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本来の表記は「慕容皝」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

慕容 皝(ぼよう こう、拼音: Mùróng Huǎng)は、五胡十六国時代前燕の初代王。字は元真[1]小字は万年。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の人。鮮卑慕容部の大人(部族長)で、慕容廆の三男。兄に慕容翰、弟に慕容仁慕容昭慕容評らなどがいる。

文明帝 慕容皝
前燕
初代王
王朝 前燕
在位期間 337年 - 348年
都城 龍城
姓・諱 慕容皝
元真
小字 万年
諡号 文明皇帝
廟号 太祖
生年 元康7年(297年
没年 永和4年9月17日
348年10月25日
慕容廆
段夫人
陵墓 龍平陵

生涯編集

父の時代編集

297年、慕容廆と段夫人段部単于の娘)との間に生まれた。

317年東晋朝廷より冠軍将軍に任じられた。322年、さらに左賢王を拝命し、望平侯に封じられた。これ以後、兵を率いて征討に出るようになり、幾度も戦功を重ねた。

319年12月、宇文部の大人宇文遜昵延が数十万を率いて本拠地の棘城に襲来すると、慕容皝は長史裴嶷と共に精鋭を率いて軍の先鋒となり、慕容廆が大軍を率いて後続となった。宇文遜昵延は全軍を出撃させてこれを迎え撃ったが、城外で別動隊を率いていた庶兄の慕容翰はこの隙を突いて宇文遜昵延の陣営へ突入した。挟み撃ちを食らった宇文部軍は大混乱に陥って大敗し、宇文遜昵延は体一つで逃げ出し、慕容廆は敵の兵卒のほとんどを捕虜とした。

321年12月、慕容廆が遼東公に冊封されると、世子に立てられた。平原出身の劉賛は儒学に精通していたので、慕容廆により東庠祭酒(東庠とは東の学校、祭酒とは学政の長官を意味する)に抜擢され、慕容皝は重臣の子弟と共に彼から講義を受けた。

322年12月、慕容廆の命により令支(段部の本拠地)へ侵攻し、千家余りの民と名馬や宝物を略奪してから帰還した。

325年1月、宇文部の大人宇文乞得亀が慕容部へ襲来した。慕容廆の命により、慕容皝が軍の総大将となり、また裴嶷が軍の右翼となり、同母弟の慕容仁が軍の左翼となった。宇文乞得亀は澆水に拠点を構えて慕容皝を阻み、さらに兄の宇文悉跋堆に慕容仁を攻撃させた。慕容仁が敵軍を返り討ちにして宇文悉跋堆の首級を挙げると、慕容皝はこれに呼応して宇文乞得亀の本隊に攻撃を仕掛け、大勝を挙げた。これにより宇文部軍は崩壊して宇文乞得亀は軍を捨てて逃亡を図ったので、慕容皝は慕容仁と共に宇文部の都城へ侵入した。同時に、軽騎兵を派遣して宇文乞得亀を追撃させ、三百里余り追い立てた所で引き返した。この戦勝により重宝を尽く獲得し、畜産は百万を数えた。また、帰順した人民は数万にも上った。

326年、東晋朝廷により平北将軍に任じられ、朝鮮公に進封した。

333年5月、慕容廆が病没した。6月、慕容皝は父の爵位である遼東公を継ぎ(但しこの時点では東晋からの承認は得られておらず、あくまで自称である)、平北将軍・平州刺史の地位をもって部内の統治に当たった。また、領内に大赦を下し、長史裴開を軍諮祭酒に、郎中令高詡玄菟郡太守に、陽騖を左長史に、王誕を右長史に任命した。6月、長史王済らを建康へ派遣し、東晋朝廷へ父のを告げさせた。

8月、宇文部大人の宇文乞得亀が内乱により追放され、傍系の宇文逸豆帰が位を簒奪した。慕容皝はこの混乱を好機とみて征伐を目論み、出撃して広安まで軍を進めた。宇文逸豆帰はこれを恐れて講和を求めたので、楡陰・安晋の2城を築いてから帰還した。

兄弟との争い編集

当時、連年に渡って災厄や戦役が続いていた事で民百姓は困窮していたが、慕容皝は妥協する事なく法を厳格に運用したので、大いに人心は動揺した。その為、主簿皇甫真は租税を減らし労役を軽減させて休息を与えるべきであると慕容皝へ訴えたが、慕容皝はこれを聞き入れず、さらに彼を疎ましく思って罷免してしまった。

慕容皝の庶兄は慕容翰といい、勇猛な武人で優れた才能を持っていたが、慕容皝はその才覚を妬んでいた。また、同母弟の慕容仁とその弟の慕容昭は常日頃より慕容廆から寵愛を受けていたので、慕容皝は彼らに対しても不満を抱いていた。こうした事もあり、兄弟の仲はかねてより芳しくなかったが、慕容皝が後を継ぐに至って彼らへ対する猜疑心はさらに大きくなっていた。その為、慕容翰は慕容皝から禍いを受ける事を恐れ、同年10月に止む無く子息と共に段部へ亡命した。

また同月、慕容仁は慕容廆の葬儀に参列する為に駐屯地の平郭から棘城へ到来したが彼もまた慕容皝により誅殺される事を心中恐れており、それは棘城にいた慕容昭も同じであった。その為、彼らは密かに慕容皝の誅殺して自分たちが国権を掌握する事を企み、慕容仁がまず平郭で密かに挙兵して棘城を奇襲し、慕容昭が城内より呼応するという計画を立てた。慕容仁はその計画を内に秘めたまま、葬儀を終えると平郭に帰還した。

11月、慕容仁は計画を実行に移し、慕容皝に気取られないように密かに西へ向けて進軍を開始した。だが、棘城内にいるとある人物が慕容仁らの謀略を漏れ聞いており、この事を慕容皝へ密告してしまった。慕容皝は当初これを信用しなかったが、念のため慕容仁の下へ使者を派遣してその動向を確認させた。この時、慕容仁は既に黄水[2]まで軍を進めていたが、使者が到来した事で計画が露呈したと知り、計画を中止するとその使者を殺害して平郭に撤退した。慕容皝はこれを知ると、すぐさま慕容昭に自害を命じる[2]と共に、軍諮祭酒封奕を遼東へ派遣し、遼東の地が慕容仁の影響を受けて反乱を起こさないよう慰撫に当たらせた。さらには玄菟郡太守高詡・庶弟の建武将軍慕容幼慕容稚・広威将軍慕容軍・寧遠将軍慕容汗・司馬冬寿らに5千の兵を与えて慕容仁討伐をめいじ、共に平郭へ侵攻させた。だが、討伐軍は汶城の北において慕容仁軍に大敗を喫し、慕容幼・慕容稚・慕容軍は捕らえられた。冬寿はかつて慕容仁の司馬として仕えていた事があり、彼もまた降伏して慕容仁に帰順した。

また遼東の地では、かつて大司農であった孫機襄平県令王永らが遼東城ごと反旗を翻し、慕容仁に呼応した。東夷校尉封抽・護軍乙逸・遼東相韓矯らは城を放棄して逃走を図り、敗走中であった高詡もまた彼らと合流し、共に撤退した。遼東に向かっていた封奕もまた、遼東城の反乱により道路が封鎖されてしまい入城する事が出来ず、敗走中であった慕容汗と合流すると、共に軍を退いた。

これにより慕容仁は遼東の殆どを領有するようになり、段部を始めとした鮮卑の諸部族はみな慕容皝を見限って慕容仁に味方した。慕容皝はかつての皇甫真の進言を思い出し、これを容れなかった事を後悔すると、考えを改めて皇甫真を復職させて平州別駕に任じた。

334年1月、慕容皝は司馬封奕を白狼に派遣して鮮卑族の木堤を攻め、揚威将軍淑虞を平岡山に派遣して烏桓悉羅侯を攻め、いずれも討伐した。材官将軍劉佩乙連にいる段部を攻めさせたが、勝利できなかった。

2月、段遼が徒河に襲来すると、慕容皝は張萌に迎撃を命じ、これを破った。段遼の弟の段蘭が慕容翰と共に柳城に侵攻すると、慕容皝配下の都尉石琮が撃退した。

10日余りした後、段蘭と慕容翰が再び侵攻し、柳城を包囲した。慕容皝は寧遠将軍慕容汗と封奕らに救援を命じ、さらに慕容汗へ「賊軍の士気は高く、まともに争うのは得策ではない。万全を期し、軽々しく進むことのないように。必ず兵が集まり陣が整ってから攻めるようにせよ」と誡めた。だが、慕容汗は慕容皝の戒めを無視し、千騎余りを前鋒に立てて進軍した。封奕の制止も聞かずに柳城の北にある牛尾谷に入り、段蘭軍と交戦して大半の兵を失った。段蘭は雲梯を造って地下道を掘り、20日に渡って四方から昼夜問わず攻撃を掛けたが、石琮は城を堅守した。機を見て石琮は将士を率いて出撃して敵軍を攻め、首級千五百を挙げて段蘭を退却させた。

4月、慕容仁は車騎将軍・平州刺史・遼東公を自称した。

8月、東晋朝廷は徐孟閭丘幸らを派遣して、慕容皝を鎮軍大将軍・平州刺史・大単于に任じ、遼東公に封じ、持節・都督・承制封拝(百官の任用と爵位の授与の権限)は父の慕容廆と同一とする旨を伝えさせようとした。しかし、この使者は馬石津まで至った所で慕容仁に拘束され、慕容皝の下に至るのは1年後となった。

11月、慕容皝は遼東討伐の兵を挙げ、自ら軍を率いて襄平を陥落させた。居就県令劉程は降伏して城を明け渡し、新昌出身の張衡は県令を捕えて降伏した。慕容仁が任じた守将を斬ると、遼東の豪族を棘城に移住させ、和陽・武次・西楽の三県を設置してから帰還した。

335年、慕容皝は封奕に命じて宇文別部の渉夜干を強襲させた。封奕は多くの資産を鹵獲して帰還した。渉夜干が帰還中の封奕に追撃を掛け、渾水で攻撃を仕掛けたが、封奕は返り討ちにした。

336年1月、慕容皝は海路から慕容仁討伐を目論むと、群臣は皆「海道は危険です。陸路より向かうべきです」と諫めたが、慕容皝は「かつては海水が凍ることなど無かったが、仁が背いてからは三度凍結している。昔、光武帝滹沱水が凍った事により大業を成し得た。天は恐らくこの機会に乗じて奴を撃ち破れといっているのであろう!我が計は既に決している。妨害する者がいるならば斬る!」と宣言した。三軍を率いて昌黎から凍結した海を三百里余りに渡って進み、平郭城から七里の所まで進軍した。慕容仁はその襲来を全く予想しておらず、斥候がこれを報告すると大いに動揺し、出撃するも敗れて捕えられた。慕容皝は慕容仁を殺した後、軍を返した。その後、朝陽門の東において藉田(宗廟に供える穀物を天子みずから耕作した儀式)を行い、農作業を奨励した。また、役人を置いてこれを司らせた。

段部撃破編集

6月、段遼配下の李詠武興に夜襲を掛けたが、雨だったので途中で中止して軍を返した。都尉張萌は退却中の李詠軍に追撃を掛けて生け捕った。

その後、段蘭は数万を率いて曲水亭まで進軍し、柳城攻撃の準備を始めた。さらに、宇文逸豆帰は安晋へ侵攻し、段蘭に呼応した。慕容皝が歩兵騎兵合わせて五万を率いて柳城に進軍すると、段蘭も宇文逸豆帰も退却した。慕容皝は封奕に軽騎兵を与えて宇文逸豆帰を追撃させ、これを破った。宇文逸豆帰が放棄した輜重を回収し、20日後に軍を返した。慕容皝は諸将へ「二虜(宇文部・段部)は功無きままに帰ったことを恥じ、必ずやまた到来するであろう。柳城の左右に伏兵を置き、これを待ち受けるべきである」と言い、封奕に騎兵数千を与えて、馬兜山の諸道に伏兵として配置した。

7月、段遼が騎兵を率いて襲来すると、慕容皝は封奕と共に段遼軍を挟撃し、大いに撃ち破って将軍栄保を討ち取った。

9月、長史劉斌・郎中令陽景に命じ、東晋からの使者である徐孟らを建康に送らせた。

世子の慕容儁に段部の諸城を、封奕に宇文別部を攻めさせ、いずれも大勝を収めた。

慕容皝は諫言を求める木柱を立て、直言を容れることを周囲に広く知らしめた。

この後、昌黎郡へ拠点を移した。

337年3月、段部の本拠地である乙連城の東に好城を築き、将軍蘭勃を派遣して段部を威圧した。また、曲水にも城を築き、蘭勃を援護させた。乙連では飢饉が深刻となっており、段遼は穀物を輸送しようとしたが、蘭勃はこれを奪い取った。段遼は従弟の段屈雲に興国城を攻めさせると、慕容皝の子である慕容遵は五官水上でこれを撃ち破り、敗残兵を尽く捕虜とした。

前燕建国編集

9月、封奕らは慕容皝の任が重いのに比べて位が軽すぎるとして、燕王を称するよう勧めた。

10月、慕容皝はこれを聞き入れて燕王に即位し、境内に恩赦を下した。これが前燕の建国である。封奕を国相、韓寿を司馬とし、裴開・陽騖・王寓李洪杜群宋該劉瞻・石琮・皇甫真陽協宋晃平熙張泓等を列卿将帥とした。文昌殿を建て、金根車・駕六馬を用い、出入りの際には警蹕を行わせた。

11月、妻の段氏を王后に、世子の慕容儁を太子に立てた。これらは全て魏武(曹操)、晋文(司馬昭)の故事に倣ったものであった。

後趙と抗争編集

段遼は頻繁に国境を荒らしてきていたので、慕容皝は将軍宋回を後趙石虎の下に派遣し、称藩する代わりに段遼討伐の援軍を求めた。

338年1月、慕容皝は改めて都尉趙盤を石虎の下へと派遣すると、石虎は軍を挙げた。3月、趙盤が帰還すると、慕容皝も諸軍を率いて令支以北の諸城を攻撃した。段遼は段蘭に迎撃を命じたが、慕容皝は伏兵に配置して奇襲を掛け、大いに破った。数千の首級を挙げ、五千戸余りを連れて軍を返した。石虎は進軍して徐無に入ると、段遼は令支を放棄して密雲山へと逃亡した。石虎はそのまま令支へ入った。

4月、東晋朝廷は慕容皝の下へ使者を派遣し、征北大将軍・幽州牧・領平州刺史に任じ、散騎常侍を加え、1万戸を加増した。持節・都督・単于・遼東公は以前通りであった。

5月、石虎は慕容皝が合流せず軍を返したことを名目に、今度は前燕へ侵攻を開始した。慕容皝はこれを知ると、兵や物資を整備すると共に、六卿・納言・常伯・冗騎常侍の権限を一時的に停止した。棘城には数十万の兵が四方から襲来し、郡県の諸部は多数石虎へ寝返り、その数は36城に及んだ。10日余り威圧を掛けられると、側近は慕容皝に降伏を勧めたが、慕容皝は「我は天下を取るというのに、どうして人に降るというのか!」と言った。慕容皝は城を捨てて退却しようと考えたが、慕輿根が諫めたので思いとどまった。趙兵は四方から蟻のように群がったが、慕輿根は昼夜力戦し、十日余りに渡って決死の防戦を続けた。趙軍は最後まで攻略することができず、遂に退却を始めた。慕容皝は子の慕容恪に騎兵二千を与えて夜明けと共に出撃させると、後趙の諸軍は散々に打ち破られ、三万を超える首級を挙げた。凡城に守りを置いた後に帰還した。

12月、段遼が密雲山から後趙へ降伏の使者を派遣すると、石虎は征東将軍麻秋に三万の兵を与えて段遼を迎えに行かせた。だが、段遼は途中で心変わりして前燕にも密かに降伏の使者を派遣した。慕容皝は密かに段遼と連絡を取って、麻秋を攻撃するため慕容恪を派遣した。慕容恪は七千の精鋭兵を率いて密雲山に到着すると、伏兵として潜伏し、進軍してきた麻秋の軍を三蔵口において大打撃を与え、司馬陽裕・将軍鮮于亮を生け捕りにした。後趙軍は兵卒の六、七割方が戦死し、麻秋は馬を棄てて逃走した。慕容恪は段遼とその民を連れて帰還した。

339年4月、前軍師慕容評は後趙の石成らが守る遼西を攻め、千家余りを引き連れて帰還した。石成らは追撃を掛けるも、慕容評は撃ち破り、呼延晃張支の首級を挙げた。

この後、段遼が謀叛を起こすも失敗し、配下の数十人と共に殺され、首は後趙へと送られた。

石成は前燕領の凡城を攻めたが、落とせなかった。その後、進路を変えて広城を攻め落とした。

東晋より受封編集

慕容皝は燕王を称していたが、未だ東晋朝廷からは承認を得られていなかった。

10月、慕容皝は長史劉祥を建康に派遣して今回の勝利を報告し、また王を名乗ったことの意図を述べた。さらに、大軍を挙げて共に中原を平定しようと請うた。

同月、慕容恪と慕容覇(後の慕容垂)を派遣し、宇文別部を攻略させた。

339年11月、慕容皝は高句麗征伐に向かい、新城まで軍を進めた。故国原王が和を請うと、聞き入れて帰還させた。

340年1月、東晋政権の中枢を担っていた庾亮が亡くなり、弟の庾冰庾翼が宰相の地位を継承した。慕容皝はこれを受けて上表し、外戚の庾冰・庾翼を重用しないよう申し述べた。また、庾冰にも書を送り、分を弁えるよう固く忠告した。庾冰は大いに恐れ、慕容皝が遠方の彼方にいることから統制できないと考え、何充らと共に燕王の称号を認める上奏を行った。

慕容皝は慕容翰が亡命した後も彼のことを気にかけており、商人の王車を間者にして亡命先の宇文部へ派遣し、慕容翰の様子を探らせた。慕容翰は市場で王車を見ると、無言で胸を撫でて頷くだけだった。報告を受けて慕容皝は「彼には故郷へ帰る意思がある」と喜んだ。そこで、慕容翰を迎えるため、再び王車を派遣した。慕容翰の弓は三石余りの強さがあり、矢も通常の物より長くて大きいものを用いていたため、慕容皝はこれを造り王車へ持たせた。王車は命令通り、これを道の傍らへ埋めて慕容翰へ慕容皝の意向を伝えた。慕容翰が無事帰還を果たすと、慕容皝は大いに喜び、以来彼を厚く恩遇した。

2月、故国原王の世子が人質として前燕へ入朝した。

慕容皝は後趙を討とうと思い、落ち着いた様子で諸将へ「石虎は楽安の諸城の守備を厳重にしているが、城の南北は備えをしていないであろう。今、間道を通って不意を突けば、冀州の北土を尽く破ることができるであろう」と述べた。

10月、騎兵2万を率いて柳城を発ち、西に進んで蠮螉塞に出た。さらに進軍して薊城に至ると、武遂津を渡河して高陽に入った。通過した所で蓄えられていた穀物を焼き払い、幽州・冀州から三万戸余りを引き連れて帰還した。

341年1月、慕容皝は陽裕唐柱らに命じて柳城の北に城を築かせ、宗廟と宮殿を建てて龍城と名付けた。また、柳城県を龍城県と改めた。

2月、東晋朝廷は大鴻臚郭希に節を持たせて前燕へ派遣し、慕容皝を侍中・大都督・河北諸軍事・大将軍に任じ、燕王に封じた。こうして、自称であった燕王の地位を公認された。その他の官爵は以前通りとされた。また、功臣百人余りが爵位を下賜された。

342年10月、慕容皝は棘城から龍城に遷都した。

諸勢力併呑編集

同月、慕容翰の進言を受け、慕容皝は高句麗征伐を敢行した。高句麗を攻撃するに当たり、侵攻経路は二つあった。北道は平坦で道幅も広く、南道は険阻だった。誰もが北道を行くべきだと考えたが、慕容翰は敵の不意を衝いて精鋭兵だけで南道から進撃し、一挙に丸都城(高句麗の本拠地。現在の吉林省通化市集安市の北西)を落とし、別働隊で北道を抑えるよう献策した。慕容皝はこれに従った。

11月、慕容皝は自ら四万の兵を率いて出陣し、南道を進み、慕容翰と慕容垂に先鋒を命じた。長史王寓には一万五千を与え、別働隊として北道を進ませた。故国原王は弟へ五万の精鋭兵を与えて北道へ向かわせ、自身は残った弱兵を率いて南道へ出た。慕容翰が先行して故国原王と激突すると、その間に後続の慕容皝本隊が到した。鮮于亮は数騎を引き連れて高句麗の陣を大いに乱すと、慕容皝は総攻撃を掛けて高句麗軍を大敗させた。勝ちに乗じて追撃し遂に丸都へ突入すると、故国原王は単騎で逃げた。慕容皝は故国原王の父の美川王の墓を暴いて屍を奪い、さらに母妻や珍宝を奪った。さらに男女五万人を捕虜とし、宮殿を焼き払って丸都を破壊すると帰国した。

343年2月、故国原王は弟を慕容皝の下へと派遣し、臣下となって貢物を献上することを約束した。これにより美川王の屍を返還したが、母の周氏は人質として留め置いた。

同月、宇文部の相莫浅渾が前燕を攻撃すると、前燕の諸将はこれと戦いたがったが、慕容皝は許さなかった。莫浅渾は敵が恐れていると思いこみ、酒を飲んだり狩猟をしたりして警備など全くしなくなった。そこで慕容皝は「莫浅渾が大いに堕落している今こそ決戦の時である」と言い、慕容翰へ出撃を命じた。慕容翰は敵軍と一線を交えるとこれを散々に打ち破り、兵卒の大半を捕らえた。莫浅渾はかろうじて逃げ帰った。

344年1月、慕容皝は宇文部討伐のため、親征を決意した。慕容翰を前鋒将軍とし、副将に劉佩をつけた。さらに慕容軍・慕容恪・慕容垂及び折衝将軍慕輿根に兵を与え、三道に分かれて進軍させた。これに対して宇文逸豆帰は、南羅大の渉夜干へ精鋭兵を与えて迎撃させた。慕容皝は使者を派遣して慕容翰へ「渉夜干の勇名は三軍に鳴り響いている。少し退却した方がよい」と伝えたが、慕容翰は「宇文逸豆帰は、国内の精鋭をかき集めて渉夜干の軍へ配属しました。渉夜干にはもとより勇名があり、国中の頼みの綱となっております。逆に言えば、彼さえ撃退すれば、宇文部は攻撃せずとも自ずから潰れることでしょう。それに、臣は奴らの人となりを知っております。虚名こそありますが、与しやすい相手です。退却するのは我が方の士気を挫くだけです」と返し、進撃を続けて敵軍と戦った。 慕容翰自らが陣を出撃すると、渉夜干もこれに応戦した。慕容垂が傍らから援護を行い、慕容翰は渉夜干を斬り殺した。これを見た宇文部の兵卒は、恐れおののき戦わずして潰れた。前燕軍は勝ちに乗じて追撃し、遂に都城まで攻略した。宇文逸豆帰は逃げ出し、漠北にて亡くなった。こうして、宇文部は滅亡し、慕容皝は五千戸を超える住民を昌黎へ強制移住させ、渉夜干の居城を威徳城と改名した。この戦勝で前燕は領土を千里以上広げた。飲至の礼(宗廟で戦勝報告をして酒を酌み交わす行為)を行うと、論功行賞を行った。

最期編集

345年、慕容皝は牧牛を貧しい家に与えて田畑を耕させ、その収穫の八割を搾取した。また、牛は持っているが土地を持たない者にも田畑を耕させ、収穫の七割を搾取した。記室参軍封裕がこれを諫めると、慕容皝は同意して民百姓の負担を緩和した。また、自らに誤りがあった場合は貴賤の区別なく発言するよう内外に示した。

この年、慕容皝は境内に大赦を下し、新しく作った宮殿を和龍と名付け、山の上に龍翔仏寺を建てた。

また、大臣の子弟を官学生とし、高門生と号した。かつての宮殿の東に学び舎を建てると、郷射の礼(一般の者から才覚有る者を取り立てる行為)を行わせた。そして、月に一度、慕容皝自らがその優劣を試験した。慕容皝自身も書物を好み、自ら講義する事もあった。次第に学生の数が多くなり、遂に千人余りに達した。慕容皝は『太上章』を著し、『急就篇』に取って代わらせた。また『典誡』十五篇を著して、宗族諸子の教科書とした。

10月、慕容恪が高句麗の南蘇を攻め、これを陥落させた。その後、守備兵を置いてから帰還した。

346年1月、慕容皝は世子の慕容儁と慕容恪に騎兵一万七千を与えて、夫余の討伐に向かわせた。この戦いで夫余を滅ぼし、夫余王の玄王と部落5万人余りを捕虜として連行、慕容皝の娘を玄王に娶らせた[3]

慕容皝は自ら学生の試験に臨み、その中で経書に精通した者を近侍として抜擢した。また、旱魃が続くと百姓に租税を戻した。成周・冀陽・営丘を廃止し、勃海の人を興集県に、河間の人を寧集県に、広平と魏郡の人を興平県に、東莱と北海の人を育黎県に、呉の人を呉県に集め、全て前燕の統治下とした。

348年9月、慕容皝は連日に渡って狩猟を行い、大いに収穫を挙げた。だが、白兎を射ようとした際に馬が倒れ、重傷を負った。乗輿に乗って宮殿に戻ると、慕容儁を呼び寄せて後事を託し、その後しばらくして亡くなった。在位期間は15年、享年52であった。慕容皝は漢族の流民を受け入れたので、前燕は人口が増えて発展したという。

352年11月、慕容儁が皇帝に即位すると、慕容皝は文明皇帝と追諡された。

人物編集

その容姿は龍顔(天子のような高貴な顔つき)といわれ、大きく整った前歯を持ち、身長は七尺八寸(約179cm)あった。勇猛さと固い意志を持ち、策略にも長けていた。若い頃より経学に励んだので、部内の民より大いに称賛された。また、多芸な人物であり、天文学にも精通していたという。

宗室編集

后妃編集

子女編集

  • 慕容儁 - 二男、前燕の皇帝
  • 慕容恪 - 四男、太原王
  • 慕容垂 - 五男、呉王、後燕の皇帝
  • 慕容友[4] - 范陽王
  • 慕容宜 - 廬江王
  • 慕容桓 - 宜都王、370年被殺
  • 慕容遵 - 臨賀王
  • 慕容徽 - 河間王
  • 慕容龍 - 歴陽王
  • 慕容納 - 北海王
  • 慕容秀 - 蘭陵王
  • 慕容嶽 - 安豊王
  • 慕容徳 - 梁公、范陽王、南燕の皇帝
  • 慕容黙 - 始安公
  • 慕容僂 - 南康公
  • 慕容宙 - 章武王、楽浪王、398年に段速骨に殺され、威王と諡される
  • 慕容氏 - 拓跋什翼犍の妻

脚注編集

  1. ^ 『晋書』では元真であるが、『十六国春秋』では元貞とする
  2. ^ a b 『十六国春秋』では、謀反が露見して慕容昭を誅殺した後に慕容皝は慕容仁の下へ使者を送っている
  3. ^ 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、21頁。ISBN 978-4000029032
  4. ^ 資治通鑑』では慕容交とも書かれる

参考文献編集

  • 魏書』(列伝第八十三)
  • 晋書』(成帝康帝紀、穆帝哀帝廢帝海西公紀、慕容廆載記、慕容皝載記)
先代:
慕容廆
慕容部の第6代大人
333年 - 348年
次代:
慕容儁