戦場のメリークリスマス
『戦場のメリークリスマス』(せんじょうのメリークリスマス、英: Merry Christmas, Mr. Lawrence)は、大島渚が監督した映画作品である。
戦場のメリークリスマス | |
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Merry Christmas, Mr. Lawrence | |
監督 | 大島渚 |
脚本 |
大島渚 ポール・メイヤーズバーグ |
原作 | ローレンス・ヴァン・デル・ポスト |
製作 | ジェレミー・トーマス |
出演者 |
デヴィッド・ボウイ 坂本龍一 ビートたけし トム・コンティ |
音楽 | 坂本龍一 |
撮影 |
杉村博章(撮影) 成島東一郎(撮影監督) |
編集 | 大島ともよ |
配給 |
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公開 |
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上映時間 | 123分 |
製作国 |
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言語 |
日本語 英語 |
興行収入 |
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配給収入 |
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日本、英国、オーストラリア、ニュージーランドの合作映画で、テレビ朝日製作の映画第1作でもある。1983年5月28日日本公開。
英国アカデミー賞作曲賞受賞。
概要編集
原作はローレンス・ヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』[2] 収録の「影さす牢格子」(1954年)と「種子と蒔く者」(1963年)に基づいている。 作者自身のインドネシアのジャワ島での、日本軍俘虜収容所体験を描いたものである。ヨーロッパでの公開時タイトルは『Furyo(俘虜の意)』。
第36回カンヌ国際映画祭に出品され、グランプリ最有力と言われたが受賞は逃した[注 1]。
あらすじ編集
1942年、日本統治下にあるジャワ島レバクセンバタの日本軍俘虜収容所で、朝鮮人軍属カネモト(ジョニー大倉)がオランダの男性兵デ・ヨンを犯す。日本語を解する俘虜(捕虜)の英国陸軍中佐ジョン・ロレンス(トム・コンティ)は、ともに事件処理にあたった粗暴な軍曹ハラ(ビートたけし)と奇妙な友情で結ばれていく。
一方、ハラの上官で所長の陸軍大尉ヨノイ(坂本龍一)は、日本軍の背後に空挺降下し、輸送隊を襲撃した末に俘虜となった陸軍少佐ジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)を預かることになり、その反抗的な態度に悩まされながらも彼に魅せられてゆく。
同時にカネモトとデ・ヨンの事件処理と俘虜たちの情報を巡り、プライドに拘る空軍大佐の俘虜長ヒックスリー(ジャック・トンプソン)と衝突する。東洋と西洋の宗教観、道徳観、組織論が違う中、各人に運命から届けられたクリスマスの贈りものが待っていた。
セリアズとロレンスは無線機を無断で所持し、ヨノイ大尉に独房入りを命じられる。セリアズもロレンスも一緒に戦ったことのある仲で顔は知っており、独房は隣り合っていた。ロレンスは自分の彼女のことを話し、セリアズは昔、弟に悪い思いをさせてしまったことを回想する。
その日はクリスマスで、セリアズとロレンスはハラに呼びだされた。ハラは酔っぱらっていて、「ファーゼル・クリスマス」と叫び、セリアズとロレンスを釈放する。ハラは自分をサンタクロースだと言い、これはプレゼントだと言う。
ヒックスリーの対応に怒りを覚えたヨノイ大尉は、捕虜の全員集合を命じる。そこには病棟の捕虜も含まれており、これはジュネーヴ条約に違反していた。重症の捕虜が1人倒れて死亡する。それでもなお、日本軍への情報提供を拒み続けるヒックスリーを、ヨノイ大尉は刀で斬ろうとした。そこへ、セリアズが歩み寄り、ヨノイ大尉にキスをした。予想外の展開にヨノイ大尉は倒れこむ。
その後、ヨノイ大尉は更迭され、新しい大尉はセリアズを首だけだして生き埋めの刑罰に処した。セリアズは弟のことを思い出しながら死ぬ。
大戦は終わり、時は1946年。日本軍は負け、ヨノイ大尉は処刑されていた。1946年のクリスマス、処刑前日を迎えたハラの元へロレンスがやってくる。4年前のクリスマスのことを思い出し、2人は笑い話に花を咲かせる。ロレンスが立ち去ろうとしたとき、ハラはロレンスを呼び止め「メリークリスマス。メリークリスマス、ミスターロレンス」と叫ぶ。
キャスト編集
- ジャック・セリアズ英軍少佐 - デヴィッド・ボウイ(青年期)/クリス・ブラウン(少年期)
- ヨノイ大尉(レバクセンバタ俘虜収容所所長) - 坂本龍一
- ハラ・ゲンゴ軍曹 - ビートたけし
- ジョン・ロレンス英軍中佐 - トム・コンティ(吹き替え:池田勝)
- ヒックスリー俘虜長 - ジャック・トンプソン
- 拘禁所長 - 内田裕也
- イトウ憲兵中尉 - 三上寛
- カネモト(朝鮮人軍属) - ジョニー大倉
- カール・デ・ヨン(オランダ軍兵士) - アリステア・ブラウニング
- ウエキ伍長 - 飯島大介
- ヤジマ一等兵 - 本間優二
- ゴンドウ大尉 - 室田日出男
- 軍律会議通訳 - 戸浦六宏
- フジムラ中佐(軍律会議審判長) - 金田龍之介
- イワタ法務中尉(軍律会議審判官) - 内藤剛志
- 軍律会議検察官 - 石倉民雄
- 日本兵(俘虜収容所勤務) - 三上博史,車邦秀
- セリアズの弟 - ジェイムズ・マルコム
作品解説編集
第二次世界大戦をテーマにした戦争映画でありながら、戦闘シーンは一切登場しない。また、主要な出演者はすべて男性という異色の映画でもある。撮影はクック諸島のラロトンガ島で行われた。
ハラ軍曹らに見られる当時の日本軍による捕虜に対する扱いや、イギリスなどにおける障害者への蔑視行為やパブリックスクール(寄宿制名門校)におけるしごきなど、歴史の闇の部分も容赦なく描いている。
配役編集
大島が「『連合艦隊』と『大日本帝国』に出た役者だけは使いたくなかった」と話した[3]。当初、ハラ軍曹役には緒形拳[4]や勝新太郎がキャスティングされていたが、緒形はスケジュールの都合、勝とは脚本の変更を要求したため折り合いがつかず、ビートたけしに変更となった[5]。ヨノイ大尉役も三浦友和、沖雅也、滝田栄[4]、沢田研二、友川カズキらが予定されていたが、各々スケジュールなどが合わず、坂本がキャスティングされた[6]。また、セリアズ役にもロバート・レッドフォードや[7]、映画監督フランシス・フォード・コッポラの甥で当時高校生だったニコラス・ケイジ等にオファーをしていたが、両者とも断ったため、大島がブロードウェイの舞台「エレファント・マン」に出演中のデヴィッド・ボウイを観て起用を決めた[8][9][10]。デヴィッド・ボウイはオファーを了承した後、2年間、体を空けて待っていたという[3]。
演技編集
台本をまったく覚えずに現場入りした坂本は当然上手くセリフが言えず、絶対に監督から怒られるシチュエーションを自ら作ってしまったが、監督はなぜか相手役に「お前がちゃんとしないから坂本君がセリフ話せないんだろう!」と怒ったという。この監督の一種の配慮により、たけしと坂本は無事クランクアップを迎えることができた。
演技についてたけしは、「NGは監督からほとんど出されなかったけど、代わりにアフレコはさんざんやらされた」と語っている。これは、監督からオファーを受けた際「自分は漫才師であり、俳優でありませんから、きちんとした演技はできません」と前もって伝えていたことから、監督なりの配慮がされた結果と言える。加えてたけしがNGを出すと、代わりに脇にいた助監督が叱られたというエピソードが残っている。
当時、たけしと坂本は、2人で試写のフィルムを見て、たけしが「オレの演技もひどいけど、坂本の演技もひどいよなぁ」と語りあい、ついには2人でこっそりフィルムを盗んで焼こうという冗談を言い合ったという。また監督の大島渚はできない俳優を激しく叱責することで有名だったため、たけしと坂本は「もし怒られたら一緒にやめよう」と約束をしていた。
演出編集
作品の終盤、反抗的な俘虜長を処刑しようと日本刀を抜いたヨノイ大尉(坂本龍一)に、セリアズ英軍少佐(デヴィッド・ボウイ)が近づき頬にキスをするシーンで、画面が微妙に揺れ動いているが、これは意図して行った演出ではなく撮影機材の故障により偶然生じたものであった。その後に撮り直したものと比較して、画面が微妙に動く前者の方が心理描写を的確に表現できているとしてこれを採用した。後に大島渚監督は「奇跡だよ」と周囲に語ったという[11]。
たけしがドアを開けるシーンで散々リハーサルするもタイミングが上手く行かず、ついに監督が怒り出し、「このタイミング!このタイミングがこの映画で一番大事なんだ!」と怒鳴るものの、本番直前にドアは壊れてしまう。仕方なくドアなしで撮ったが、直後にドアが壊れた件について監督が「え?何?ドア?あんなのどうでもいいんだ!」と答えて、たけしは呆然となったという。
製作費編集
約600万ドル(当時約15億円)とも[7]、650万ドルとも[3][10]、16億円ともいわれる[12]。企画を始めた1978年は、松竹が全額出資すると言っていたが[12]、資金集めは難航し[7]、日本国内だけでの資金調達は不可能で[9][13]、松竹は大島に「途中から外国で半分持ってくれる所を探して来い」と言った[12]。日本人でプロデューサーを買って出る人物がおらず[13]、製作に漕ぎ着けるまでに時間を要した。『戦場のメリークリスマス』の製作とシネマスクエアとうきゅうのオープニング上映作品を探していたヘラルド・エースの原正人が、ニコラス・ローグ監督の『ジェラシー』買い付けで知り合った同作の映画プロデューサー・ジェレミー・トーマスに『戦場のメリークリスマス』のプロデュースを打診し、ジェレミー・トーマスが『戦場のメリークリスマス』のプロデューサーになった[14][15]。ようやく資金の目途がついたら松竹は「もう製作には参加しない、配給だけやる」と言い出した[12]。大島がそこで諦めていたら全て終わりだったが、大島は全財産をはたき、個人的借金をして、日本側が大島渚プロとテレビ朝日が住友銀行から、ジェレミー・トーマスが外国側の製作費を全額ニュージーランドの銀行から引き出した[3][14]。撮影地をニュージーランドの国内、またはニュージーランド領で行うということは、ニュージーランド側からの条件の一つだった[10][7]。日本、英国、ニュージーランド三ヶ国の合作映画だが、ニュージーランドは金を出しただけで、基本的には日英合作である[12]。大ヒットした後、松竹は「製作もすればよかった」と言ったという[12]。
反響・評価編集
試写会で自分の演技を見たたけしは、「自分の演技がひどすぎる」と滅入ってしまったが、共演の内田裕也やジョニー大倉は「たけしに全部持っていかれた」とたけしの存在感に悔しがったという。一方で、大島は周辺に「たけしがいいでしょう」と漏らし、同席した作家・小林信彦に、滅入っているたけしを褒めるよう要請している。後にたけしは「すぐれた映画監督というのは、その俳優が一番見せたくない顔を切り取って見せる人を言うんじゃないかな?」と、自分の演技を引き合いに大島監督の力量を絶賛した。
後日、ビートたけしは「坂本もオイラもこの映画に客観的に参加していた、映画がこけちゃえばいいとさえ思っていた。ほかの役者のように大島監督からエネルギーを吸い取られるようなことはなかった」と語った。
テレビ放送では1984年12月23日に23.6%[16]、1985年12月22日に15.1%[16]の視聴率(ビデオリサーチ調べ)を記録した。
考察編集
日本人がメガホンを取った戦争映画ながら、表面的なメッセージ性は薄い。しかし、日本軍の捕虜への待遇[17]と、その根底にある日本独特の「武士道」、「神道・仏教観」や「皇道派、二・二六事件」、明治以降の日本人が抱いた強い欧米への劣等感と憧憬[17]、そして、欧米人・日本人にある「エリート意識・階級意識」、「信仰心」、「誇り」、「死と隣り合わせのノスタルジア」(弟の歌う 「Ride Ride Ride」の曲にのって描かれる、故国の田園の居宅の「バラ園」)などがより尊く描かれ、また、それを超えた友情の存在とそれへの相克がクライマックスにまで盛り上げられていく。
また、後期の大島作品に底流する「異常状況のなかで形作られる高雅な性愛」というテーマも、登場人物らの同性愛的な感情として(婉曲的ながら)描写されている。
特別番組編集
テレビ朝日では大島渚、ビートたけし、デヴィッド・ボウイなど勢揃いした特別番組が制作された。オープニングでは「レッツ・ダンス」に合わせて若い男女が踊る中デヴィッド・ボウイが登場し、笑顔でビートたけしに握手を求めた。
エピソード編集
- ビートきよしも俳優として撮影に参加しているが、きよしが言う予定だった台詞を別の役者によって撮影してしまった為、出演シーンは全てカットされた。
- 当時、坂本と同じ事務所に勤務し坂本の付き人をしていたピーター・バラカンが、捕虜役のエキストラとして出演している(「サウンドストリート」1982年放送から)。
- 当時はまだ無名の俳優だった三上博史が日本兵役として出演している。
- たけしは、スケジュールの関係でほかのスタッフらより早く撮影を終えて帰国したことから、映画の情報をネタとして「ビートたけしのオールナイトニッポン」などで流布した。一例を挙げると、大島が撮影に使ったトカゲが演出意図どおりに動かないことに腹を立て「お前はどこの事務所だ!」と怒鳴りつけたことや、差し入れのうな重をたけしらが食べてしまったことに坂本が腹を立て、かわりにたけしが手配したうな重を涙を浮かべながら食べていた、などである(後に坂本とたけしの対談で、「あの時俺は泣いていなかった」、「いや泣いていただろ」といったやりとりがあり、あのような状況は食事の話題が異様になると結論づけた)[注 2]。
- カンヌ映画祭受賞作の発表前日に、スポーツ新聞社の記者が「明日の朝刊に間に合わないから、今、受賞したという前提で喜びの写真を撮らせて欲しい」とたけしを訪れた。翌朝、そのスポーツ新聞には、たけしの写真の横に大きな文字で「たけし ぬか喜び」と書いてあった。たけしは、自身がパーソナリティーを務める深夜放送『ビートたけしのオールナイトニッポン』で、このことをネタに自嘲気味にトークをした。
- ラストでたけしがアップになり「メリークリスマス、ミスターロレンス」と言うシーンについて、後に『オレたちひょうきん族』でたけしは「オレのあの顔で世界が泣いたんだぜ」と自慢した。しかし、片岡鶴太郎にはそのシーンをちゃかされ、明石家さんまには「世界は泣いたか知らんがな、オレは笑ったわ!」と言われ、ネタにされた。たけしが出演していた『オレたちひょうきん族』のコーナー、「タケちゃんマン」でも、「戦場のメリーさんの羊」というパロディコントが放送され、カンヌ映画祭で受賞を逃したところまでネタにしていた。
- 撮影中、坂本龍一がたけしの部屋を訪ねると、真っ暗な部屋の中のベッドで、天井までとどくかというほど本を積み上げて勉強するたけしの姿に出くわすという場面があった。
- メイキング映像の製作も企画されたが、デヴィッド・ボウイが拒否したことから、大島も許可しなかった[7]。
- 登場人物のモデルの一人になった森勝衛は下重暁子の父の従兄にあたる。映画製作当時、大島と下重はテレビ番組で共演していたが、下重は映画の完成試写会が終わるまで大島にその事実を告げず、知らせたのちに大島に怒鳴られた[18]。
受賞編集
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報』1984年(昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社、1984年、 115頁。
- ^ 新版『影の獄にて』由良君美、冨山太佳夫訳、新思索社、2006年。映画版『戦場のメリークリスマス』同、2009年
- ^ a b c d 「日本映画シアター MOVIE&STARトピックス」『ロードショー』1982年10月号、集英社、 219頁。
- ^ a b 『大島渚著作集』第3巻、現代思潮新社
- ^ 春日太一『天才 勝新太郎』(文春新書)
- ^ 『内田裕也 俺は最低な奴さ』(白夜書房)
- ^ a b c d e 大島渚監督『戦場のメリークリスマス』はロバート・レッドフォードのキャンセルにより崖っぷちで完成した映画シネマトゥデイ、2013年5月29日
- ^ 「洋画ファンのための邦画コーナー 製作ニュース」『SCREEN』1982年7月号、近代映画社、 242頁。
- ^ a b ご存知ですか? 5月28日は映画『戦場のメリークリスマス』が公開された日です
- ^ a b c 映画「戦場のメリークリスマス」製作秘話
- ^ デヴィッド・ボウイの訃報に接し、ビートたけし談。(2016年1月16日、新・情報7days ニュースキャスター(TBS系列)内にて。)
- ^ a b c d e f 「対談青島幸男の『ホントはどうなの...ゲスト大島渚 息子が初めて私の映画に関心を持ってくれた」『サンデー毎日』1983年6月19日号、毎日新聞社、 40-44頁。
- ^ a b 岡田茂・大島渚・小栗康平・白井佳夫 (1982年5月29日). “〈討論の広場〉 日本映画はどこへ行く”. 朝日新聞 (朝日新聞社): pp. 12 - 13
- ^ a b 斉藤守彦『80年代映画館物語』洋泉社、2014年、50 - 51頁。ISBN 978-4-8003-0529-9。
- ^ 大森さわこ : ミニシアター再訪【第3回】 - 芸術新聞社
- ^ a b 『週刊東洋経済』1986年8月2日号、122頁。
- ^ a b 鑑賞術 映画が描いた戦争(4)佐藤忠男 大島渚監督「戦場のメリークリスマス」 捕虜虐待、憧れの裏返し日本経済新聞、2015年7月22日付夕刊
- ^ 下重暁子『天邪鬼のすすめ』文春新書、2019年5月20日、138頁。ISBN 9784166612154。
関連項目編集
- 森正男 - ハラ・ゲンゴ軍曹のモデル。
- 捕虜
- BC級戦犯
- デヴィッド・シルヴィアン - 「Forbidden Colours」(禁じられた色彩)は、『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲「メリー・クリスマス ミスターローレンス」のヴォーカル・バージョン。
- 戦場のメリークリスマス (サウンドトラック)
- 1983年の映画
外部リンク編集
- 乗杉綜合法律事務所 - 原作者のローレンス・ヴァン・デル・ポスト来日記念パーティー写真など。
- 戦場のメリークリスマス - allcinema
- 戦場のメリークリスマス - KINENOTE
- Merry Christmas, Mr. Lawrence - オールムービー(英語)
- Merry Christmas, Mr. Lawrence - インターネット・ムービー・データベース(英語)