慕 遺(ぼ い[1]生没年不詳)は、百済東城王代南斉に使臣として派遣された百済官僚[1]中国系の百済人[2][3][4][5][6][7]。官職は長史

慕 遺
各種表記
ハングル 모유
漢字 慕 遺
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: ぼ い
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考証 編集

 百済の国王幕府の属僚[8]
時期 人名 既保有官職 百済王 私署 官職 任命追認官職(爵号) 任命要請事由 国家
久尓辛王五年(424年) 張威 長史 使節 劉宋
蓋鹵王十八年(472年) 余礼 駙馬都尉・長史 冠軍将軍・弗斯侯 未詳 使臣 北魏
蓋鹵王十八年(472年) 張茂 司馬 龍驤将軍・帯方太守 未詳 使臣 北魏
東城王八年(490年) 高達 長史 行建威将軍・広陽太守 建威将軍・広陽太守 先例・使臣・邊効邊夙著・勤労公務 南斉
東城王八年(490年) 楊茂 司馬 行建威将軍・朝鮮太守 建威将軍・朝鮮太守 先例・使臣・志行清壱・公務不廃 南斉
東城王八年(490年) 会邁 参軍 行宣威将軍 宣威将軍 先例・使臣・執志・周密・屢致勤効 南斉
東城王十七年(495年) 慕遺 長史 行龍驤将軍・楽浪太守 龍驤将軍・楽浪太守 使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧 南斉
東城王十七年(495年) 王茂 司馬 行建武将軍・城陽太守 建武将軍・城陽太守 使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧 南斉
東城王十七年(495年) 張塞 参軍 行振武将軍・朝鮮太守 振武将軍・朝鮮太守 使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧 南斉
東城王十七年(495年) 陳明 ? 行揚武将軍 揚武将軍 使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧 南斉

百済では、府官である長史司馬参軍余礼を除き、みな漢人官僚にのみ認められている。余礼は弗斯侯であり、おそらく余礼の上位に左賢王右賢王が存在していた[7]458年の段階で左賢王・右賢王がなくなってしまっていた可能性もなくはないが、同じく蓋鹵王の治世であり、それがみられなくなるのは、475年以後のことであり、長史を冠した余礼は必ずしも当該期の百済内部ではトップではない[7]。長史は本来、将軍府の府官のトップである百済王の次に位置づけられるべきものであるが、余礼の場合は必ずしもそのようには理解できない。一方、余礼以外の長史はみな漢人官僚で、これら漢人官僚の帯びた太守号は、百済独自の王号に比肩する楽浪太守、帯方太守もあるが、おおよそ、百済独自の王号より低位である。楽浪太守を帯びた慕遺は長史でもあるが、それは将軍号でいえば龍驤将軍に過ぎず、邁羅王沙法名はそれよりも上位である征虜将軍である。高達は、長史を冠しているが、これも将軍号でいえば四品の建威将軍に過ぎず、当該期の百済において、長史は必ずしも百済国内において府主である百済王に次ぐ地位ではない[7]。それに次ぐ司馬、参軍も同様で、厳密にいえば、必ずしも百済国内における支配層のトップではなく、むしろ、王権中枢は、王号を帯びた百済王族・百済貴族だった。このことは当該期の百済が、百済王を府主とし、その配下に長史、司馬、参軍を恒常的に配し、それによって百済を統治するという支配体制ではないことを示している[7]鈴木靖民が指摘するように、長史、司馬、参軍の活動から、百済において漢人官僚は外交で大いに活躍したであろうが、問題なのは漢人官僚が百済王を府主とする長史、司馬、参軍の府官として常時、百済国内において活動していたか、百済国内の支配体制が百済王を府主とする府官制をとっていたかである[7]。しかし、百済国内の支配体制において長史、司馬、参軍が常時設置されていたわけではないのであって、あくまでもそれは対中国外交においてのみ臨時に冠したに過ぎない[7]

脚注 編集

  1. ^ a b 河内春人『倭の五王 – 王位継承と五世紀の東アジア』中央公論新社中公新書〉、2018年1月19日、80頁。ISBN 4121024702 
  2. ^ 정재윤『중국계 백제관료에 대한 고찰』高麗大学歴史研究所〈史叢 77〉、2012年9月、22頁。doi:10.16957/sa..77.201209.1 
  3. ^ 盧重国 (2005年). “5世紀の韓日関係史-『宋書』倭国伝の検討-” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 261. オリジナルの2021年11月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211127011246/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-04j.pdf 
  4. ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學東洋學硏究院): p. 110. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220423195439/https://cms.dankook.ac.kr/web/-oriental/-23?p_p_id=Bbs_WAR_bbsportlet&p_p_lifecycle=2&p_p_state=normal&p_p_mode=view&p_p_cacheability=cacheLevelPage&p_p_col_id=column-2&p_p_col_count=1&_Bbs_WAR_bbsportlet_extFileId=99960 
  5. ^ 노중국 (2005年). “5世紀의 韓日關係史 : 《宋書》 倭國傳의 檢討” (PDF). 한일역사 공동연구보고서 (한일역사공동연구위원회): p. 228. オリジナルの2021年11月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211127012931/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-04k.pdf 
  6. ^ 河内春人『倭の五王 – 王位継承と五世紀の東アジア』中央公論新社中公新書〉、2018年1月19日、81頁。ISBN 4121024702 
  7. ^ a b c d e f g 井上直樹『百済の王号・侯号・太守号と将軍号 : 5世紀後半の百済の支配秩序と東アジア』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 211〉、2018年3月30日、133-134頁。 
  8. ^ 李文基『百済内朝制度試論』学習院大学史学会〈学習院史学 41〉、2003年3月20日、21頁。 

関連項目 編集