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拓跋 沙漠汗(たくばつ さばくかん、拼音:Tuòbá Shāmòhàn、? - 277年)は、鮮卑族拓跋部の太子。大人(たいじん:部族長)である拓跋力微の子。兄弟には拓跋悉鹿拓跋綽拓跋禄官がいる。子には拓跋猗㐌拓跋猗盧拓跋弗がいる。たびたび西晋への遣使を務めた。拓跋珪北魏を建てると、偉業を称えて文皇帝追諡された。

生涯編集

身長は8尺あり、才覚に溢れ、立派な容貌をしていた。

261年と和親を結んだ拓跋力微は、拓跋沙漠汗を魏へ朝貢させた。拓跋沙漠汗はそのまま人質として洛陽に留まり、拓跋部と魏の和親に努め、漢人の文化や生活を視察した。彼は魏国の賓客として最も尊重され、魏の人は黄金・布絹を毎年一万献上したという。

265年、司馬炎は禅譲を受けて晋朝を樹立した。拓跋部との関係は依然として維持され、引き続き拓跋沙漠汗は人質として滞在を続けた。西晋の官僚の多くは彼と友好を深め、人々から敬慕された。

267年、拓跋沙漠汗は父が既に高齢であったことから、武帝に上表して帰還してもらえるよう請願した。武帝は認め、礼を持って彼を護送した。沙漠汗はから十数年ぶりに帰還した。その後も晋との通商を親密に行った。

275年6月、沙漠汗は献上品を持って再び晋に赴いた。同年の冬、沙漠汗は国へ帰ろうとすると、晋の武帝は沙漠汗に牛車百乗にもなる・罽(けい:毛織物)・絵(真綿)・綵・綿諸物を送った。征北将軍の衛瓘は、後に患いとなるとし、拓跋沙漠汗を洛陽に留めておくよう上奏したが、武帝は信用を失うことを恐れ許可しなかった。すると、衛瓘はさらに上表し、部族の大人達へ賄賂を送り、拓跋沙漠汗と離間を図り、彼らを争わせて勢力を削ぐことを勧めた。武帝はこれを認め、拓跋沙漠汗を洛陽へ留まらせた。国の執事及び外部大人は皆、衛瓘の賄賂を受け取った。

277年、晋朝は拓跋沙漠汗を帰国させた。父の拓跋力微は大喜びし、各部の大人を派遣して出迎えさせ、彼の為に酒宴が催された。その際、沙漠汗が空を飛んでいる鳥を見て、諸大人へ「あの鳥を捕って見せよう」と言い、弾弓で弾を飛ばし、見事に鳥を撃ち落した。当時の拓跋部には弾弓の技術は伝わっておらず、諸大人は皆驚き「太子の振る舞いや服飾は南方の華族のものであり、奇妙な技はこの国には無いものだ。もしこのまま国家を引き継げば、昔の風習は全て改められ、それは我々の望みとは異なる。我々は今までと変わらず純朴で質素に暮らすべきであり、太子の文化は不要である」と言った。皆それに深く同意した。衛瓘の離間工作もあり、彼らは拓跋沙漠汗を陥れようと決意し、拓跋力微の下へ帰った。拓跋力微は「わが子の晋から帰ってきて、どう変わったかね」と尋ねた。すると諸大人は「太子は才芸に優れ、空に弓を引いて飛ぶ鳥を落とします。晋人の妖異の術を得ており、国を乱し民を害する兆しがあります」と述べ、拓跋沙漠汗に謀反の疑いをかけた。拓跋沙漠汗が長らく晋にいた間、彼の兄弟たちは、日々拓跋力微の寵愛を受けていた。また、拓跋力微は既に百歳を超えており、正しい判断ができなかった。大人の話を聞くにつれ、徐々に心中に疑念を生じ「その者を受け入れることはできない。まさにこれを排除すべきだ」と述べた。これを聞いた諸大人はすぐに拓跋沙漠汗の下へ赴き、拓跋力微の命だと偽り沙漠汗を誅殺した。その後、拓跋力微はこのことを甚だ悔んだという。

宗室編集


参考文献編集

  • 晋書』(武帝紀)
  • 魏書』(帝紀第一、列伝第一)