戒厳
戒厳(かいげん)とは、戦時や自然災害、暴動等の緊急事態において兵力をもって国内外の一地域あるいは全国を警備する場合に、国民の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権の一部ないし全部を軍部の指揮下に移行することをいう。軍事法規のひとつであり、戒厳について規定した法令を戒厳令(英語:martial law)という。
本来はテロなどによる治安悪化や過激な暴動を中止させるために発令が行われる。非常事態宣言との定義の違いは、戒厳とは国の立法・司法・行政の一部又は全部を軍に移管させることである[1]。通常の民事法・刑事法の適用は一部または全部停止され軍法による統治が行われる。また、裁判は軍事法廷の管轄となる場合がある。クーデター(大韓民国で1980年、タイは2006年と2014年、エジプトは2013年)に伴い、起こした臨時政府によって発令されることもある。民衆の抗議・デモ等により政府が危機に陥った際(中国、1989年の天安門事件)に、反政府勢力を抑える目的で戒厳が布かれることがある。また、大規模な自然災害の際には戒厳が宣言される場合がある。戦時中であったり、または民政政府が機能していなかったり、民政政府が存在しない場合は、戒厳が布かれる場合がある。このような例としては、第二次世界大戦後の復興期のドイツと日本 、そして米国南北戦争後の南部復興の時代などがある。典型的な戒厳下では夜間外出禁止令を伴う。
歴史編集
フランス革命中の1791年にフランスで施行された「戦場及び防塞の維持区分、防御工事等の警察に関する法律」を淵源とする。また、1848年革命後のプロイセン王国で施行された「戒厳に関する法律」がある。共に限定地域において常法を停止し、指揮官掌下で軍隊を率いて警戒するとされていた。
日本における戒厳編集
大日本帝国憲法制定前の法体系において戒厳の態様を規定していたのが1882年(明治15年)8月5日太政官布告第36号「戒嚴令」である。その後、1889年(明治22年)2月11日に公布された大日本帝国憲法の第14条において、「天皇は戒厳を宣告す。戒厳の要件及効力は法律を以て之を定む」とし、憲法の体系に組み込まれた。
このように、「戒厳令」は「戒厳」を規定した法令の名称であり、「戒厳の布告」により「戒厳令」に規定された非常事態措置が適用されることになる。したがって、戒厳の宣告を行うこと自体をしばしば「戒厳令をしく」「戒厳令下に置く」というが、この表現は誤りである。また、東京周辺が騒乱状態に陥った際、例えば二・二六事件時にとられた行政措置(後述)を「戒厳」ということもあるが、これも正しい表現ではない。
なお、日本の現行法には、戒厳に関する規定、戒厳令に相当する法令は存在しない。
戒厳地域区分編集
日本の戒厳令においては、以下の2種類の戒厳地域区分が存在した。
- 臨戦地境
- 戦時にあって警備を要する地域。軍事に関する事件に限り、地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となる。
- 合囲地境
- 敵に包囲されている、または攻撃を受けている地域。一切の地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となる。
戒厳の実例編集
臨戦地境戒厳は、日清戦争中の広島市宇品地区、日露戦争中の長崎市、佐世保市、対馬、函館市、台湾全域、澎湖島、馬公要港に布かれた。一方、合囲地境戒厳が発令された例はない。
勅令による行政戒厳編集
以上、「戒厳令」で規定された戒厳の他に、東京周辺にて緊急勅令に基づくいわゆる「行政戒厳」が宣告された例が3例ある(日付は勅令の公布日)。
いずれの場合も、戒厳令で想定する臨戦・合囲の地域には該当しない。そこで緊急勅令では「一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スル」として戒厳令の規定を準用したのである(「必要ノ規定」に該当する条文は改めて後続する勅令[2]で限定的に列挙されている)。つまり、これらの戒厳措置は戒厳令に根拠を有するのでなく、あくまで緊急勅令による騒乱鎮圧を目的とした措置だったと考えられる。
中華人民共和国における戒厳編集
中華人民共和国では、1989年3月8日、当時チベット自治区党委書記だった胡錦濤がラサ全市に午前零時から中華人民共和国史上初めての戒厳を布告した[3]。同年5月19日に六四天安門事件に伴い中国共産党政府によって戒厳が布告された、続いて李鵬首相が戒厳の必要性を訴える講話を行った。戒厳の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本やイギリス、西ドイツなどの西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党によって次々と遮断されていたものの、アメリカのCNNは依然として世界各国へ向けた生中継を続けていた。
香港における戒厳編集
香港では、1922年に香港海員ストライキに対して香港政庁によって香港史上初の戒厳令が敷かれ、1956年10月12日には中国国民党系住民と三合会による雙十暴動に際して当時の香港総督によって戒厳が布告された[4][5][6][7]。
また、1922年に香港では夜間外出禁止令や検閲などが可能な事実上の戒厳令に近い「緊急状況規則条例」が定められており[8]、1967年5月24日に文化大革命の影響で起きた香港暴動に対して香港政庁が発動し[9]、香港返還後は2019年10月4日に香港政府が逃亡犯条例の改正案を撤回した後も収束しないデモ活動に対して56年ぶりに発動した[10][11]。
中華民国(台湾)における戒厳編集
中華民国(台湾)では、中国国民党の蔣介石政権下の1949年(民国38年)5月19日に台湾省戒厳令が台湾省に布告された。その後、蔣経国総統が五一九緑色運動の高まりを受けて1987年7月15日に解除するまで、38年間もの長期に亘って施行され続けた。これは20世紀を通じて世界最長の戒厳である。
韓国における戒厳編集
韓国では戒厳が布告された例は下記の通り。
- 1948年10月21日 - 1949年2月5日、麗順叛乱事件の勃発に伴い麗水・順天地域限定で戒厳が布告。
- 1948年11月17日 - 1948年12月31日、4・3事件の勃発に伴い済州島地域限定で戒厳が布告。
- 1952年5月25日 - 1952年7月28日、釜山政治波動に伴い慶尚南道・全羅南道地域限定で戒厳が布告。
- 1960年4月19日 - 1960年7月16日、四月革命の勃発に伴いソウル特別市地域限定で戒厳が布告。
- 1961年5月16日 - 1962年12月6日、5・16軍事クーデターの勃発に伴い韓国の全地域に戒厳が布告。
- 1964年6月3日 - 1964年7月29日、日韓会談の反対デモに伴い戒厳が布告。
- 1972年10月17日 - 1972年12月13日、朴正煕政権による十月維新に伴い戒厳が布告(国会の解散と政党による政治活動禁止を内容とする特別宣言も同時に発表)[12]。
- 1979年10月18日 - 1981年1月24日、釜馬事件の勃発に伴い釜山直轄市地域限定で戒厳が布告(1979年10月26日の朴正煕暗殺事件・1980年5月17日の戒厳令拡大に伴い韓国の全地域に戒厳が布告)。
なお、2016年に発覚した崔順実ゲート事件当時、国会によって弾劾訴追された朴槿恵大統領の罷免を憲法裁判所が認めず、反発した国民が暴徒と化した場合、陸軍が戒厳令を布告し、デモを鎮圧する計画を国軍機務司令部(現・軍事安保支援司令部)が策定していた事実が明らかになっている[13][14][15]。
タイにおける戒厳編集
タイ王国では反政府デモが続き2014年5月20日に戒厳が発令された[16]。2015年4月1日に解除されたが、同時に軍に戒厳下と同等の権限を認める命令が出されたため独裁体制の強化につながるとの批判が出された[17]。
フィリピンにおける戒厳編集
フィリピンではイスラム派過激組織ISIL【アブ・サヤフ】に呼応した武装組織との交戦が拡大し2017年5月25日に南部ミンダナオ島全域に戒厳が発令された[18]。同年10月23日には戦闘終結宣言が出されたものの、2018年までの戒厳の延長が決定している[19]。
トルコにおける戒厳編集
トルコでは2016年7月にトルコ軍の一部がクーデターを起こし、戒厳と外出禁止令を布告したが、最終的に鎮圧された[20](2016年トルコクーデター未遂事件)。
ポーランドにおける戒厳編集
ポーランドでは1980年に独立自主管理労働組合「連帯」が結成され、これは社会主義諸国では初となる労働者による自主的かつ全国規模の労働組合であったが、翌年の1981年にポーランド政府は戒厳を出した[21]。しかし、民主化運動の流れは抑えきれず、1989年の円卓会議により非社会主義政権が樹立された[21]。1981年に戒厳を出したヴォイチェフ・ヤルゼルスキ元大統領はのちに起訴されている[22]。
アルゼンチンにおける戒厳編集
チリにおける戒厳編集
チリでは治安情勢の悪化から1984年11月から1985年6月まで戒厳が出された[23]。その後、1986年9月にピノチェト大統領暗殺未遂事件が発生したため再び戒厳が出されたが翌年1月には全面解除されている[24]。
ボリビアにおける戒厳編集
コロンビアにおける戒厳編集
チュニジアにおける戒厳編集
チュニジアでは2011年1月11日に失業の増加や食料価格の高騰などに抗議するデモ隊と治安部隊との衝突の拡大に伴い戒厳が出された[25]。
ギニアにおける戒厳編集
ソマリアにおける戒厳編集
ソマリアでは2007年に無政府状態となった国内の安定の確保を図るため大統領が戒厳を発令することを議会が承認した[27]。
脚注編集
- ^ “ コトバ解説 「非常事態宣言」と「戒厳令」の違い ”. 毎日新聞. (2015年12月8日) 2017年7月6日閲覧。
- ^ この勅令は、緊急勅令ではない。例えば明治38年のときは、「東京府内一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件」 (明治38年9月6日勅令第205号)は緊急勅令で、この発動範囲を定める「明治三十八年勅令第二百五号ノ施行ニ関スル件」(明治38年9月6日勅令第207号)が一般の勅令である。
- ^ Nathan, Andrew J.; Gilley, Bruce. China's new rulers: the secret files. New York: The New York Review of Books, p.42.
- ^ 詳見:《九龍及荃灣暴動報告書》香港:政府印務局,1956年,頁13-19頁
- ^ 警方調查大騷動事件起因 認是黑社會鼓動 已捕策動者多人 九龍昨日寧靜戒嚴可能放寬. 工商日報第五頁. 1956年10月13日
- ^ 一般情況下,警方僅有權扣留疑犯48小時。參見:《九龍及荃灣暴動報告書》香港:政府印務局,1956年,頁18
- ^ 小柳淳、田村早苗「現代の香港を知るKEYWORD888」2007年7月 310頁
- ^ “香港の警察官グループ、夜間外出禁止令の発動を政府に要請”. ブルームバーグ. (2019年10月3日) 2019年10月4日閲覧。
- ^ 許崇德 (2015-02). “攻心為上:香港政府應對「六七暴動」的文宣策略”. 《二十一世紀》雙月刊 (香港中文大學) (147): 64 .
- ^ “香港政府に「緊急条例」発動計画ない-行政長官諮問機関の陳智思氏”. ブルームバーグ. (2019年9月9日) 2019年10月4日閲覧。
- ^ “香港、半世紀ぶり「緊急条例」発動 デモでの覆面禁止”. 日本経済新聞. (2019年10月4日) 2019年10月4日閲覧。
- ^ 1973年外交青書 朝鮮半島の情勢 外務省、2017年5月19日閲覧。
- ^ “機務司文書「戒厳令の宣布、米国に認めてもらうべき」…80年非常戒厳と酷似”. ハンギョレ. (2018年7月25日) 2019年10月9日閲覧。
- ^ “朴槿恵弾劾デモ、韓国陸軍が戒厳令で鎮圧検討”. 日本経済新聞. (2018年7月10日) 2019年10月9日閲覧。
- ^ “ソウル中心部に戦車投入、報道検閲も検討 韓国朴政権の戒厳令計画が明らかに”. 産経ニュース. (2018年7月20日) 2019年10月9日閲覧。
- ^ タイ軍、全土に戒厳令を発令 AFP BB ニュース、2014年5月20日。
- ^ タイ、戒厳令を解除 軍の強権は維持 AFP BB ニュース、2015年4月2日。
- ^ “政府軍とIS勢力と交戦 比南部に戒厳令”. 産経新聞社 (2017年5月24日). 2017年5月26日閲覧。
- ^ フィリピン・ミンダナオ島の戒厳令を来年末まで延長 対過激派で議会承認 産経新聞社(2017年12月13日)2017年12月14日閲覧
- ^ トルコ、60人死亡 軍人754人を拘束 AFP BB ニュース、2016年7月16日。
- ^ a b ポーランドという国 外務省、2017年5月19日閲覧。
- ^ ヤルゼルスキ元大統領を正式起訴、戒厳令発令などで - ポーランド AFP BB ニュース、2007年4月17日。
- ^ a b 1986年外交青書 第4節 中南米地域 外務省、2017年5月19日閲覧。
- ^ a b 1987年外交青書 第4節 中南米地域 外務省、2017年5月19日閲覧。
- ^ チュニジア暴動拡大、大統領が次期選挙への不出馬を約束 AFP BB ニュース、2011年1月14日。
- ^ 議会、戒厳令の延長を拒否 - ギニア AFP BB ニュース、2007年2月24日。
- ^ <ソマリア紛争>議会、戒厳令を承認 - ソマリア AFP BB ニュース、2007年1月13日。