放駒部屋(はなれごまべや)は、かつて日本相撲協会に所属していた二所ノ関一門相撲部屋

沿革編集

力士は土俵あってこその命。休場は試合放棄と同じ」の名言で知られ、クリーン大関として絶大な人気を誇った花籠部屋二所ノ関一門)の元大関魁傑は、1979年(昭和54年)1月場所限りで引退して17代放駒を襲名、花籠部屋の部屋付き親方に就任していた[1][2]

1981年(昭和56年)2月1日付で、大ノ国(のち第62代横綱)ら数名の内弟子を連れて花籠部屋から分家独立して放駒部屋を創設、花籠部屋、二子山部屋と共に阿佐ヶ谷勢の一翼を担った[3]

1985年(昭和60年)7月場所後に一番弟子の大乃国大関に昇進する。

この1985年(昭和60年)年12月、12代花籠(元横綱・輪島)が自身の年寄名跡を借金の担保にしていた問題の責任を取って廃業した。花籠部屋出身で二所ノ関一門の総帥であった二子山(横綱・初代若乃花)に指名されて、閉鎖された花籠部屋の弟子全員を引き取ることになり、放駒部屋は小部屋から一気に大部屋へと躍進した[4][5]

1987年(昭和62年)5月場所で大関・大乃国が全勝優勝して放駒部屋初の優勝を成し遂げる。この年9月場所後に大乃国は第62代横綱に昇進した。 小結花乃湖などの関取を輩出したものの、1990年代に入ってからは大乃国が引退して部屋の勢力が衰え、2001年(平成13年)1月場所において新十両へ昇進した駿傑が部屋最後の関取となった。

17代放駒は2010年(平成22年)8月に、大相撲野球賭博問題で揺れる中で、現役時代のクリーン大関と言われた高潔さと、長年執行部で発揮した事務処理能力の高さを認められ、第11代日本相撲協会理事長に就任した[6]2012年(平成24年)1月場所後に退任し、相談役に就任したが、「最悪の時代を乗り切った最大の功労者であると同時に最大の犠牲者」と言われ[7]、理事長在職1年5か月は最短だが、「存亡の危機に大相撲を救った希代の名理事長」と評価された[8]

2013年(平成25年)2月15日に17代放駒が停年退職を迎えることに伴い、同年2月7日付で放駒部屋は閉鎖され、所属力士や行司ら12人は弟子の大乃国が創設した芝田山部屋へ移籍した。[9]この中には、のちに十両に昇進した若乃島も含まれている。 17代放駒は停年を機に相談役就任も断わり、相撲界から距離を置いていたが2014年(平成26年)5月18日午後2時10分頃、東京都西東京市ゴルフ練習場で倒れ急逝した。

現在、放駒の名跡は、二所ノ関部屋の部屋付き親方のひとりである元関脇・玉乃島が引き継いでいる。

最終所在地編集

師匠編集

  • 17代:放駒 輝門(はなれごま てるゆき、大関・魁傑山口)※第11代日本相撲協会理事長

力士編集

(※は1985年に花籠部屋から移籍)

横綱・大関編集

横綱

幕内編集

小結
前頭

十両編集

脚注編集

  1. ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ
  2. ^ 中日新聞社『土俵一途に 心に残る名力士たち』心に残る大関列伝・魁傑)
  3. ^ 杉並区立郷土博物館編「大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史」1991.11
  4. ^ 杉並区立郷土博物館編「大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史」1991.11
  5. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p40
  6. ^ 武蔵川理事長辞任、後任に放駒理事…相撲協会 読売新聞 2010年8月12日閲覧
  7. ^ 日本経済新聞2014年5月19日「評伝 誠実・不屈貫いた苦労人」
  8. ^ 朝日新聞2014年5月19日「評伝 大相撲救った孤高の人」
  9. ^ 間垣部屋閉鎖、放駒部屋力士は芝田山部屋へ SANSPO.COM 2013年2月7日閲覧