敷香町

日本の領有下の樺太に存在した町

敷香町(しすかちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した

しすかちょう
敷香町
廃止日 1949年6月1日
廃止理由 国家行政組織法施行
現在の自治体 ポロナイスク
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 樺太地方
都道府県 樺太庁 敷香支庁
敷香郡
面積 8,097.075[1] km2.
総人口 30,310
1941年12月1日
隣接自治体 敷香郡散江村内路村泊岸村
名好郡名好町西柵丹村
敷香町役場
所在地 樺太庁敷香郡敷香町
敷香町役場
特記事項 1943年4月1日以降は北海地方に所属。
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当該地域の領有権に関する詳細は樺太の項目を、現状に関してはサハリン州の項目を参照の事。現在、この地域にはロシア連邦サハリン州ポロナイスク市を設置している。ただし、敷香町とポロナイスク市の領域は一致しない。現状については、「ポロナイスク」の項目を参照。

概要 編集

 
かつての敷香の街並み

南樺太北部の中心都市の一つ。支庁所在地であった。

敷香の読み方については、しすかしきかなど様々な説がある。近年までNHKラジオ第2放送気象通報ではしすかと呼ばれていた。内務省の告示ではしくかとされている。

「敷香」をアイヌは、シシカ(Siska)と呼んだが、一説に樺太アイヌ語で「シシ・トゥカリ(sis-tukari)」(山の手前、北海道アイヌ語では「シリ・トゥカリ(sir-tukari)」)であると言う。ニブフ語ではシッカ(S'ikka)であり、アイヌ語もしくはニブフ語の地名を和人が使うようになった[2]

日本の領有下においては、国境に面する事から軍事上重要な地域とみなされていた。1938年(昭和13年)時点では、国境から7キロメートル手前に半田沢警部補派出所があり、ここが事実上の国境警備の拠点となっていた。1938年(昭和13年)1月3日には、女優の岡田嘉子が作家の杉本良吉とともに同地を警官隊慰問の名目で訪れ、そのまま国境を越えてソビエト連邦へ入国する事件も発生した[3]

第二次世界大戦の前後には上敷香を中心とする町内各地に陸軍部隊が駐屯していた。また、上敷香には海軍飛行場も存在していた。

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月には、南樺太へソビエト連邦軍が侵攻し、日本陸軍部隊との間で激しい戦いが行われ、敷香町も戦渦に巻き込まれた(樺太の戦い)。敷香には日本軍の第88師団の戦闘指揮所が置かれ、参謀の一部が進出してきて戦闘と避難の指示にあたった。古屯など北部の国境付近で激しい戦闘が続くなか、上敷香は8月17日に緊急疎開命令が出され、全住民は日本軍のトラックによって輸送されて、市街地には火が放たれた。その後、ソ連軍機20機による空襲も続き、2,500戸の上敷香市街は全焼した[4]。敷香からも8月13日以降に鉄道と日本軍のトラックによる避難が始まっていたが、各地から流入する避難民も多く、町内は混み合った。国境地帯で抵抗していた日本軍が停戦命令で武装解除されたことから、20日には敷香にも総引揚が発令され、残った民間人は助役らに率いられて徒歩で知取町方面へ避難を開始した。日本軍は内路川知取川の橋などを破壊してソ連軍を阻止する計画であったが、避難民にも害が及ぶために破壊も戦闘も断念している[5]。敷香市街は日本軍自身によって焼き払われ、大部分が焼失したとされるが[6]、この火災は住民が避難する際の混乱による失火が原因であるとする引き揚げ者の証言もある。樺太の戦いによる敷香住民の死者は、厚生省資料によると約70人とされている[7]

地理 編集

敷香支庁管内の最北に位置する町村の一つであり、また当時は日本最北の町であった。町の北端は当時の国境北緯50度線)である。樺太の中心都市豊原市からは鉄道で7時間近くかかった。

町内には多来加地方を中心にウィルタニヴフ等の先住民族が多く居住しており、オタス(オタスの杜)には樺太で唯一の先住民族のための学校が設置されていた。

幌内低地にはツンドラ地帯が広がり、幌内川が流れる。幌内川は、その源流を北緯50度以北の北樺太に発し多来加湾に注ぐ大河で、その全長は320キロメートル。当時は日本唯一の国際河川とも呼ばれていた。幌内川河口の東には、幌内低地東部の大部分を占める多来加湖が広がっている。面積180平方キロメートルで、当時は国内第3位の広さを持つ湖沼であった。

歴史 編集

町内の地名 編集

  • 敷香
  • 中敷香(なかしすか)
  • 江須(えす)
  • 上敷香(かみしすか)
  • 西里耶(にしりや)
  • 中里耶(なかりや)
  • 東里耶(ひがしりや)
  • 佐知(さち/しゃちがれ)
  • 駒問(こまとい)
  • 大木(おおき)
  • 初問(しょとい)
  • 保恵(ほえ)
  • 西保恵(にしほえ)
  • 千輪街(ちりんがい)
  • 亜屯(あとん)
  • 気屯(けとん)
  • 古屯(ことん)
  • 幌見峠(ほろみとうげ)
  • 半田(はんだ)
  • 雁門(がんもん)
  • 白石沢(しらいしざわ)
  • 西ヶ岡(にしがおか)
  • 西山峠(にしやまとうげ)
  • 熊追沢(くまおいざわ)
  • 岡本峠(おかもととうげ)
  • 絹水沢(きぬみずざわ)
  • 亜屯二股(あとんふたまた)
  • 幌内網場(ほろないあみば)
  • 熊野沢(くまのざわ)
  • 嬉沢(うれしざわ)
  • 知志代(ちしよ)
  • 腕白(わんぱく)
  • シツカハタ
  • フラビタイ
  • オタスの杜(オタスのもり)
旧多来可村地域
  • 西多来加(にしたらいか)
  • 東多来加(ひがしたらいか)
  • 親株(おやかぶ)
  • 氏錦(うじにしき)
  • 西氏錦(にしうじにしき)
  • 藻知矢(もちや)
  • 植恋(うえこい)
  • 東植恋(ひがしうえこい)
  • 父瀬(ちちせ)
  • 黒木(くろき)
  • 藁葺(わらぶき)
  • 毛売(けうり)
  • 中ノ沢(なかのさわ)
  • 西手牛(にしてうし)
  • 中手牛(なかてうし)
  • 東手牛(ひがしてうし) 
旧遠岸村地域
  • 池田(いけだ)
  • 池田沢(いけだざわ)
  • 高田(たかだ)
  • 山鼻(やまはな)
  • 這松(はいまつ)
  • 二面所(にめんじょ)
  • 富内(とみない)
  • 武意加(むいか)
  • 岩瀬(いわせ)
  • 瀬戸影(せとかげ)
  • 留木玉(るくたま)
  • 遠岸(とおきし)
  • 多蘭(たらん)
  • 振戸(ふれと)
  • 尾層(おそう)
  • 鴨川(かもがわ)
  • 清水(しみず)
  • 牡丹(ぼたん)
  • 晴見(はるみ)

[8]

地域 編集

教育 編集

以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[9]

国民学校 編集

  • 樺太公立敷香第一国民学校
  • 樺太公立敷香第二国民学校
  • 樺太公立敷香第三国民学校
  • 樺太公立上敷香国民学校
  • 樺太公立中敷香第一国民学校
  • 樺太公立中敷香第二国民学校
  • 樺太公立気屯国民学校
    • 古屯分教場
  • 樺太公立中気屯国民学校
  • 樺太公立幌内国民学校
  • 樺太公立千輪国民学校
  • 樺太公立大和国民学校
  • 樺太公立保恵国民学校
  • 樺太公立初問第一国民学校
  • 樺太公立初問第二国民学校
  • 樺太公立大木国民学校
  • 樺太公立駒問国民学校

中等学校 編集

  • 樺太庁敷香中学校
  • 樺太公立敷香高等女学校
  • 樺太公立敷香商業学校
  • 樺太公立敷香農業学校

交通 編集

鉄道 編集

出身者 編集

脚注 編集

  1. ^ 管内要覽(樺太廳敷香支廳 1936年)より。
  2. ^ 伊藤せいち「タライカと敷香周辺のアイヌ語地名」、アイヌ語地名研究会編『アイヌ語地名研究 13』(北海道出版企画センター、2010)
  3. ^ 愛人杉本良吉とともに北樺太で消息を絶つ『東京日日新聞』(昭和13年1月5日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p54 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  4. ^ 中山、125頁。
  5. ^ 中山、164-166頁。
  6. ^ 西牟田靖 『僕の見た「大日本帝国」-教わらなかった歴史と出会う旅』 情報センター出版局、2005年。
  7. ^ 中山、179頁。
  8. ^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
  9. ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1689 - 90、p. 1692 - 93

参考文献 編集

  • N・ヴィシネフスキー『トナカイ王-北方先住民族のサハリン史』小山内道子訳、成文社、2006年
  • 全国樺太連盟編『樺太沿革・行政史』、1978年
  • 中山隆志 『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中公文庫、2001年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室編『北東方面陸軍作戦(2)-千島・樺太・北海道の防衛』朝雲新聞社戦史叢書〉、1978年

関連項目 編集