我那覇和樹

日本のサッカー選手 (1980-)

我那覇 和樹(がなは かずき、1980年9月26日 - )は、沖縄県那覇市出身のサッカー選手JFL沖縄SV所属。ポジションフォワード(FW)。元日本代表

我那覇 和樹
名前
カタカナ ガナハ カズキ
ラテン文字 GANAHA KAZUKI
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1980-09-26) 1980年9月26日(43歳)
出身地 沖縄県那覇市
身長 181cm
体重 76kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 沖縄SV
ポジション FW
背番号 11
利き足 右足
ユース
1996-1998 宜野湾高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1999-2008 川崎フロンターレ 246 (69)
2009-2010 ヴィッセル神戸 19 (0)
2011-2013 FC琉球 88 (31)
2014-2019 カマタマーレ讃岐 119 (16)
2020-2021 福井ユナイテッドFC 18 (9)
2022-2023 ジェイリースFC 29 (11)
2024- 沖縄SV
代表歴2
2006 日本の旗 日本 6 (3)
1. 国内リーグ戦に限る。2024年2月6日現在。
2. 2006年11月15日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

来歴 編集

小学生の頃に宇栄原(うえばる)FCでサッカーを始め、小禄(おろく)中学校から宜野湾高校に入学。宜野湾高校3年時には第77回全国高等学校サッカー選手権大会に出場した。高校卒業後、川崎フロンターレに入団した[1]

ルーキーイヤーの1999年5月2日、J2の仙台戦(仙台スタジアム)でデビュー。翌2000年には5月13日のJ1・1stステージの名古屋戦(等々力陸上競技場)で途中出場し、後半終了直前に日本代表ゴールキーパーの楢﨑正剛から初ゴールをあげた。そして1stステージ最終節のC大阪戦(長居スタジアム)での活躍をきっかけにレギュラーに定着。優秀新人賞(新人王に次ぐタイトル)を獲得した。

J2に降格した2001年は目立った活躍もなかったが、2002年途中から再びレギュラーポジションを奪取。2003年は開幕3試合連続ゴールを決めるなどの大活躍でチームを引っ張り、2004年には川崎のストライカーとして、J2リーグ得点ランク2位タイ(日本人選手としては最多タイ)の22得点を記録。J2優勝とJ1復帰の立役者となった。この年は11月23日の甲府戦(等々力)で、シーズンにおけるチーム100得点目を決めるなど節目のゴールを挙げている。

我那覇自身にとっても5シーズン振りのJ1挑戦となった2005年は、4月17日の名古屋戦(等々力)においてゴール前での味方選手との衝突により左脛骨陥没骨折のアクシデントに見舞われたが、7月に復帰し、J1リーグ戦では26試合に出場し6得点を挙げた。

2006年シーズン開幕戦の新潟戦(等々力)で、J1では自身初(J2も含めると3度目)のハットトリックを達成。第2節の京都戦(西京極)でも2得点し、得点ランキングで一時単独トップに立った。同年のJリーグオールスターカシマスタジアム)では、監督推薦によりJ-EASTの選手として初選出。その後リーグ戦ではゴールを量産し続け、シーズン終了時には18得点でJリーグ得点ランキング第3位となった(広島佐藤寿人と並ぶタイ記録)。

2006年の活躍を認められ、同年日本代表監督に就任したイビチャ・オシムにより日本代表に初選出される(沖縄県出身者としては初めての日本代表選手[1])。オシムジャパン最初の試合となった8月9日の国際親善試合、トリニダード・トバゴ戦(国立霞ヶ丘競技場陸上競技場)で先発出場。同年9月6日のAFCアジアカップ2007 (予選)イエメン戦(サナア)では後半途中から出場し、ロスタイムに決勝点となる代表初ゴールを決める。同年11月15日のアジアカップ予選、サウジアラビア戦(札幌ドーム)では、前半29分、後半5分に相次いで得点を挙げ、1試合2得点をマークした。

2007年シーズンは、前シーズン終盤に痛めた怪我の影響で出遅れたものの徐々に調子を上げ、4月21日の浦和戦(埼玉スタジアム2002)では、浦和のホーム不敗記録を16試合で止める得点を奪った。しかし、その翌々日の練習後、体調不良によりチームドクターから受けた点滴治療(サンケイスポーツによる「ニンニク注射」でっち上げ報道)がJリーグのドーピングコントロール委員会で問題視され、ドーピング違反で6試合出場停止処分を受けた[注釈 1]

これに対し我那覇は処分の取り消しを求めてスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴し、2008年5月27日、CASは我那覇の訴えを全面的に認め、Jリーグに対し、CAS史上最高額となる2万ドルのペナルティを科す裁定を下した[2][3][4]。その後、2008年シーズン終了をもって契約期間満了により、10年間所属した川崎を離れることとなり、2009年シーズンからはヴィッセル神戸への加入が決まった。背番号は前年まで神戸に在籍した大久保嘉人の番号であり、チームの歴史でも永島昭浩などのプレイヤーが背負ってきた「13」に決まった。しかしカイオ・ジュニオール監督時代から怪我の影響で出場機会に恵まれなかった。2010年は前年6月にVfLヴォルフスブルクから復帰した大久保に背番号「13」を譲り、自身は川崎時代から愛着のある背番号9に変更。しかし、2010年シーズンのリーグ戦は途中出場の8試合で無得点に終わり、同年12月5日、契約満了により神戸を退団。

12月21日に地元・沖縄のFC琉球からのオファーにより同チームへの入団が決定した。

2014年、カマタマーレ讃岐へ完全移籍[5]。4年ぶりにJリーグへ復帰した。2019年11月30日、契約満了により退団した[6]

2020年1月15日、福井ユナイテッドFCへの完全移籍が発表された[7]

2021年12月12日、契約満了により退団[8]

2022年1月21日、ジェイリースFCに加入を発表[9]

2023年12月22日、沖縄SVに移籍[10]

エピソード 編集

  • 2000年のJ1 1stステージ最終節で勝てば初のステージ優勝だったセレッソ大阪相手に先制点を挙げた。その後は同点に追いつかれるが、延長戦において浦田尚希Vゴールをアシストし、C大阪のステージ優勝を阻止している。
  • 2001年シーズンのJ2最終節において、途中出場ながら延長戦で山形の昇格を阻止するゴールを決めている。
  • 私生活では2004年に長男が誕生。生まれた直後の試合では家族に捧げるハットトリックを達成している。
  • 我那覇のキャッチフレーズとして時折メディアで使用される「島人(しまんちゅ)ストライカー」はサンケイスポーツの命名である。
  • 2007年、無申請での静脈注射でドーピング規定に違反したとして、6試合の出場停止処分、チームには1000万円の罰金が課された。しかし、実際は点滴ビタミンを追加していただけであり、全JクラブのドクターからJリーグに質問状が提出されるという異例の事態が発生した。その後、日本アンチ・ドーピング機構(JADA)は今回のケースが世界アンチ・ドーピング機関 (WADA) の規約違反にはならないとの判断を示した。Jリーグが規約集に掲げるWADA及びFIFAのルール基準では申請の必要性は無い。2007年末、我那覇とその弁護団はJリーグの処分を不服とし、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) へ仲裁の申し立てを行った。また、Jリーグ選手協会(JPFA, 藤田俊哉会長)も我那覇側の支持を表明。公式サイトでは仲裁申し立て費用の募金活動を行っていた。
    • そもそも、にんにく注射自体も厳密にはWADA(世界アンチ・ドーピング機関)の規程ではドーピングではなく、Jリーグのローカルの倫理規定に過ぎなかった。ところが、Jリーグで行なわれた事情聴取で青木治人DC委員長は、我那覇側にまったくの反論の機会を認めず、最初から処罰ありきの前提でドーピングと宣告。まったくの冤罪であった。事実を確認する前にスポーツ新聞の誤報を鵜呑みにして、マスコミに向けてこれはドーピングだと騒いだのはJリーグの側であり、当時の川淵三郎サッカー協会会長も、鬼武健二チェアマンも青木治人DC委員長の誤った判断を支持し、FIFAからもドーピングではないと指摘があったが、撤回しなかった。我那覇は、最終的には3000万円を越える私財を投じてCAS(スポーツ仲裁裁判所)での裁定に臨んだ。浦和レッズの当時のチームドクター仁賀定雄は、我那覇にこの処分は明らかな誤りで、ドーピング違反ではないこと、Jリーグの医師としてそんな窮地に選手を追いやってストレスを与えてしまっていることへの謝罪を伝えている。また「この間違った前例が残ると、今後のすべてのスポーツ選手が適切な点滴医療を受ける際に、常にドーピング違反に後で問われるかもしれないという恐怖にさらされます」とも述べている。[11]
  • 2008年、ナビスコ杯千葉戦では上述のドーピング騒動で潔白が証明された直後という事もあり、アウェーでの試合にもかかわらず千葉サポーターからも拍手で迎えられた。
  • 2011年に移籍したFC琉球で監督を務めていた新里裕之は、宜野湾高校の同期である。

所属クラブ 編集

個人成績 編集

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1999 川崎 27 J2 3 0 0 0 3 2 6 2
2000 J1 18 2 7 2 1 0 26 4
2001 17 J2 31 2 3 1 5 1 39 4
2002 27 21 3 - 5 4 26 7
2003 40 13 - 4 4 44 17
2004 9 42 22 - 3 2 45 24
2005 J1 26 6 2 0 3 2 31 8
2006 32 18 9 3 1 0 42 21
2007 18 1 1 0 1 0 20 1
2008 15 2 5 2 2 0 22 4
2009 神戸 13 11 0 3 1 1 0 15 1
2010 9 8 0 0 0 1 0 9 0
2011 琉球 JFL 27 6 - 1 0 28 6
2012 28 13 - 0 0 28 13
2013 33 12 - 2 0 35 12
2014 讃岐 J2 26 3 - 1 0 27 3
2015 31 5 - 1 0 32 5
2016 24 1 - 1 0 25 1
2017 12 2 - 0 0 12 2
2018 12 1 - 1 0 13 1
2019 J3 14 4 - 1 0 15 4
2020 福井U 北信越1部 4 1 - 1 0 5 1
2021 14 8 - 1 0 15 8
2022 ジェイL 九州 16 6 - - 16 6
2023 13 5 - - 13 5
2024 沖縄SV 11 JFL -
通算 日本 J1 128 29 27 8 10 2 165 39
日本 J2 242 52 3 1 24 13 269 66
日本 J3 14 4 - 1 0 15 4
日本 JFL 88 31 - 3 0 91 31
日本 北信越1部 18 9 - 2 0 20 9
日本 九州 29 11 - - 29 11
総通算 505 146 34 9 40 15 589 160
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2007 川崎 9 5 0
通算 AFC 5 0

代表歴 編集

試合数 編集


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2006 6 3
通算 6 3

ゴール 編集

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2006年9月6日  サナア   イエメン ○ 1-0 AFCアジアカップ2007予選
2. 2006年11月15日  札幌   サウジアラビア ○ 3-1
3.

個人タイトル・表彰 編集

出版 編集

関連書籍 編集

  • 2011年12月 『争うは本意ならねど ドーピング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール』 (集英社インターナショナル、木村元彦) ISBN 4797672013

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ちなみに、ニンニク注射だとしてもJリーグのローカルルールに違反するが、国際的にはドーピングではない

出典 編集

  1. ^ a b 我那覇、サッカー日本代表入り 県出身で初”. 琉球新報 (2006年8月5日). 2013年9月6日閲覧。
  2. ^ 我那覇和樹選手弁護団. “"我那覇選手を応援してくれた全てのかたへのお礼とご報告"”. 2008年6月17日閲覧。
  3. ^ Arbitration CAS 2008/A/1452 Kazuki Ganaha v/Japan Professional Football League, award of 26 May 2008”. 2011年7月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月9日閲覧。
  4. ^ 驚くべき冤罪を浮き彫りにした、ノンフィクションの真髄。~我那覇“ドーピング事件”の真相~ -NumberWeb: 2012年3月19日
  5. ^ 我那覇和樹選手 完全移籍加入のお知らせ”. カマタマーレ讃岐 (2014年1月13日). 2014年1月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月19日閲覧。
  6. ^ 我那覇 和樹 選手 契約満了のお知らせ”. カマタマーレ讃岐 (2019年11月30日). 2024年1月19日閲覧。
  7. ^ 我那覇 和樹 選手 福井ユナイテッドFCへ完全移籍のお知らせ”. カマタマーレ讃岐 (2020年1月15日). 2020年1月15日閲覧。
  8. ^ 契約満了選手のお知らせ(3)”. 福井ユナイテッドFC (2021年12月12日). 2021年12月12日閲覧。
  9. ^ 【新加入選手のお知らせ】”. ジェイリースFC (2022年1月21日). 2022年1月21日閲覧。
  10. ^ 2024新加入選手のお知らせ 我那覇和樹選手”. 沖縄SV (2023年12月22日). 2024年2月6日閲覧。
  11. ^ 07年我那覇和樹を襲った冤罪事件。「言わないと一生後悔する」”. Sportiva. 2021年4月13日閲覧。
  12. ^ 月間ベストゴール 6月度”. Jリーグ (2019年). 2022年12月17日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集