メインメニューを開く

抜き打ち解散(ぬきうちかいさん)は、1952年8月28日に行われた衆議院解散の通称[1][2]

経緯編集

1946年GHQ統治下のもと、第1次吉田内閣が誕生した。1951年に、サンフランシスコ講和条約締結によってGHQの占領が終了し、GHQによって公職追放されていた鳩山一郎らが追放を解除されると、鳩山を支持する鳩山系議員が吉田茂首相の辞任を要求した。こうして再び政局は混乱してきた。さらには吉田派の派内で広川弘禅増田甲子七の派内抗争が表面化した。

1952年7月、吉田は自身の側近であった1年生議員の福永健司を、増田に代わる自由党幹事長にすべく、議員総会において抜き打ちで指名を敢行したが[3]、反対派が激しく抵抗し失敗に終わる[4]

吉田はこのような事態を打開するために、松野鶴平からの助言を受け、第14通常国会が召集された3日後の8月28日に不意をつく形で解散を断行する[5]。この解散は、池田勇人蔵相)、岡崎勝男外相)、佐藤栄作郵政相)、保利茂官房長官)、党内の松野などを中心に側近集団のみで決定された。吉田派は密かに選挙の準備を進めておき、準備の整っていない鳩山派に打撃を与えようという目的であった。

大野伴睦は、第14通常国会初日の8月26日の衆議院本会議にて衆議院議長に選出されて就任していたが[6]、わずか2日後に衆議院解散が行われたため、在職期間わずか3日間で議長失職となった(総選挙後の10月の第15特別国会に於ける衆議院本会議での議長選挙で再選[7])。

この解散を受けて、10月1日第25回衆議院議員総選挙が行われ、466議席中、自由党吉田派199議席、自由党鳩山派35議席という結果となり、自由党そのものは大きく議席を減らした。

解散権論争編集

この解散は日本国憲法下初めての第7条天皇国事行為)のみによる衆議院解散になった。日本国憲法は第7条第3号で衆議院の解散を天皇の国事行為として定めるが、天皇は国政に関する権能を有しないとされており(日本国憲法第4条第1項)、憲法7条3号の天皇の権能は衆議院解散を形式的に外部へ公示する形式的宣示権ということになる[8]。そこで衆議院解散の実質的決定権の所在が問題となるが、これについては諸説がある[8]。抜き打ち解散は、憲法7条が定める「内閣の助言と承認」を解散権の実質的根拠とする解散であり、その是非をめぐって野党・国民民主党の議員であった苫米地義三が衆議院議員資格の確認と歳費請求を求めて裁判を提起した(苫米地事件)が、最高裁大法廷は、高度の政治性があり裁判所の審査権外であることを理由に憲法判断をしなかった[9]

この解散以降、実務上、天皇の国事行為に責任を負う内閣が衆議院解散についての実質的決定権を有するとされている[10]。なお、衆議院解散の実質的決定権という点については学説に争いがあるものの、少なくとも衆議院解散の形式的宣示権は憲法上天皇にある(日本国憲法第7条3号)[8]。今日、解散詔書の文言については日本国憲法第69条により、内閣不信任決議が可決あるいは内閣信任決議が否決された場合か否かを問わず「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」との表現が確立している。これは、衆議院解散は詔書をもって行われるが、詔書の直接の根拠は日本国憲法第7条にあり、またこの文言は解散の理由を問わないため、一般的にはいかなる場合の衆議院解散についても適用しうるものと解されているためである[11][12]

脚注編集

  1. ^ 『読売新聞』 1990年11月26日 東京朝刊 朝特A 「国会100年の歩み」
  2. ^ 『読売新聞』 2001年8月28日 東京朝刊 政治 04頁 「[きょうという日]8月28日」
  3. ^ 『朝日新聞』 1952年7月1日 東京/夕刊 1頁 「福永幹事長 首相が指名 議員総会混乱_“福永幹事長”問題」
  4. ^ 『朝日新聞 』1952年7月30日 東京/夕刊 1頁 「福永氏“幹事長”を辞退 林衆院議長の就任決定_“福永幹事長”問題」
  5. ^ 『朝日新聞』 1952年8月28日 東京/夕刊 1頁 「抜打ち解散まで_衆院解散」
  6. ^ 第14回国会衆議院本会議(昭和27年8月26日) 国会会議録
  7. ^ 第15回国会衆議院本会議(昭和27年10月24日) 国会会議録
  8. ^ a b c 佐藤幸治編『要説コンメンタール 日本国憲法』三省堂、1991年、58-59頁
  9. ^ 最大判昭和35年6月8日
  10. ^ 松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、341頁
  11. ^ 浅野一郎・河野久著『新・国会事典―用語による国会法解説』有斐閣、2003年、35頁
  12. ^ 芦部信喜編『演習憲法』青林書院、1984年、513-514頁

関連項目編集