斑鳩宮は、飛鳥時代皇族である厩戸皇子(聖徳太子)が、現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿である。

歴史

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日本書紀』によれば、厩戸皇子は推古天皇9年(601年)に斑鳩宮の造営を開始し、推古天皇13年(605年)に居を移したとされる。また、厩戸皇子の手により、斑鳩宮の西方には斑鳩伽藍群(法隆寺中宮寺法輪寺法起寺)が建立された。

厩戸皇子の薨去後、斑鳩宮は皇子の嫡男である山背大兄王の一族が居住していた。しかし、皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿の兵によって斑鳩宮は焼き払われ、山背大兄王をはじめとする上宮王家の人々は、法隆寺において自決を余儀なくされたと伝えられている。現在の法隆寺は、蘇我氏滅亡後に再建されたとする説が有力であり、明治時代以降、法隆寺の再建・非再建論争が繰り広げられてきた。今日においても、法隆寺の創建時期に関する議論は続いている。

構造

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発掘調査によって明らかになったのは、まず斑鳩宮が現在の法隆寺東院伽藍の場所に位置していたこと、そして宮の範囲が東西南北それぞれ約218メートル(二町四方)であったことなどである。しかしながら、宮殿全体の具体的な構造については、未だ解明されていない部分が多い。

また、厩戸皇子が建立したと伝えられる斑鳩寺は、法隆寺西院伽藍の裏手に位置する若草伽藍であると考えられている。若草伽藍からは、金堂や塔が火災によって焼失した痕跡が確認されている。伽藍の中心部の広さは、東西約139メートル、南北約172.5メートルの四天王寺式伽藍配置であった。斑鳩宮と斑鳩寺(若草伽藍)は、方位がほぼ一致しており、同時期に造営されたことが示唆される。さらに、法隆寺西院伽藍の東大門や西大門に沿って築かれた築地も同様の方向を向いていることから、斑鳩宮の造営と同時に築造され、道路や水路が広範囲に整備されたと推測される。

太子道

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飛鳥斑鳩を結ぶ幹線道路であった太子道も、斑鳩宮や斑鳩寺とほぼ同じ方位で敷設されている。太子道は、別名「筋違い道」とも呼ばれ、現在の奈良県磯城郡田原本町保津と生駒郡斑鳩町高安を結ぶ道であった。1998年の発掘調査では、田原本町保津の起点から東南方向へ約20メートルにわたり、溝幅約3メートル、深さ約0.5メートルの側溝を持つ道が検出されている。