斎藤清六

日本の俳優、お笑いタレント
斉藤清六から転送)

斉藤 清六(さいとう せいろく、本名:斎藤 精陸(読みは同じ)、1948年6月15日 - )は、日本俳優日本お笑いタレント欽ちゃんファミリーの一人であった。

東京都北区赤羽出身。日本大学法学部卒業。浅井企画所属であったが後に独立し、個人事務所「清六企画」を立ち上げた。

来歴・人物 編集

実家は米屋であった。地元区立小中学校を経て日大豊山高校入学。演芸が好きで中学高校時代に浅草等に通う。付属校対象による日大統一試験により内部推薦で日大法学部へ入学するも、学園紛争のあおりでレポートのみで卒業した[1]

1971年萩本欽一弟子入りを求めて押しかける。しかし3日間いた後、萩本の一言から浅草修行を始めた。10年ほどしてから萩本の下に舞い戻り、以降は欽ちゃんファミリー入り。清六の人柄に絆された萩本はバックアップをしていく[2]

以来、飾らないボケキャラで、お茶の間を賑せている。特に『欽ちゃんのどこまでやるの!』「村の時間」のコーナーの仕切り役「たよりないアナウンサー[3]」、『クイズ・ドレミファドン!』の出題者「セイロクマン」が当たり役となり、当時の人気お笑いタレントの一員となった[4]。しかし、バラエティー番組等のレギュラー出演は1996年以降ほとんど無く、現在では主に単発番組にしか顔を見せていない。しかしテレビドラマの端役としての出演は今も継続している。

人物・エピソード 編集

  • 萩本が自主制作映画『手』(1970年 浅井企画)を上映した際、清六は頼まれもしないのに呼び込み役を引き受け、街頭で宣伝した。萩本はこの一件で清六を認めている。
  • 萩本が主導で制作した『欽ちゃんのシネマジャック』(1993年 萩本企画他)の興行収入が不振だった時、清六は現金1000万円をポンと出して「映画のチケットを売ってほしい」と頼み込むが、涙を流しながら萩本はそれを断っている。この一件があり萩本は、自分の葬式が行われる際は清六にスピーチを担当して貰いたいと考えている。
  • コント55号付き人当時、日劇公演の際、坂上二郎楽屋入りが大幅に遅れた。萩本から万一の際には代役として起用する旨を聞かされて身構えたものの、結局坂上が出番に間に合ってしまったため、代役の話はなくなってしまった。
  • スター誕生!』には素人として出演していたが、既に浅草のコメディアンとしてプロデビューを果たしていた[5]
  • 読売ジャイアンツ投手だった斎藤雅樹は、入団当時清六の全盛期だったため、渾名を「セイロク」にされてしまった[6]
  • 熱烈なプロレスファンであり、現在でも後楽園ホールなどにおける清六の目撃情報が頻繁に出る。そのため各種プロレス・格闘技メディアはインタビュー依頼を何度も出しているが、清六は断り続けている。
  • 上記にあるプロレス会場の他、お笑い芸人の舞台を頻繁に見に行くため目撃情報が絶えない。放送作家高田文夫はいつも必ずどこかの客席にいる清六を『客席王』と称している。
  • 音の高さや音程を全く取れない、極度の音痴としても知られている。芸人としてのネタではなく、実際に音感がほとんどない。過去にテレビ番組で音痴を矯正する企画に出演した結果、音痴を克服するには至らずほんのわずかに矯正された程度であった。
  • お馴染み「村の時間」のコーナーは、当初は萩本家のお茶の間に置かれていたテレビに放送する形で行っており、最初に清六が「村の時間がやってまいりました」と言ったのを「君ね『村の時間』は番組名だろ。普通は●●(番組名)~の時間ですって言うだろ」と萩本に突っ込まれ「村の時間の時間がやってまいりました」と言ったところ観客が大ウケし、以後この言い方に定着した。たどたどしい口調や、ハガキの宛先の郵便番号(106)を決まって「ひゃくまるろく」と言うなど、独特の言い回しが特徴であった。
  • 小堺一機が2008年3月22日放送のラジオ番組コサキンDEワァオ!』で語ったところによると、清六は深夜の0時から生放送のラジオ番組『ザ・欽グルスショー』の現場にいつも23時56分頃に現れ、スタッフを困らせていた。そのため、ある時ディレクターの一人が清六に「せめて連絡くらい入れてほしい」と注意すると、清六は「なんで? 僕、間に合うと思ったからねえ。」と答えたという。また、別のラジオ番組(『玉置宏の笑顔でこんにちは』)に清六の代役として出演した時に小堺が聞いた話によると、その番組でも清六は本番ぎりぎりに現場入りしてスタッフを困らせていたという。なお、カンコンキンシアターなどの舞台観劇にも開演ギリギリにやってくることが同番組で語られ、翌週もリスナーから目撃談が投稿されている。
  • コサキンの回顧企画の中では、過去の放送記録の中から、清六が番組リスナーから寄せられた葉書のネタに大笑いする様子が放送された。これは清六が滅多に笑う所を見せない為であった。番組パーソナリティの小堺一機・関根勤共に「清六さんは人を笑わせるが、自分が笑うのは非常に珍しい」と強調していた。
  • 過去に堀敏彦(現・テレビ新潟アナウンサー)が芸人時代に清六の付き人をしていた時期があり、一正蒲鉾の「オホーツク」のCMに一緒に出演していた事もある。
  • 稽古に厳しい萩本に対し、三波伸介はやさしかったため、清六は周囲に「俺はね、はっきりいってね、三波さんの方が好きなんだよ」と漏らすほど三波のことを尊敬しており、三波が亡くなった時はあまりに泣き悲しむために収録が出来ないほどだった。三波の葬儀が終わり収録に向かう際、嘆き悲しみながら「こんなつらい時はさ、プロレス観ようよ」と言い、その場にいた関根勤は「人生の中であんだけ『ハァ?』と言ったことはなかった」と語っている。その時は途中ラーメン屋に寄り、テレビのプロレス中継を夢中になって観ていた[7]

出演 編集

テレビドラマ 編集

映画 編集

バラエティ 編集

ラジオ 編集

CM 編集

音楽作品 編集

著書 編集

脚注 編集

  1. ^ 本人がメディア・著作で語ったところによると、学園紛争が無かったら卒業出来なかったという。
  2. ^ 萩本は、弟子が一人もいないと公言していたが、2000年代辺りに入り唯一の弟子として認めた。
  3. ^ 番組では「あぜ道カットでお馴染みの甘栗坊や」のちに「稲穂カットでお馴染みの団栗坊や」と名乗っている。
  4. ^ それ以前にも『スター誕生!』のコーナー司会で、ボケキャラ振りを見せていた。
  5. ^ フランス座で同僚だったビートたけしは、「何であいつが素人としてテレビに出ているんだ」と思って見ていた。また、たけしはたけし軍団のボケに関する芸のことを語った時に清六を引き合いに出し、「あいつも理路整然に語っていた」と話した。
  6. ^ 原辰徳が最初に監督に就任した際も、コーチに就任した斎藤雅樹の事を「セイロク」と呼んでいた。
  7. ^ コサキンDEラジオ!#17。

外部リンク 編集