慕容会
生涯
編集清河王に封じられた。知恵者であり、性格も積極的でいた。祖父の成武帝慕容垂に最も寵愛された孫であった。慕容宝が北伐を行った際、慕容垂の命で慕容会は父に代わって東宮のことを管掌し、その礼遇は皇太子と同じであった。
建興11年(396年)、慕容垂は崩御すると、慕容会を次代の皇太子に指定した。しかし慕容宝は慕容会に不満を覚え、長男の長楽王慕容盛と三男の濮陽王慕容策のうちから新たに太子を立てようとした。慕容盛も慕容会を嫌っており、自ら譲歩して慕容策を太子にすべく進言した。結局、慕容策が太子に封じられた。慕容会は腹を立てた。
永康2年(397年)3月、慕容宝は薊で北魏軍に敗れた。将軍の慕容詳が中山において帝位を僭称し、慕容宝は黄龍に逃れた。慕容会は龍城を守っていたが、父帝の危機を聞いて駆けつけた。魏兵は大敗して退いた。慕容会は軍功によりますます驕り、叔父の高陽王慕容隆と遼西王慕容農がしばしば訓戒するとひどく怒った。慕容宝は慕容会の兵を奪って、慕容農らに分け与えた。慕容会は激怒し、慕容隆と慕容農を暗殺すべく刺客を放った。慕容隆は殺害されたが、慕容農は頭に重傷を負いながらも刺客の仇尼帰を捕え、慕容宝のもとへ逃げ込んだ。慕容宝は自ら手にかけて慕容農を看護した。
この時、慕容会は慕容農の存命がわからず、夜に人を遣わして父帝に「高陽王と遼西王が謀逆を企てたので、私が既に彼らを誅殺しました。」と告げた。慕容宝は「見事である、私も久しく彼らを疑っていた。」と応じ、慕容会を誘い出した。慕容会は得意のあまり、兵を率いて帰還した。慕容宝は、ただちに慕容会を誅殺するよう命令したが、慕容会は自軍のもとへ逃がれ、父帝を攻撃した。慕容宝は龍城へ逃がれ、慕容会に包囲された。
慕容会は皇帝の乗輿や器服の類を使用し、父帝の妃嬪たちを部将らに妻妾として下賜し、皇太子・録尚書事と自称した。また、父帝へ人を遣わし、慕容農らの誅殺と自身の立太子を要求したが、断られた。慕容会は兵を率いて城下へ決戦に赴いた。慕容宝は城門に臨んで慕容会を叱責し、慕容会の軍の士気を動揺させた。慕容会は大敗して陣営に帰還した。その夜、侍御郎の高雲が死士を率いて襲撃し、慕容会は中山に逃げた。その後、開封公慕容詳に捕殺された。