBS側は何とか1時間に収まるよう縮めてほしいと依頼したという。橋田はこれ以上はどうしても削れないと主張し[注 1]、例外的に認められた前・後編放送となった。本放送当時の視聴率ビデオリサーチ・関東地区調べ)は前編12.6%、後編16.9%と当時のテレビドラマとしては高視聴率ではなかったが、大きな反響を呼んで、放送後1年間に4度も再放送されることとなり[7]、結果としてTBSの心配は杞憂に終わった。

この作品が制作された当時は、VTR2インチ規格だったことなどから、番組の資料保存が容易には行えず、同時期に制作されたドラマは消去されて現存していないケースが多い。そのため、現在も視聴できるこのドラマは資料的な意味でも価値が大きい。2009年(平成21年)現在、横浜の放送ライブラリーにて視聴可能。また、TBSチャンネルなどでも放送されている。

キャスト 編集

スタッフ 編集

外部リンク 編集

TBS 東芝日曜劇場1964年4月12日 - 4月19日
前番組 番組名 次番組
きりぎりす
愛と死をみつめて

2006年版 編集

2006年(平成18年)3月18日3月19日、2時間半ずつの枠で、前・後編に分けて放送。テレビ朝日制作。当初は2005年放送の予定だったが、諸事情により延期された。ミコ死後の秘話も再取材し、盛り込む。主題歌はドリームズ・カム・トゥルーの『めまい』(アルバム『THE LOVE ROCKS』に収録)と、『愛と死をみつめて〜DREAMS COME TRUE VERSION〜』。

キャスト 編集

スタッフ 編集

ビデオソフト 編集

テレビドラマ『若きいのちの日記』 編集

漫画 編集

月刊少女雑誌『りぼん』(集英社)1965年2月号で、同誌の別冊付録シリーズ「りぼんカラーシリーズ」の一環として、芳谷圭児によって漫画化された[8]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 元々橋田自身の作風は、手掛けた作品の脚本の台詞が長く、演出家や俳優による内容と台詞の変更、アドリブを許さないことで知られている。

出典 編集

  1. ^ 1964年 ベストセラー10 (昭和39年):【 FAX DM、FAX送信の日本著者販促センター 】
  2. ^ a b 『決定盤 青春の大ヒット大全集』(日本コロムビア、2007年発売、規格品番:COCP-34097〜8)収録のブックレット(ノンブルなし)より。
  3. ^ 「この1年に売れたレコード総まくり――各社別の売上げベスト10」『オール大衆』第18巻第10号、経済通信社、1965年5月15日、43頁、NDLJP:2247004/22 
  4. ^ 朝日新聞』1989年10月29日付朝刊(埼玉)。
  5. ^ 酒井政利『誰も書かなかった昭和スターの素顔』、宝島社宝島SUGOI文庫)、2018年、68頁。ISBN 978-4-8002-8990-2
  6. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)210頁
  7. ^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、14頁。ISBN 4062122227
  8. ^ 『りぼんの付録全部カタログ』集英社、2015年7月29日、137頁。 

関連項目 編集

ノンフィクション
フィクション

外部リンク 編集