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摂津 晴門(せっつ はるかど)は、戦国時代武士足利将軍家の家臣。政所執事

 
摂津晴門
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
改名 晴直→晴門
官位 中務大輔掃部頭
幕府 室町幕府 官途奉行政所執事
主君 足利義輝義昭
氏族 摂津氏
父母 父:摂津元親
兄弟 晴門、海老名頼雄
糸千代丸
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略歴編集

摂津氏鎌倉幕府の時代からその崩壊後、さらに南北朝時代を経て室町幕府にも参画していた中原氏の一族。元は摂津守に叙任されていたことから姓を摂津へと改めた[1]

摂津元親(後に元造)の子として誕生。12代将軍足利義晴より偏諱を受け晴直(はるなお)、のち晴門を名乗る。義晴の子である13代将軍・足利義輝と15代将軍・足利義昭の兄弟に家臣として仕える。義晴の時代である享禄元年(1528年)に従五位下中務大輔に任ぜられている(『歴名土代』)[2]

元造の養女である春日局日野晴光室)は13代将軍・足利義輝の乳母を務め、晴門は義輝にとっては義理の伯父にあたっていた。父の元造は足利義晴の死去時に出家(直前には異例の従三位に叙せられる)した後も官途奉行地方頭人神宮方頭人を務めて晴門がこれを補佐していたが、永禄5年(1562年)頃に元造が死去すると、これらの地位を継いだ[2]

永禄7年(1564年)には敵対していた政所執事・伊勢貞孝に代わって、新たな政所執事として起用される[2]。政所執事は長く伊勢氏が独占していた職[3]で、義輝に近く、官途奉行や地方頭人・神宮方頭人を歴任して三好氏や京都の要人との人脈を持っていた晴門がその代わりに相応しいと考えられたとみられている[2]

だが、その翌年には永禄の変が起こり、二条御所にて義輝以下数十名の家臣が殺害される。また、この永禄の変で嫡子である13歳の糸千代丸も死亡している。変後も摂津氏が世襲していた官途奉行などの地位は安堵されていたとみられるが、三好氏らが推す次期将軍候補であった足利義栄伊勢貞為(貞孝の孫)の出仕を認めた事に反発し、永禄9年(1566年)5月以降京都を離れる[4]

永禄11年(1568年)2月にあった足利義栄への将軍宣下に際しては出席を拒み、同月に行われた義輝の弟である足利義昭の元服の奉行を務めていることから、この時には義昭に従っていたとみられる[4]

永禄11年(1568年)10月には、織田信長浅井長政の上洛軍に警護されて上洛した足利義昭が将軍に就任する。兄・義輝と同じように、義昭も再び晴門を政所執事として起用した。その後、元亀2年(1571年)1月まで活動の記録がある(『言継卿記』元亀2年1月25日条)が[5]、同年7月に神宮方頭人を兼ねていた晴門が藤波康忠に相談なく伊勢神宮の禰宜職に関する武家執奏を行った[6]として義昭の怒りを買って逼塞を命じられ[2]、同年11月には伊勢貞興(貞為の弟)が政所執事に任じられている[5][2]。翌元亀3年(1572年)には足利義昭から朝廷への使者を務めていたことが確認されている(『お湯殿の上の日記』元亀3年8月6日条)が、それが記録上の最後の登場となり、間もなく死去したか引退したとみられている[2]

木下聡によれば、摂津晴門の生没年は不詳であるが、享禄元年に従五位下に叙せられている事から、永正年間前半(1500年代後半)生まれで、元亀年間には60代になっていたと推測している。永禄の変で殺害された糸千代丸以外の子は確認されず摂津氏の嫡流は断絶し、元親の甥(海老名頼雄の子か)とみられる摂津刑部大輔が大友氏の家臣になったことが知られるがこちらの消息も不明となっている[2]

脚注編集

  1. ^ 風雲戦国史-戦国武将の家紋 「武家家伝_摂津氏」参照。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/settu_k.html
  2. ^ a b c d e f g h 木下聡「摂津氏」『室町幕府の外様衆と奉公衆』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-790-5
  3. ^ 過去には二階堂氏が政所執事を務めていた時期もあるが、当時の当主である二階堂晴泰は義輝からは晴門ほどの信任を得ていた無かった(木下聡、2018年、P208)。
  4. ^ a b 木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年/所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2
  5. ^ a b 木下昌規「京都支配から見る足利義昭期室町幕府と織田権力」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2 (原論文:2010年・2012年)が
  6. ^ 藤波家は神宮祭主として朝廷と伊勢神宮の関係を調整する立場であった。