戸山ハイツ(とやまハイツ)は、東京都新宿区戸山2丁目にある都営住宅

戸山ハイツ(2009年撮影)

歴史 編集

当地は江戸時代までは尾張徳川家の下屋敷で戸山山荘と呼ばれていた庭園もあった[1]明治時代に入り、陸軍の各種学校になり、第二次世界大戦中に都市計画公園としての計画が決定していたが、戦後GHQの提唱により戦後の住宅難の問題を解消すべく、当地に都市計画公園計画されていた246922.5平方メートルのうち、4割にあたる109520平方メートルに越冬応急住宅が建設されることになった[1][2]戸山公園(箱根山地区)に囲まれるように1号地から8号地に分けられ木造平屋建て1052戸が建設され[3]道路や店舗、公共施設が整備された。1948年に入居の申し込み受付が開始[4]。募集約1000戸に対して34999件の申し込みがあり、倍率は約35倍の狭き門だった[5][6][注釈 1]。都内における集合住宅の先駆け的存在であった。

1960年代以降になると、防災・耐火性の観点から中高層住宅への建て替えの必要性が認識されるようになり[7]、1960年には1800戸の中層住宅にする案が出されたが、住民との意見の相違や住宅需要の増加により1970年には33棟3354戸の大規模な高層マンション群にする計画に変更された[7]1968年から1976年にかけて[8]、順次高層マンション化された。周りの公共施設やスーパーマーケットなども拡充されていった[9]

課題 編集

どの都営住宅にも言えることだが[10]、戸山ハイツも居住者の高齢化率・単身世帯率が高い[11]。居住者の約半数が50年近く当団地に住んでおり[12]、建て替え前の平屋住宅時代からの居住者も約1割いる[12]。高齢者のいる世帯が約6割もあり、高齢者の単身・夫婦のみ世帯も併せて全体の約4割にのぼる[12]。また、戸山ハイツ自体も建設から50年程度経過しており、建物自体の老朽化が指摘されている[13]

交通 編集

その他 編集

1978年、戸山ハイツで自家用車のガラスが次々と割られる事件が発生。犯人は近所の自動車ガラス会社の経営者で、ガラスの売り上げを伸ばす目的で行われたものであった。その後、戸山ハイツの駐車場を管理する住民組合の役員が犯人の家族を脅迫、役員2人が逮捕される事件も生じた[14]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 1948年の大卒の初任給は約3000円の時代、当時の戸山ハイツの家賃は約1000円とかなりの高額だった。居住者は高所得者層が多かったようである[1]

出典 編集

  1. ^ a b c アーバンハウジング 2014, p. 23.
  2. ^ 古賀繭子 & 定行まり子 2014, p. 62.
  3. ^ 古賀繭子 & 定行まり子 2014, p. 64.
  4. ^ アーバンハウジング 2014, p. 27.
  5. ^ アーバンハウジング 2014, p. 26.
  6. ^ 古賀繭子 & 定行まり子 2014, p. 63.
  7. ^ a b アーバンハウジング 2014, p. 30.
  8. ^ アーバンハウジング 2014, p. 19.
  9. ^ アーバンハウジング 2014, p. 37.
  10. ^ アーバンハウジング 2014, p. 17.
  11. ^ アーバンハウジング 2014, p. 52.
  12. ^ a b c アーバンハウジング 2014, p. 147.
  13. ^ アーバンハウジング 2014, p. 5.
  14. ^ 戸山ハイツ車損壊事件 住民代表は脅迫者 電話で昼夜「金を出せ」『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月12日朝刊、13版、23面

参考文献 編集

  • 古賀繭子、定行まり子「1940年代から1970年代における住宅及び団地内施設の実態 戸山ハイツの歴史的経緯に関する研究(その1)」『日本女子大学大学院紀要 家政学研究科・人間生活学研究科』第20巻、日本女子大学、2014年3月20日、61-71頁。 
  • アーバンハウジング 編『1970年代の再生(建替え)後、約40年を経た都内の団地の原点ともいえる戸山ハイツの現状と今後の展望に関する調査研究』アーバンハウジング、2014年。 

関連項目 編集