懿宗 (唐)

唐の皇帝

懿宗(いそう)は、唐朝の第20代皇帝宣宗の長男。史書によれば暗愚な性格であったという。

懿宗 李漼
第20代皇帝
TangYizong.jpg
王朝
在位期間 大中13年8月13日 - 咸通14年7月19日
859年9月13日 - 873年8月15日
都城 長安
姓・諱 李温→李漼
諡号 昭聖恭恵孝皇帝
廟号 懿宗
生年 大和7年11月14日
833年12月28日
没年 咸通14年7月19日
873年8月15日
宣宗
晁美人中国語版
后妃 ない
陵墓 簡陵
年号 咸通 : 860年 - 873年

生涯編集

初名は。鄆王に封じられたが、後に汴王に転封された。宣宗は雍王李渼(靖懐太子)を皇嗣と定めたが、李渼が早世したために、庶長子であった李温の立太子を考えたものの、あまりにも暗愚なために立太子を躊躇した。しかし大中13年(859年)に宣宗が危篤となると、宦官が勝手に李漼(李温)を擁立させた。

技量が落ち着いて重厚である上、容貌が怪しかったという。音律にも長けたが、遊興を楽しむのに節度がなく、酒色に没頭したまま政務を放棄した。即位後は宦官に朝政を一任し、その在位中には藩鎮の割拠とあいまって農民反乱が多発した。即位した初年にすでに浙東の裘甫が民乱を起こし、咸通9年(868年)には徐州泗州を守っていた藩鎮の戍兵らが桂林に移ると不満を抱き、龐勛の主導で兵乱を起こした。

仏教を信奉した懿宗は咸通14年(873年)春、大臣の反対も聞かず、莫大な費用をかけて仏骨を迎える行事を強行した。当時に翰林学士の劉允章中国語版は『直諫書』を引用し、「国家を崩壊させる9つの要素」を指摘し、政治の跛行を描写した。一方、伝記小説の『唐人伝奇』や北宋時代の『太平広記』には著墨、つまり朝廷の捺印も経ていない便法的な売官が懿宗の治世に盛んだったと伝えられている。

崩御の2年後に発生した黄巣の乱により唐朝は回復不能の打撃を受けることになる。

新羅景文王が咸通3年(862年)7月に使者を派遣して土産物を貢納し、これに対し咸通6年(865年)4月に景文王を〈開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督・鶏林州諸軍事・上柱国・新羅王〉に冊封している。

宗室編集

后妃編集

みな側室

  • 貴妃王氏(死後に恵安皇后と贈号された)、王氏(恭憲皇后)
  • 淑妃郭氏、楚国夫人楊氏、婕妤崔氏、婕妤王氏、雷氏

子女編集

  • 男子:魏王李佾、涼王李侹、蜀王李佶、咸王李侃、普王李儼(僖宗)、吉王李保、寿王李傑(昭宗)、睦王李倚
  • 女子:同昌公主、安化公主、普康公主、昌元公主、昌寧公主、金華公主、仁寿公主、永寿公主、遂寧公主