文帝 (南朝宋)
南朝宋の3代皇帝。元嘉の治
文帝(ぶんてい)は、南朝宋の第3代皇帝。皇帝を廃されて殺された少帝(劉義符)の弟にあたる。
文帝 劉義隆 | |
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宋 | |
第3代皇帝 | |
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王朝 | 宋 |
在位期間 |
元嘉元年8月9日 - 元嘉30年2月21日 (424年9月17日 - 453年3月16日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 劉義隆 |
諡号 | 文皇帝 |
廟号 | 太祖 |
生年 | 義熙3年(407年) |
没年 |
元嘉30年2月21日 (453年3月16日) |
父 | 武帝 |
母 | 胡婕妤 |
后妃 | 文元皇后袁氏 |
陵墓 | 長寧陵 |
年号 | 元嘉 : 424年 - 453年 |
※幼名は車児 |
経歴 編集
即位以前は宜都王の地位にあった。元嘉元年(424年)、兄の劉義符が不行跡を理由に廃されて殺されると、代わって即位することとなった。
即位後は、兄を廃して殺した罪で徐羨之らの重臣を次々と粛清した。その一方で貴族を重用し、学問を奨励して国子学を復興する。このような経緯から、文帝の治世において学問・仏教などの文化が盛んになり、范曄が『後漢書』を完成させたりと、南朝宋は全盛期を迎えることになった。このため、文帝の治世は「元嘉の治」と呼ばれている。
対外政策においては、名将の檀道済を用いて北魏としばしば争ったが、元嘉8年(431年)に和睦を結ぶことで、一時的な平和を迎えることとなった。しかし北魏が華北を平定して国内を固め、文帝が檀道済を讒言により誅殺してしまうと、元嘉27年(450年)に和睦は破棄されて、南朝宋は北魏の侵攻を受けることとなる。一時的に撃退したものの、北魏軍の勢いは凄まじく、遂には長江北岸の瓜歩山(現在の江蘇省南京市六合区)にまで侵攻されてしまう。このため、南朝宋は大いに乱れることとなった。
元嘉30年(453年)、文帝は長男である皇太子の劉劭が巫蠱を行ったため、廃嫡を考えたが実行するのに躊躇した。徐湛之と相談していたが、その内容が漏れて同年2月に決起した劉劭によって殺害された。
日本との関係 編集
義熙9年(413年)から昇明2年(478年)まで倭の五王らは、東晋と南朝宋に朝貢し、朝鮮半島での倭国の軍事行動権や経済的利益の国際的承認を求めた[1]。
妻子 編集
后妃 編集
- 文元皇后 袁斉嬀
- 淑媛 路恵男(孝武昭太后)
- 婕妤 沈容姫(明宣太后)
- 潘淑妃
- 呉淑儀
- 高修儀
- 江修儀
- 殷修華
- 陳修容
- 曹婕妤
- 謝容華
- 楊修儀
- 邢美人
- 蔡美人
- 董美人
- 顔美人
- 陳美人
- 荀美人
- 羅美人
- 蔣美人
男子 編集
- 劉劭(休遠) - 母は皇后袁斉嬀
- 始興王 劉濬(休明) - 母は潘淑妃
- 孝武帝 劉駿(休龍) - 母は淑媛路恵男
- 南平穆王 劉鑠(休玄) - 母は呉淑儀
- 廬陵昭王 劉紹(休胤) - 母は高修儀
- 竟陵王 劉誕(休文) - 母は殷修華
- 建平宣簡王 劉宏(休度) - 母は曹婕妤
- 東海王 劉禕(休秀) - 母は陳修容
- 義陽王 劉昶(休道) - 母は謝容華。北魏の宋明王
- 武昌王 劉渾(休淵) - 母は江修儀
- 明帝 劉彧(休炳) - 母は婕妤沈容姫
- 建安王 劉休仁 - 母は楊修儀
- 晋平剌王 劉休祐 - 母は邢美人
- 海陵王 劉休茂 - 母は蔡美人
- 鄱陽哀王 劉休業 - 母は董美人
- 臨慶沖王 劉休倩 - 母は顔美人
- 新野懐王 劉夷父 - 母は陳美人
- 桂陽王 劉休範 - 母は荀美人
- 巴陵哀王 劉休若 - 母は羅美人
女子 編集
- 東陽献公主 劉英娥(王僧綽にとついだ) - 母は皇后袁斉嬀
- 海塩公主(趙伯符の子の趙倩にとついだ) - 母は蒋美人
- 長城公主(謝述の子の謝緯にとついだ) - 子は謝朓
- 臨川長公主 劉英媛(王偃の子の王藻にとついだ)
- 淮陽長公主(江恁にとついだ) - 子は江斅
- 新蔡公主 劉英媚(何瑀の子の何邁にとついだが、前廃帝劉子業(甥にあたる)の後宮に入れられて貴嬪に立てられ、謝氏を称した)
- 南陽公主(徐湛之の子の徐恒之にとついだ)
- 琅邪貞長公主(褚曖(褚裕之の子の褚寂之の子)にとついだ)
- 南郡献公主(褚湛之の子の褚淵にとついだ)
- 尋陽公主(郗燁にとついだ) - 娘の郗徽は南朝梁の武帝の妻になった
- 廬江公主(褚湛之の子の褚澄にとついだ) - 娘の褚令璩は南朝斉の東昏侯の妻になった
脚注 編集
- ^ 平林章仁『神々と肉食の古代史』吉川弘文館、2007年,44頁
伝記資料 編集
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