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新仁義なき戦い 組長の首

概要編集

昭和43年から封切当時の昭和50年頃までの北九州市を舞台に関門海峡一帯を仕切るヤクザの二大組織の抗争劇を描く[1][2]。「物語はすべてフィクション」と断り書きが付いていたとされるため[1]、モデルは無い"実録風映画"[3][4]

深作欣二は「企画サイドからアクション映画のテイストで出来ないかという注文があった」と話しているため[5]、最初から実録にはこだわっていなかったと見られる。また菅原文太が当時、実録路線に対し批判的な言動を繰り返していたため、実録映画としては製作できなかったという事情があった(菅原の造反#後述)。深作は『仁義なき戦い』五部作で一つの戦後史としての『仁義なき戦い』は完結したと考えていたため[5]、「ヤクザ映画というよりも番外編アクションドラマとして作った」「新仁義なき戦いシリーズ」は三本だが「基本的には一本一本が別作品」などと述べている[5]

ストーリー編集

 昭和43年。覚醒剤を主とする密輸品は、古くから関門海峡の周辺を密輸基地に陸揚げされ、日本全国の暴力組織に捌かれていた。その莫大な利権をめぐって対立する大和田組と共栄会の二大組織があった。大和田組幹部・楠鉄弥(演:山崎努)は、親分・大和田徳次(演:西村晃)の命で、流れ者・黒田修次(演:菅原文太)、組員・須川(演:渡瀬恒彦)とともに、共栄会々長・正木を襲撃、黒田は自から単独殺人を認め殺人罪で刑務所へ収監、10年の刑を受けた。共栄会は組長の死以後、崩壊し、大和田組は勢力を拡大した。
 大和田の娘・美沙子(演:梶芽衣子)を妻にした楠の面会がとだえてから七年、黒田は仮出獄した。黒田はその足で楠を訪ねたが、楠はヒロポン中毒になっていた。一方、大組織化した大和田組にも派閥ができた。相原重彦(演:成田三樹夫)、赤松猛夫(演:室田日出男)、井関政治(演:織本順吉)、高山音松(演:睦五郎)、郷田猪之吉(演:汐路章)の各幹部である。久しぶりに大和田と対面した楠は黒田の懲役慰労金として五百万円要求するが、その気のない大和田は逆に楠を破門した。そこで楠は黒田とともに大和田の妾宅を襲い、大和田と品子(演:中原早苗)を脅迫、五百万円出すことを約束させた。  数日後、相原は黒田にヒロポンを渡し、赤松組の縄張り内で売るように依頼した。赤松組の了解を得ているということで、黒田は舎弟分の志村(演:小林稔侍)と笹木(演:三上寛)に商売をさせたのだが、赤松組組員と乱闘事件を起こした。そして、この報復として笹木が赤松を刺殺、自分も殺されてしまった。これは、相原が大和田組から独立を企でていた赤松を抹殺するためにしくんだものだった。
 その相原は、秘かに、大阪の野崎組の後押しで、大和田組の二代目を狙っている。数日後、大和田組の幹部会が開かれ、大和田は二代目として井関を推した。そしてその場で、黒田との親子の盃、井関・黒田の兄弟分の盃もかわされた。怒った相原は、楠に、大和田が楠を狙っており、美沙子を黒田の妻にするらしい、とそそのかした。相原の言葉を信用した楠は、大和田を射殺した後、精神異常者として病院に運ばれた。大和田の通夜の日、井関らの前で、野崎は二代目として相原を推した。強力な組織を持つ野崎に、井関は従がわなければならなかった。相原は、井関に黒田殺しを要求した。兄弟分を殺すことはできぬ、と井関は所払いを願いでた。全てを知った黒田は、組のバッヂを投げ捨て、相原の首を殺ることを決意。二代目襲名の挨拶廻りのために、相原、井関たちは、大阪へと向かった。その後を、黒田、志村、須川が追った。“組長の首”を殺りに……。

キャスト編集

大和田組

赤松組

野崎組

刑務所

  • 根本 - 岩尾正隆:志村勝男を集団で強姦しようとする。

その他

製作編集

第二弾製作までの経緯編集

「新仁義なき戦いシリーズ』の第一弾『新仁義なき戦い』の正式な製作発表があったのは1974年11月で[7]、「新仁義なき戦いシリーズ』という告知は無かったが、「『新・仁義―』は一話読み切り的な作り方となり、第一作目は神波史男荒井美三雄の共同脚本、出演者もその都度異色の女優を起用し話題性を盛り上げる」と内容説明があったため[7]、最初から第二作目の予定があるシリーズ作で、女優にウェイトを置いた内容になることが予想された。実録物なのか、アクション物なのかはこの時は説明がなかった[7]。また第一作『新仁義なき戦い』公開直後のデイリースポーツ1975年1月17日の記事に、東映へ戦列参加を表明していた[8]渡哲也が菅原の共演者として1975年ゴールデンウィークに「新仁義なき戦いシリーズ」第二弾を予定している」と書かれていることから[9]、「新仁義なき戦いシリーズ」第二弾は1975年ゴールデンウィークの公開を最初は予定していたものと見られる。

ところが1975年2月19日に東映本社であった記者会見[10]岡田茂東映社長が1975年度の製作予定作を相当数発表した中に「新仁義なき戦いシリーズ第二弾」はなく[11]、「『新仁義なき戦いシリーズ』『ザ・カラテシリーズ』はすでにその役割が終わったし製作は考えていない」と話した[10]。東映は岡田がダメと言ったら映画は作られないため[12][13][14][15][16]、第二弾製作は不透明になり、1975年ゴールデンウィーク枠は『県警対組織暴力』になった。勿論、『県警対組織暴力』に「新仁義なき戦いシリーズ」の冠はなかった。『週刊読売』1975年3月8日号に「今度の作品で主演の文太を刑事に回すとなると『新・仁義なき戦い』次回は悪徳捜査官を描く(深作監督)どころか...」[17]、『週刊平凡』1975年3月13日号には「東映映画『新・仁義なき戦い』で、ヤクザ俳優・菅原文太がなんと広島県警の刑事部長に転職する。転職は文太だけでなく、これまで同シリーズに出演していたヤクザ俳優全員というから、これはまさに"仁義なき変身"だ。『6本もやってると、どうしてもマンネリになる。それに広能(文太)のような切れ者をいつまでも、ヤクザにしておくのは惜しいと思ってね。ま、ヤクザと警察の腐れ縁をたっぷり取材させてもらいました』と深作欣二監督はニヤニヤ...」という記事が見られることから[18]、岡田は『県警対組織暴力』を「新仁義なき戦いシリーズ」第二弾と考えていなかったが、深作やマスメディアは『県警対組織暴力』を当初「新仁義なき戦いシリーズ第二弾」という認識が持っていたことが分かる。

以降は製作の報道もなくなったが、製作費を注ぎ込んだ夏の超大作『新幹線大爆破』がコケると岡田は[19]「落ちるところまで落ちたが、あとは浮上あるのみ。私が陣頭指揮に立つ」と[20]、何度目かの陣頭指揮宣言をし[12][14]、自身で従来の企画を洗い直し再検討を行った[12][14][20]。岡田は1971年の社長就任以降、長く重役を置かないワンマン体制を敷き[13][21]、他社が路線変更など重要案件に大変な騒動と会議を伴う中、東映は岡田の一存で全部決まった[13]。『新幹線大爆破』は新規ファンの開拓を狙ったものだったが[14]、従来の東映ファンを裏切る結果となったと分析した岡田は[14][22]、1975年8月27日、秋以降の番組を発表し「番組の組合せに徹底を欠いた。春から一部青春映画など、ヤングを狙った企画を立てたが上手くいかなかった。基調として東映本来の原点に還り、独自のカラーを強調したアクション、プラスお色気ものを並べ、半期配収45億円を目標に大攻勢をかけ、東映躍進の年にしたい」と述べ[12][14]、この席で「新仁義なき戦いシリーズ」を復活させると言明し[20]、1975年11月一週公開映画として本作の製作を発表した[14]。合わせて1976年新春作品として「新仁義なき戦いシリーズ」第三弾の製作も告知し、このとき岡田が発表した第三弾のタイトルは『新仁義なき戦い・組長刺客十三人』であった[14]。岡田の頭に「『新幹線大爆破』で失った本来の東映ファンをまた東映の劇場に呼び戻すためには東映調にもう一度戻すことが先決である」という思いがあり[14]、『新幹線大爆破』がコケたおかげで「新仁義なき戦いシリーズ」は継続が決まった[14]。同じ発表で病気療養中の渡哲也が来春の『新宿暴力街・くちなしの花』(『やくざの墓場 くちなしの花』)でカムバックする、ローテーションの中心となるのは、菅原文太、松方弘樹千葉真一、渡哲也ら、と話したため、高倉健の名前がないのが目立ち、それを記者から質問されたため、岡田は「高倉君はここ一番というときにホームランバッターとして登場してもらう指名打者」と説明した[20]

また岡田は映画誌で、2月の「新仁義なき戦いシリーズの役割は終わった」発言とは一転、「どうやら文太の『トラック野郎』が来そうだし、次は大事にいけと、大きく狙っているのが『組長の首』だね。この間、京都へ行ってライターと詳しく打ち合わせして来たから、的の外れたものには絶対ならんよ。やくざの喧嘩なんぞ簡単なんだよ。組長の首とりゃ終いだ。それだけに組長もおびえる、脅えるから和平になるんだね。手打ち式やるのは下の組員のいきさつなんてどうでもいい、狙われるのが怖いから、口ではえらそうなこといっても、一番手を打ちたがっているのが組長なんだ」などと、組長たる者、いつ寝首をかかれるか判らないというプロットを指示し[12]、「今度の『組長の首』はひと味違った新鮮でショッキングな〈新・仁義なき戦い〉になると思う」などと話した[12]。タイトルは『ガルシアの首』からインスピレーションを得たとされる[4]

脚本編集

最初に佐治乾田中陽造で脚本を書いたがまとめ切れず[23]高田宏治がアンカーとして呼ばれた[3][24]。佐治・田中脚本では舞台は山口県下関だったが[25]、高田加入後は舞台が関門トンネルを潜った福岡県北九州市門司になり[25]、全く違う話になった[25]。みんな九州弁を喋るのに菅原だけ広島弁なのは、一人だけ広島の臭いを残した方がいいだろうと広島弁にした[26]

佐治乾は、初期・深作欣二の作風の確立に貢献した脚本家[3]。田中陽造は当時、日活ロマンポルノで活躍中の脚本家で、先述のように本シリーズは女優にウェイトを置くというコンセプトがあり[7]、深作が「ドラマにもっと女を持ち込みたい」という希望もあって田中が参加したといわれる[26]。田中は本作ではあまり働かなかったという証言もあるが[24][26]、この年から東映に重用されるようになり、以降1980年代にかけて多くの秀作シナリオを残した[3][27]。高田宏治も参加していることから、1980年代に一時代を築いた「東映女性映画」[28][29]の源流は『北陸代理戦争』という見方もあるが[30]、こちらの方が早いのかもしれない。

高田は元々東映の脚本家であるが[23]、『仁義なき戦い 完結篇』以降、笠原和夫と共に東映のエース級脚本家になって多くの大ヒット作を生み出して大金持ちになり[31]、40歳年下の美女を妻に持ち、最盛期には護国寺近くのボウリングが出来そうなワンフロア150m2日商岩井ヴィンテージマンションに住んでいたといわれる[31]

菅原の造反編集

主演の菅原文太はこの年のハードスケジュールに堪忍袋の緒が切れ、『県警対組織暴力』撮影後会社に猛反抗[32][33][34][35][36][37][38]プロモーションには協力したが『県警対組織暴力』の後、1975年4月20日から、丸三ヶ月の間、入院も含め仕事を休んだ[33][39]。この間、出演予定があった『資金源強奪』『新幹線大爆破』『暴力金脈』の三本を全て断り[39]、7月21日にクランクインした『トラック野郎・御意見無用』で仕事復帰した[39]。断った三本の出演交渉に於いて「会社のいいなりになってると殺される」[35]、「今の東映のシステムでは、映画の出来、不出来や入り具合は、全て役者がかぶるようになる」などと反撥し[32][38]、シナリオは勿論、配役やカメラマン、ポスターにまで文句を付けるようになり[38]、「クレーム屋」「完全主義者」などと東映内部でニックネームが付けられた[38]。中でも問題だったのは「実録路線は峠を越した」発言で[36][38]、東映はかつて任侠映画マンネリと批判を受けながら、手を変え品を変え引き延ばした実績があり、製作サイドが引き延ばそうと必死の努力の続けている中、実録路線のエースから先に終了宣言されては影響力も大きくイメージも悪い。菅原は「実録としての"仁義―"はもう終わったと思う。これからはフィクションとしての面白さが大事。だから私としては妥協は許されない。徹底的にダメを押して撮入した。私の代名詞ともなったシリーズを竜頭蛇尾に終わらせたくないですからね」などと話し本作のオファーを受けた[38]。前作『新仁義なき戦い』は広島抗争の焼き直しのため、一応実録と言えるが、本作はフィクションで、実録でないため菅原は出演を承諾した[38]。菅原を出すためにはフィクションにしなければならなかったのである。菅原の役柄も全作までと180度変わり、本作では自分では手を出さず、配下に組長の寝首をかかせるダーティドッグである[38]

キャスティング編集

シャブ極道を演じる山崎努ヤクザ映画、及び東映初出演[2][5][40]。山崎はやや強面の風貌とは違い「タレントらしからぬまじめ人間」と言われた人で[40]、ヤクザ映画は一本も見たことがなかった[40]。このためヒロポン中毒で廃人にされる役に抵抗があり、出演を渋ったが[40]、深作から「キミのイメージで脚本を書いた」などと熱心に口説き落された[40]。深作は山崎の起用理由を「彼のあの眠そうな目だよ。......にピッタリだろ」と話していたという[40]。山崎の演技を深作は「あの山崎君は好きだったな」と語っている[5]小林稔侍はもともと大阪のナイトクラブバーテンダー役だったが[41]、空き時間に撮影見学していた千葉真一を深作は急遽カメオ出演させ、そのバーテンダーにした[注釈 1]。小林は役がなくなったと落胆していたが、深作は主人公の弟分・志村勝男に小林を抜擢した[41]

抱いた男がみんな死んでいくという究極のさげまん・通称"下がりボンボン"を演じるひし美ゆり子がハードな濡れ場を演じる[3][24][42][43]植地毅は「女の武器フルスロットルのひし美が"仁義シリーズ"最高のヒロイン」と評価している[42]

大和田組組長を演じる西村晃は『仁義なき戦い』五部作で、三國連太郎と共に山守親分役の候補だった一人[26]

撮影編集

監督の深作が演出にイメージしたのが1967年のアメリカ映画殺しの分け前/ポイント・ブランク[24][26]。長期ではないが[26]北九州市門司港駅前や近所の東本町商店街などでロケーション撮影を敢行した[26]。 

同時上映編集

興行編集

全国拡大封切により配収3億1160万円[44]。他に3本の11月公開作と合わせ、東映11月期としては過去最高記録7億3257万円の新記録に寄与した [44]

逸話編集

  • 武論尊平松伸二著『ドーベルマン刑事』第2巻「非情のワナ!!の巻」の挿話で菅原文太に憧れて田舎から上京してきた極道志願の少年・一瀬千吉新宿駅出口にある『新仁義なき戦い 組長の首』の看板を見て「ぶ…文太アニイ!!」と感激し、サングラスをしながら「おれも文太アニイに負けねぇような男の中の男になるぜ!」と答える場面がある。
    その後、盃をもらった水津組の組長から恩義のある加納(本作の主人公)を殺すように命じられて先の看板を見ながら「文太アニイ…」と千吉が思い悩む様子が描かれている。

影響編集

岡田茂東映社長が、本作のカーアクションが面白いので(演出は関本郁夫[26]、この頃日本で大ヒットしていたアメリカ映画「『バニシングin60″』とミックスして映画を作れ」と号令して[4][45]、1976年に同じ深作監督で『暴走パニック 大激突』が製作されるなど[4][45][46]、後に再評価される「東映マシン路線」「東映70年代メカニック路線」に連なったとされる[4][47][48]

ビデオ編集

新仁義なき戦い 組長の首
発売日 タイトル 規格 品番
1996年12月13日 新 仁義なき戦い 組長の首 LD LSTD-01330
2003年04月21日 新 仁義なき戦い 組長の首 DVD DSTD-02228
2003年04月21日 新 仁義なき戦い DVD-BOX<3枚組> DVD-BOX DSTD-02230
2015年04月08日 新 仁義なき戦い Blu-ray BOX<初回生産限定版> 3Blu-ray BSTD-03816
2018年05月09日 新 仁義なき戦い 組長の首 Blu-ray BSTD-02228

脚注編集

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注釈
  1. ^ 千葉は深作に「ちょっと出ようか?」と言われ、バーテンダーの衣装を着せられたという[6][41]
出典
  1. ^ a b 美浜勝久「洋画ファンのための邦画マンスリー」『ロードショー』1975年12月号、集英社、 174頁。
  2. ^ a b 杉作J太郎植地毅「新仁義なき戦いシリーズ 番外編の魅力 文・植地毅」『仁義なき戦い 浪漫アルバム』徳間書店、1998年、114-116頁。ISBN 978-4-19-860846-0
  3. ^ a b c d e 谷井洋子「特集 深作欣二 rare groove 1975~1977 作品紹介 『新仁義なき戦い 組長の首』」『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.3』シンコーミュージック・エンタテイメント、2005年、30頁。ISBN 978-4-401-75102-0
  4. ^ a b c d e 佐藤忠男山根貞男編『日本映画1976 '1975年公開映画全集 シネアルバム(46) 『暴力の時代と映画 文・高田純』』芳賀書店、1976年、143頁。
  5. ^ a b c d e 杉作J太郎・植地毅「深作欣二インタビュー 聞き手・杉作J太郎」『仁義なき戦い 浪漫アルバム』徳間書店、1998年、140-141頁。ISBN 978-4-19-860846-0
  6. ^ a b 千葉真一、深作欣二の初時代劇の教えに感謝」『アサ芸+』、徳間書店、2012年11月28日、2012年11月29日閲覧。
  7. ^ a b c d 「東映、正月第一弾『新・仁義―』黄金路線の集約で配収目標は十五億円」『映画時報』1974年11月号、映画時報社、 17頁。
  8. ^ 「東映初出演で『仁義の墓場』 渡哲也、カムバック第一作決る」『映画時報』1974年12月号、映画時報社、 19頁。
  9. ^ “一年ぶりに緊張気味『仁義の墓場』クランクイン渡哲也の映画復帰第一作”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 4. (1975年1月17日) 
  10. ^ a b 「東映岡田社長、六月以降の制作企画作品発表」『映画時報』1975年2月号、映画時報社、 19頁。
  11. ^ “岡田東映社長新方針発表四ジャンルで衣替え活劇”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1975年2月22日) 
  12. ^ a b c d e f 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、54-59、69-70頁。ISBN 978-4-636-88519-4
  13. ^ a b c 「今年こそ映画復興の決定的年度 四社よく奮励努力すべし 独自のマーケットと独自の観客層で堅実に進む東映」『映画時報』1974年4月号、映画時報社、 12-14頁。「'75年の企業戦略に対応 各社主脳人事の進撃体制なる 岡田社長を陣頭に人材豊富な攻撃型の東映」『映画時報』1974年11月号、映画時報社、 12-15頁。「巻返しを計る各社の表情を探る 洋高邦低の声に必死の努力を続ける 岡田社長を頂点にますます業績増大の東映」『映画時報』1976年4月号、映画時報社、 12頁。
  14. ^ a b c d e f g h i j 「東映、半期四五億円を目標に大進撃 岡田社長、陣頭指揮の企画作品発表」『映画時報』1975年8月号、映画時報社、 19頁。
  15. ^ 大谷隆三(松竹代表取締役社長)、聞き手・北浦馨「松竹創立80年に際して 大谷社長は語る 来年は邦画・洋画対決の年 =日本映画の歴史は生きている 洋画攻勢には全力投球あるのみ=」『映画時報』1975年9月号、映画時報社、 5頁。「映画界東西南北談議 巻きかえしを計る邦画陣 邦・洋逆転に各社奮起の企画」『映画時報』1975年9月号、映画時報社、 33頁。
  16. ^ 「決戦関ヶ原 日本映画の正念場=洋画との対決の危機増大 正月映画にすべてを賭ける 岡田社長を先頭に再び前進を始めた東映」『映画時報社』1975年10月号、映画時報社、 14-16頁。
  17. ^ 「オヤオヤこんどは東映"両面作戦"」『週刊読売』1974年3月8日号、読売新聞社、 33頁。
  18. ^ 「映画コーナー 『菅原文太の"仁義なき変身"』」『週刊平凡』1975年3月13日号、平凡出版、 122頁。
  19. ^ “話のタネ 東映・岡田社長のツキとカン来年は頂き…と快気炎”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 5. (1975年11月13日) 
  20. ^ a b c d “アクション中心の娯楽作に力コブ 再び"仁義―"も復活 東映年内のアウトライン発表”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 6. (1975年8月26日) 
  21. ^ 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、124頁。ISBN 978-4-636-88519-4
  22. ^ 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・土橋寿男・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 『邦画各社のラインナップ揃ったが』」『キネマ旬報』1975年9月上旬号、キネマ旬報社、 162 - 163頁。
  23. ^ a b 「特集 深作欣二 脚本家 高田宏治インタビュー」『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.3』シンコーミュージック・エンタテイメント、2005年、50-54頁。ISBN 978-4-401-75102-0
  24. ^ a b c d 高田宏治『東映実録路線 最後の真実』メディアックス、2014年、42-43頁。ISBN 9784862014870
  25. ^ a b c 松田政男「映画の現場をめぐって 『新仁義なき戦い 組長の首』私註」『シナリオ』1975年12月号、日本シナリオ作家協会、 128-132頁。
  26. ^ a b c d e f g h 深作欣二山根貞男『映画監督深作欣二』ワイズ出版、2003年、292-298頁。ISBN 4-89830-155-X
  27. ^ 「短期集中連載 『作家を育てた"日活ロマンポルノ"研究 第4回 登場作家 田中陽造』」『シナリオ』2007年8月号、日本シナリオ作家協会、 150-154頁。
  28. ^ 「女優+文芸=大作 文・金澤誠」『東映キネマ旬報 2010年冬号 vol.14』2012年3月1日、東映ビデオ、 2-7頁。
  29. ^ 東映昭和映画傑作選 - U-NEXT
  30. ^ 伊藤彰彦『映画の奈落 北陸代理戦争事件国書刊行会、2014年5月、264-265頁。ISBN 978-4336058102
  31. ^ a b 高田宏治×伊藤彰彦 聞き手・桂千穂 磯田勉「ブックレビュー インタビュー 『映画の奈落 北陸代理戦争事件』」『シナリオ』2014年6月号、日本シナリオ作家協会、 23 – 24頁。
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  33. ^ a b “不死身の文太、オーバーホール きょう入院"いい骨休みさ"”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年6月4日) 
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  37. ^ “~アンタ!あの娘の何なのさ~ 爆発人気"ダウン・タウン" 文太もシビレタ お忍び拝聴の東映重役さんもOK”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年6月11日) 
  38. ^ a b c d e f g h “夢乗せ疾走 文太シリーズ 新仁義、トラック野郎 二頭立て馬車に仁王立ち 手綱がっちり 口も出しますクレームも”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 6. (1975年10月24日) 
  39. ^ a b c “三度失敗、四度目にやっと運ちゃん文太に免許証”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年7月12日) 
  40. ^ a b c d e f 「映画コーナー 『深作監督にあの"眠そうな目"が認められた山崎努"』」『週刊平凡』1975年10月30日号、平凡出版、 102頁。
  41. ^ a b c 千葉真一(JJサニー千葉名義)『千葉流 サムライへの道』ぶんか社、2010年、142頁。ISBN 4821142694
  42. ^ a b 杉作J太郎・植地毅「仁義なき女達 文・植地毅」『仁義なき戦い 浪漫アルバム』徳間書店、1998年、194-195頁。ISBN 978-4-19-860846-0
  43. ^ 深作欣二のバイオレンス、撮影中はずっとビビってた」『アサ芸+』、徳間書店、2012年12月18日、2019年4月8日閲覧。
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  45. ^ a b 神波史男「悪夢と狂躁の果て」『シナリオ』1976年4月号、日本シナリオ作家協会、 15頁。荒井晴彦責任編集「この悔しさに生きてゆくべし ぼうふら脚本家 神波史男の光芒」『映画芸術12月増刊号』、編集プロダクション映芸、2012年、 212頁。
  46. ^ 「特集 深作欣二 カメラマン中島徹インタビュー」『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.3』シンコーミュージック・エンタテイメント、2005年、70頁。ISBN 978-4-401-75102-0
  47. ^ 「追悼・岡田茂 東映不良性感度映画の世界 二輪VS四輪! 東映マシン路線」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、 64頁。
  48. ^ 「狂った野獣」など東映メカニック路線ムック、渡瀬恒彦がドライブ武勇伝を披露

外部リンク編集