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憲法無効論(けんぽうむこうろん)とは、日本国憲法は無効あるいは失効しているとする論の総称。

概要編集

憲法無効論は日本国憲法の制憲過程に重大な瑕疵があり無効であるとするもの、あるいは日本国との平和条約締結にともない自動失効しているとするものの総称であり、法理論としては前者が取り上げられ現代の憲法改正論議において論じられることが多いが、当初は後者の視点からの論であった[1]

憲法無効・失効論の述べるところは憲法失効にともない大日本帝国憲法を唯一の法源とすべしという点にほぼ要約されるが(別論あり)、これはあくまで手続き上の議会主義的正統性に関する要求であり、旧憲法の改正手続きに則り速やかに新たな自主憲法を策定すべし(石原慎太郎等)、ないしは憲法の正当性を確保するべく日本国憲法を改正すべし(小沢一郎等)との論である。

今日では、最高裁をはじめ日本国憲法を法源とした多くの判例が適示されており、既に解決済みの論題として法曹界で積極的に採り上げられる事は無く、日本国憲法が無効ないし失効していると主張する法学者は少ない。一方で議会を中心とした憲法改正論議においてしばしば紹介され論じられることがある。論点としては当初は新憲法9条と日米安全保障条約の整合性に焦点があったが、天皇主権を明示する帝国憲法が国民主権を前提とする新憲法を制定することはできないとする論点や(憲法改正限界説)、あるいは仮に可能であったとしても制憲過程に重大な瑕疵があったのではないかとの観点を含んでおり(無限界説における押し付け憲法説)論争を生んだ。

第二次世界大戦の占領を経て憲法を無効化した例は、海外にも例がある。オーストリア第二共和国は、ナチス・ドイツからの独立に当たって1933年時点でのオーストリア憲法を復活させる主旨の立法(憲法調整法ドイツ語版)を制定し新憲法までのつなぎとし、エンゲルベルト・ドルフース政権下の1934年改正についてはこれを無効とした。ナチス・ドイツのフランス侵攻に敗北したフランスでは国会議決により、フィリップ・ペタン元帥の政府に憲法改正の全権をゆだねた(1940年7月10日の憲法的法律)。ペタンの政府は翌日第三共和政の憲法を廃止する憲法行為フランス語版を発した。ヴィシー政権期を通じて新憲法は事実上制定されず、時折制定される憲法行為が憲法の代替をしていたが、1944年8月9日、フランス共和国臨時政府はヴィシー政権下で成立した憲法的法律を含む諸法令について無効を宣言した(本国における共和国の法律回復を宣言する1944年8月9日布告フランス語版)。ヴィシー体制はまもなく崩壊している。

論拠と反論編集

憲法無効論は、概ね次のような論拠に基づき主張されている。

  • 日本国憲法は大日本帝国憲法の改正限界を超えている(憲法改正限界説)。
  • GHQが原文を作成しGHQの監督下の国会で行われた憲法の改正は、ハーグ陸戦条約に違反している。
  • 大西洋憲章の理念に反している。
  • 占領政策の終了にともない統治体制下での立法は失効しており、新たに措置する必要がある。

憲法改正の限界を超えているという主張に対しては、そもそも憲法改正に限界は存在しないとする説(憲法改正無限界説)のほか、憲法改正限界説の立場からは、ポツダム宣言の受諾により、法律学的意味の「革命」が生じたとしてその正当性を説明する八月革命説が有力に主張されている。また失効論についての有力な反論はボン基本法のような失効条項が明記されていない点が挙げられる。

その他の論拠に対する反論については、押し付け憲法論#指摘と反論を参照。

議論の経緯編集

1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約の発効による占領政策の終了(主権回復)にともない、ポツダム政令は法的根拠を失い相次いで廃止・代替法律の制定・存続措置の実施が行われることになったが、この国会論議のなかでポツダム政令無効論が議論の対象となった。この段階で日米安全保障条約を締結するために憲法を改正し、条約との整合性をとるべき(改正論)が主張されたが、憲法無効論そのものが論じられる事はなく、憲法9条と日本の再軍備の問題は決着を見ることなく日本国との平和条約および日米安全保障条約(旧条約)が締結された。

議会で無効説が登場したのは1953年(昭和28年)12月11日衆議院外務委員会(並木芳雄委員)においてである。11月19日に時のアメリカ合衆国副大統領リチャード・ニクソン東京会館で、“日本を非武装化したのは失敗であった”旨の演説をおこない、またアメリカ合衆国国務長官ジョン・フォスター・ダレスが24日の記者会見でこれを支持したことを受け、日本国憲法第9条が無効であるのではないかと外務大臣岡崎勝男に質問したことを端緒とする。

これを引継ぎ翌1954年(昭和29年)3月22日衆議院外務委員会公聴会(大橋忠一)において制憲当時の情勢や英米法の理念にかんがみ日本国憲法が無効になっているとの発言がなされた。

文藝春秋1999年(平成11年)9月号に小沢一郎が「日本国憲法改正試案」を掲載したことから憲法無効論はふたたび注目を集めた。小沢は2017年にも日本国憲法について「法律論から言えば無効です。民法にも、強制下で結んだ契約は無効だとはっきり書いてある。これは万国共通の考え方だ。」との認識を示している[2]。石原慎太郎は2002年(平成14年)12月の東京都議会で「国会の議決で憲法を破棄すべし」との発言がある(しかし憲法を破棄した後どういう措置を採るのか、最高評議会のような執行機関を置くのかについては述べていない)。

法実践に関する主張編集

憲法無効論は、一般に、「実効性をまったく無視した議論」であって「効果的な法実践」は不可能とされている[3]。一方で、法的安定性を保ちつつ、法実践を行うために、無効論者からはいくつかの案が出されていた。

憲法失効論に立つかぎり日本国憲法はすでに失効しているため失効宣言をするまでもなく無憲法状態となる。この場合不文法および慣習による統治が継続していたこととなり、直ちに日本国憲法に含まれる(含まれていた)重要な法理や法手続、理念、あるいは下位法令までもが自動失効するわけではない。またプープル主権説に立つ限り、現代をいきる有権者団の利害得失を前提とした理念や法理との整合性が問われる[4]

手続き上の憲法改正を無効とする憲法無効論に立つ場合は、1947年に実施された憲法改正の無効を宣言することで大日本帝国憲法の継続を宣言する。これについては、日本国憲法を完全に無効とする見解も存在するが、事情判決の法理等の援用により憲法無効の確認前までに日本国憲法に基づいて行われた統治行為は有効とする見解が有力である。もっとも、この場合、政策論として憲法の無効を宣言するメリットが存在するのか、という問題が存在する。新無効論では、大日本帝国憲法は今現に施行されており、かつ、日本国憲法も講和条約として施行されているのであり、「規範そのものの復原」ではなく「規範意識の復原」を主張している。

「日本国憲法の始原的無効(定立の時点で無効)宣言」及び「日本国憲法は憲法典ではなく一種の講和条約であることの確認」と同時に「大日本帝国憲法が現存しているとの認識の回復」及び「帝国憲法改正」を主張する立場からは「真正護憲論」、日本国憲法の失効宣言を行うとの立場からは自主憲法論を主張する者もいるが、その違いは曖昧であり、一般には区別されることはない。例えば「新無効論」(真正護憲論)の立場に立つものの中は維新政党・新風や生活の党、次世代の党などの「旧無効論」(自主憲法論)を主張する政党・議員を支持する者も確認されている。

現在では、生活の党は自由党へと改称し、憲法復原に関する主張は公式には行わず、「日本国憲法における基本理念、原理は、人類普遍のものであり、守られるべき価値観であるとともに、国民の間に定着している。このことをもってすると、占領下だから無効などという粗雑で形式的な議論をすべきではないと考える」「憲法の4大原則を堅持しつつ、『時代にあった憲法』にするために『憲法の規定を一部見直し、足らざるを補う』こと」を表明しており、党としては「加憲」の立場としている[5]。次世代の党は日本のこころへと改称され、こちらも党としては公式に憲法無効論を訴えているわけではない。日本維新の会は憲法無効論に関する統一見解は発表していないが、維新の会の初代代表だった橋下徹は憲法無効論を否定している。みどりの風は解党しており、減税日本も国政選挙では憲法に関する公約を述べていない。自由民主党西田昌司のように一部には憲法無効論を唱える議員もいるが、現総裁安倍晋三は憲法無効論には否定的である。旧民主党では民社協会の流れをくむ議員の一部に憲法無効論を公に主張している議員は存在した。また、自主憲法制定国民会議は現在では憲法無効論を「合理的ではない」として否定している。一方、維新政党・新風や新政未来の党、志士連合といった保守・右派系政党(政治団体)は憲法無効論を支持している。

自主憲法論(旧無効論)編集

創憲論とも呼ばれる。維新政党・新風や旧自由党が主に主張していたが、どちらも自主憲法草案を「日本国憲法」としており、真正護憲論との違いがみられる。

旧民主党も創憲論を主張しているが、あまり積極的ではなく、2011年12月20日に小沢一郎や石原慎太郎と言った創憲論者が、自主憲法制定を唱えるたちあがれ日本などとともに新党を結成する準備会合を開くという説もあった[6]。但し、会合自体は延期され、小沢も2011年までの間、離党しなかった。

その後、たちあがれ日本は旧日本維新の会に合流し、2012年の第46回衆議院議員総選挙では維新の会、国民新党の両党が自主憲法制定を公約に掲げたが、旧日本維新の会内部では憲法無効論を巡る議論があり、無効論を否定する橋下徹の立場が有力となっていたほか、国民新党に至っては解党した。小沢や、石原新党への合流が予想された河村たかしの減税日本をはじめ、維新の会への合流が噂された一部の人物らは、日本未来の党に合流し、未来の党はリベラル派の嘉田派と、保守派の小沢派・亀井派・河村派にそれぞれ分裂した。生活の党の小沢一郎や無所属(旧みどりの風所属)の亀井静香はかつて自主憲法制定を唱えており、小沢は生活代表就任後も「純粋法理論上は憲法は無効」と述べていた。

現在、国政選挙で具体的に憲法無効論を訴えているのは、既述の維新政党・新風などの一部の保守・右派系政党(政治団体)・政治家政治活動家)を除き確認されていない。

旧日本維新の会分裂後は、日本のこころが「自主憲法論」を唱えているが、憲法復原を意味するのか、憲法改正を意味するのかについてまでの言及はされていない。

真正護憲論(新無効論)編集

日本国憲法の制定過程が国内法、国際法などに違反し、憲法としては始原的無効であり、大日本帝国憲法は改正されることなく現存しているとの「認識の復元」と帝国憲法の改正を主張。旧無効論との相違点は「憲法としては無効である日本国憲法」を大日本帝国憲法第76条の規定によりその制定過程に鑑み講和条約と評価し、転換する(講和条約説、無効規範の転換)ことで日本国憲法を全否定せず、帝国憲法に違反しない限度でその効力を認める事で、法的安定性を確保し、社会や国民生活に与える影響や混乱の防止を実現できることにあるとする(日本国憲法が最初から講和条約であったという意味ではない)。

この新無効論の立場を採用している団体としては主唱者の南出喜久治が塾長の國體護持塾をはじめ新政未来の党、志士連合、神州蛇蝎の会がある。

なお、新無効論者には、天皇主権を否定して天皇機関説を唱える者も多い。

文献情報編集

  • 『憲法無効論に関する報告書』憲法調査会(憲法調査会報告書附属文書第十号 昭和39年7月 憲法調査会特別部会)
  • 「日本国憲法の法源」細川哲(鳥取大学教育学部研究報告第13巻第2号)[2][3]

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ 例えば1952年(昭和27年)3月17日の参議院予算委員会参考人として招聘された神川彦松は以下のように発言している。「私は今申しましたように、国際政治史及び国際政治学の專門家でありまして、憲法の專門家でもなく、又国際法も大しては專門とはいたしておりませんから、私が申しますることは形式的な法律論ではなく、実質的な政治論が主になるかと思いますが、その点も御了承を願いたいのであります。……私などの考えによりますれば、形式的には成るほど日本国憲法となつておりまずるが、実質的にはいわゆる戰時占領中、マツカーサー元帥の軍事独裁下において制定されたものでありますから、本来占領中における臨時根本法であるべきもので、日本の永久憲法であるとは断じて私は考えないからであります。これは申上げるまでもなく、丁度同じような状態に置かれましたドイツにおいて、いわゆるボン憲法が制定されました以来の経過を御承知になりますならば、全然疑いのないところでありまして、ボン憲法の最後の條文、即ち第百四十七條には、この根本法というのは戰時占領中のものであつて、占領の終了と同時に失効するということが明確に書いてある。およそ軍事占領下において、国民というものは主権を持ちませんから、主権を持たない国民が自由な発言ができるわけはなく、又民主的な憲法ができるわけはないのでありますから、その際にできたものが民主的な憲法であるというようなはずはないのであります。それを民主的憲法と言えば僞りであると申すほかないのであります。従つてそれが占領中だけのもので、占領の終了と同時に失効するということは、理論の上においても、又実際の上においても、当然でなければならんと私は確信いたしておるのであります。」
  2. ^ 小沢一郎氏「悪い子供が改憲の火遊びしてる」と日本を不安視
  3. ^ 『注釈 日本国憲法 上巻』樋口陽一佐藤幸治・中村睦夫・浦部法恵 青林書院ISBN 4-417-00525-7
  4. ^ もっとも、トーマス・ジェファーソンに拠れば憲法とは憲法制定会議に参集した有権者団の合意にすぎず、憲法そのものの効力には期限があるべきだとする。「「大地の用益権は生きている人々に属する」-財産権と世代間正義についてのジェファーソンの見方」森村進(一橋法学2006-11 一橋大学機関リポジトリ)[1]
  5. ^ 自由党公式サイト『憲法についての考え方 Q&A 』
  6. ^ 『石原新党 20日に準備会合予定』 毎日新聞2011年12月17日