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新宿西口バス放火事件(しんじゅくにしぐちバスほうかじけん)とは、1980年昭和55年)8月19日夜に東京都新宿区新宿駅西口バスターミナル路線バスの車両が放火され6人が死亡・14人が重軽傷を負った事件[1]

新宿西口バス放火事件
場所 日本の旗 日本東京都新宿区西新宿一丁目(新宿駅西口バスターミナル京王帝都電鉄バス乗り場。京王百貨店前)
日付 1980年昭和55年)8月19日
標的 民間人
攻撃手段 放火
死亡者 6人
負傷者 14人
犯人 建設作業員の男性(当時38歳)
動機 社会への不満の爆発
攻撃側人数 1人
対処 警視庁逮捕東京地検起訴。刑事裁判により無期懲役が確定(服役中に自殺)

目次

事件の概要編集

1980年8月19日(火曜日)21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナル20番乗り場で、発車待ちのため停車中だった京王帝都電鉄(現:京王電鉄。当該事業は分社化により京王バス東が継承)の運行する宿41系統・6号通り経由中野車庫行きバス(日野RE100・A2158号車 登録番号:練馬22か ・771)の車内に、男が後部ドアから火のついた新聞紙ガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込んだ。

火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった[2]

加害者の男(当時38歳)は1942年(昭和17年)に[1]現在の福岡県小倉市(現:福岡県北九州市小倉南区)にて生まれたが[3]、2歳で母親を亡くし、父・兄に育てられたが小学校4年生以降は登校せず農業の手伝い・工員をしていた[1]。そのため成人になっても小学生の日本語レベルの識字ができない文盲だった。犯人は父親の病死を機に建設作業員として全国を転々とする。1972年に結婚するも相手は悪妻であり、妻が長男を出産した翌年に離婚。妻が精神病に罹患したため、子供児童施設に預け、毎月仕送りを欠かさずに、各地を転々としながら現場作業員として働いていた[4]

加害者は警視庁の警察官に殺人・放火の現行犯で逮捕されたが[5]、当初は取り調べに対し「何もしていない」と容疑を否認し[1]、事件について最初に訊かれる「弁解録取」に対しては「髪の毛が焦げているのは飯を炊くために火を燃やしたからだ。事件のことは知らない」と述べていた[6]。しかし事件2日後(1980年8月21日)に「大変なことをした。申し訳ない」と容疑を認め[1]、弁護士と接見した際にはかなり動揺した様子で「早く殺してほしい。死刑にしてくれ」と頼み込んだ[6]

男の自供によれば、犯行の動機は「日ごろのうっぷんを晴らすため」だった[2]。事件当夜、新宿駅前広場に通じる階段に座ってを飲んでいたところ、何者かに「ここから出て行け」と言われ、カッとなって犯行に及んだという[7][4]

事件後編集

犠牲者の中に、当日後楽園球場で行われた読売ジャイアンツヤクルトスワローズの試合を観戦した帰りの父親(40歳)と息子(8歳)もいた。この事件を聞いた後楽園球場を管理する株式会社後楽園スタジアムと巨人軍が告別式に花を贈ったこと、王貞治祭壇にサインボールを供えた[8]ことが報道された。

死亡した被害者に、子供の運動靴を買うため勤務先から帰宅途中、たまたま新宿に立ち寄り事件に遭遇した母子家庭の母親がいた。通常帰宅経路から離れた場所で事故等に遭遇した場合通勤災害は認定されないが、このケースでは当時の労働大臣藤尾正行の発言もあって労災が認定された。

また京王帝都電鉄では、同社に落ち度のない事件ではあったが、全社員に献血を呼び掛けたり、医療費の一時立て替え等の措置を全社を挙げて行った。

刑事裁判を控えて東京地方検察庁の担当検察官・上林博は「加害者に精神障害があるとは思えないが、若干被害妄想的なことを述べている」として被疑者の男を鑑定留置し逸見武光(当時・東京大学教授)へ精神鑑定を依頼したが、その精神鑑定結果も「被害妄想・脅迫観念に似た抑うつ症状はあるが精神障害があるとまでは言えず、統合失調症ではない」と結論付けたものだった[1]

男を建造物等以外放火罪殺人罪東京地方裁判所起訴した。放火に関しては刑法108条の現住建造物等放火罪では「放火により、現に人が住居に使用しまたは人がいる建造物、列車、電車、船舶、鉱坑を焼損する罪」と規定しているが、この条文に「バス」は明記されていない。営業バスは多数の人が乗車することが想定されているため、バスを列車や電車に準ずるものとして刑法108条の現住建造物等放火罪を適用すべきとする意見もあったが、判例がなく学説も分かれているため刑法110条の建造物等以外放火罪で起訴された。

1981年(昭和56年)1月に東京地裁(神垣英郎裁判長)で初公判が開かれた際、罪状認否で被告人の男は「覚えていない」と述べた[1]。その後、証人出廷した逸見が『精神鑑定の期間が短かったため再度の精神鑑定を行いたい」と要望したため、東京地裁が逸見と福島章上智大学教授へ委嘱して職権で再度の精神鑑定を実施した[1]。その結果、逸見は「複雑酩酊による心神耗弱状態」・福島は「単純酩酊・経度知的障害と心因性妄想の3つの要因による心神耗弱状態」と結論を出した[1]

東京地検の検察官は1983年(昭和58年)12月に東京地裁(神田忠治裁判長)で開かれた論告求刑公判にて被告人の男に死刑を求刑した一方、それから2か月後(1984年2月)に開かれた最終弁論で弁護団は「加害者は犯行当時、長男を預けた福祉施設から「まじめに働け」と迫られ追われているという妄想を抱いており、犯行当時は心神喪失状態だった」と無罪を主張した[9]

1984年(昭和59年)4月24日に第一審判決公判が開かれ[10]、東京地裁(神田忠治裁判長)は「本件は本来ならば死刑を適用すべき事件だが、事件当時の被告人は心神耗弱状態にあった」と事実認定し、検察の死刑求刑から量刑を減軽し無期懲役判決を言い渡した[9]弁護人・東京地検の双方がこの無期懲役判決を不服として東京高等裁判所控訴したが[9]、被告人の男は1985年(昭和60年)2月14日午前に東京高裁刑事第4部(山本茂裁判長)にて開かれた控訴審初公判にて開廷直後に突然裁判官席・傍聴席をそれぞれ向いて土下座し小声で「ごめんなさい」と述べたほか、閉廷後も傍聴席に「ごめんなさい」と言いつつ頭を下げた[3]

1986年(昭和61年)8月26日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁刑事第4部(山本茂裁判長)は第一審・無期懲役判決を支持して双方の控訴を棄却する判決を言い渡した[11]。被告人は判決文の朗読が終わると山本裁判長に対し「懲役ですか?』と問いかけたが、裁判長が「無期懲役」と答えると「自分は罪にならないのですね」などと意味不明な言葉を発した一方で傍聴席を向き「ごめんなさい」と謝罪しつつ土下座した[11]。この判決により無期懲役刑が確定[9]、男は判決確定後の1986年10月7日から千葉刑務所収監されていたが[12]、知的作業ができなかったことや被害者と交流があったことにより複数の受刑者からいじめられていたという。男は1997年(平成9年)10月7日午後に刑務所内の工場で首吊り自殺(55歳没)したが、その事実が報道されたのは自殺から半年後の1998年4月だった[12][5][9]。遺書は残されておらず事前に自殺を示唆するような言動は見られなかったが[5]、受刑者の弁護人を務めていた弁護士・安田好弘は「受刑者は『自分の子供と同い年の子供を殺してしまった。生きていてはいけない人間だ』と自責の念を持っており、思い詰めた末に計画的な死を選んだのだろう」と推測した[13]

事件現場となった新宿駅西口バスターミナル20番線は現在も、京王バス東の(宿41)中野車庫行き、(宿45)中野駅行きが使用している。

犠牲者編集

年齢・性別 死亡日
8歳男児 1980年8月19日
21歳女性 1980年8月19日
26歳女性 1980年8月23日
29歳男性 1980年10月16日
36歳女性 1980年10月16日
40歳男性 1980年8月19日

手記編集

この事件の被害者の一人、杉原美津子は事件後『生きてみたい、もう一度』という手記を出版した。これはベストセラーとなり、1985年に『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』のタイトルで映画[14]された。杉原は事件時、異性関係の悩みから自殺願望を抱いており、放火された際に逃げるのを躊躇したため全身80%火傷の重傷を負ったがその後回復し、事件から約1年後に退院すると自らの希望で東京拘置所へ留置されている被告人に接見を試みた[9]。この時は被告人が面会室に現れなかったため面会は叶わなかったが[9]、1981年7月末に退院すると同年12月には獄中の加害者宛に「どうかもう一度生きてみてください。やり直しはできます」という手紙を送った[15]。無期懲役確定後に杉原は受刑者の弁護人を務めていた弁護士・安田好弘と共に千葉刑務所を訪ね[13]、1991年(平成3年)4月には受刑者と特別に面会を認められ、翌月(1991年5月)には「努力して早く出所できるように頑張ります」という手紙を受け取ったが、結果的にこれが加害者からの最後の手紙となった[9]

当時、被害者は被告人と接見することはできなかったが、この時は例外的に認められた[16][4]。杉原は「もし受刑者が仮釈放されたら自分が身元引受人になろう」と考えていたが、これは実現しなかった[13]

また、杉原の兄・石井義治は報道写真カメラマンであった。彼はバスが放火された時に、偶然そばを通りがかっており、本能的に燃え上がるバスを撮影し、その写真は翌日の読売新聞の一面にスクープとして大々的に掲載された(ちなみに映画本編では、義治が撮影した事件直後の写真が提供されている)[4]。だが、実妹がその事件で重傷を負う中、妹に救護の手を差し伸べていなかったことを知った彼は、そのショックで報道カメラマンを引退。その後、ペンネームをイシイヨシハルと改め、風景写真の分野へと転向した[17]

映画編集

生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件
監督 恩地日出夫
脚本 渡辺寿
中岡京平
恩地日出夫
原作 杉原美津子
製作 植村伴次郎
出演者 桃井かおり
石橋蓮司
初井言榮
柄本明
音楽 毛利蔵人
撮影 上田正治
岸本正広
編集 阿良木佳弘
製作会社 ヴァンフィル
配給 東映クラシックフィルム
公開   1985年3月2日
上映時間 126分
製作国   日本
言語 日本語
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あらすじ編集

1980年8月19日、新宿駅のバス乗り場に停車中のバスの中で、石井美津子は他の乗客とともに発車時刻を待っていた。その時バスに近づいてきた一人の男によってバスが放火され、瞬く間に炎に包まれた。乗客たちはパニック状態となり、美津子は炎を前に逃げ遅れて大やけどを負う。病院に担ぎ込まれた美津子は、連絡を受けた家族や仕事仲間の杉原が見守る中、緊急手当が行われる。

美津子のやけどは全身の80%に及び四肢の運動障害も生じたため中島医師の治療を受けることに。また燃えた髪の毛を丸刈りにして母・なお子に付き添われ、長い入院生活を送ることとなる。12月美津子は辛い治療に耐え複数回に渡る皮膚移植が完了し、かろうじて一人で歩けるようになる。美津子は久しぶりに喫茶店で杉原と会い、事件当日逃げ遅れた理由を語る。実はあの時杉原に頼まれた金策のことや杉原との不倫関係に心身ともに疲れ、「死ねば楽になるかも」と思ったと告白。

事件以後世間では、逮捕された容疑者・丸山の動向や入院先で亡くなった他の乗客のことがニュースで報じられる。その後美津子は肝機能の悪化を経て春頃にようやく状態が安定するが、体には痛々しいやけど痕が残る。そんな中、美津子は杉原の妻が末期がんにより亡くなったことを知る。夏になり退院した美津子だったが運動障害などの後遺症により一人で生活ができず実家に身を寄せる。数日後石井家を訪れた記者・斉藤から丸山について質問された美津子は、「丸山を恨んでいない。恨む体力もない」と率直に答える。

ある日杉原が石井家を訪れ、両親に美津子との結婚を許してもらい、二人で夫婦生活を始める。暮らしの中で美津子はふと、生きることは誰かの犠牲の上で成り立つと考え、そこから丸山と自身に重なる部分があるのではと考える。また世間は丸山を『凶悪犯』の一言で済ませるが、美津子は一変した人生や傷を負った体のことを思うと簡単に片付けられない。後日美津子は、刑務所の丸山に思いの丈を綴った手紙を出し気持ちの整理をつける。

1981年の年の瀬が迫る朝、美津子は杉原から突然「死のうか」と言われ、会社の借金の返済期限が過ぎたことを知る。半信半疑の美津子だったが愛する夫と死に場所を求めて旅に出て、福井県の温泉宿に泊まる。美津子は杉原に心中を思いとどまらせようと「二人で生きていきたい」と素直な気持ちを伝える。

キャスト編集

石井美津子
演 - 桃井かおり
バス放火事件に巻き込まれた女性。大やけどを負い入院して辛い治療や皮膚移植を受け、その後も四肢の運動障害・肝機能が弱まるなど後遺症に悩まされる。退院後も人前に出る時は、1年中長袖・長ズボンで肌のヤケド痕を隠している。愛する杉原と話す時は普段とは違い、サバサバした男っぽい喋り方をする。
杉原荘六
演 - 石橋蓮司
個人経営で編集プロダクションという仕事をしている。妻がいるが、仕事仲間の美津子とは不倫関係。バス放火事件当日、自身が美津子に金策を頼んだことで結果的に事件に巻き込まれたため責任を感じている。やや自己中心的な性格。
丸山博文
演 - 柄本明
バス放火事件の容疑者。事件について容疑を全面的に否認する。仕事は建設関係で真面目に働いていた。様々な理由により子供の頃から家庭事情に恵まれない人生を送る。

美津子の家族編集

石井なお子
演 - 初井言榮
美津子の母。辛い入院生活を送る美津子を献身的に支える。美津子を『みっちゃん』と呼ぶ。美津子を心配するあまり時々感情的な言動をすることがある。美津子に限らず基本的に人の世話を焼きたがる性格。放火事件の容疑を否認する丸山を激しく憎む。
石井義治
演 - 岸部一徳
美津子の兄。プロカメラマン。美津子が乗っていたとは知らず偶然バスが炎に包まれた直後の写真を撮る。一時帰宅をした美津子に不躾な言葉をかける父を諌める。
石井敏子
演 - 高沢順子
美津子の妹。実家から離れて暮らしていて、恋人か夫がいる。当初美津子が運び込まれた病院の対応に不信感を抱き、知人の紹介で美津子を葛南病院に転院させる。
美津子の父
定年を迎えて夫婦で年金生活を送る。美津子の将来を案じて不憫に感じている。後に杉原から美津子との結婚を前提とした交際の承諾を求められ、籍を入れないことを条件に交際を認める。

美津子と関わる他の人たち編集

斉藤宏保
演 - 原田大二郎
テレビ局社会部の報道記者。バス放火事件の被害者である美津子に事件や容疑者について思っていること、退院後の様子などを取材に訪れる。当初美津子からマスコミということで良い印象は持たれていなかったが、徐々に信頼されるようになる。
中島研郎医師
演 - 佐藤慶
葛南病院の医師で美津子の担当。辛い治療時は、美津子に他愛のない雑談をして気を紛らわせる。将来を不安視する美津子を励ますが、言葉が率直すぎてデリケートさに欠ける。
看護師
演 - 立石凉子
葛南病院の看護師で美津子の担当。電話を上手くかけられない美津子の代わりに電話をかけるなど入院生活をサポートする。
その他
演 - 小栗一也三谷昇勝部演之平野稔石田弦太郎、岡本真美、荒木せつ子、伊藤公子、矢野いづみ、草野裕、島田順司佐古雅誉山口嘉三、田中洋介、大林丈史野村昇史、増田再起、中平良夫、宗田親彦、花田光夫、咲田美也

スタッフ編集

備考編集

関連項目編集

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g h i 読売新聞』2002年3月20日東京朝刊第二社会面38面「[裁く]第6部・心の闇事件(4) 新宿バス放火、2医師に鑑定委嘱(連載)」
  2. ^ a b “<あのころ>新宿バス放火事件 6人死亡、重軽傷14人”. 共同通信社. 47NEWS. (2009年8月19日). http://www.47news.jp/news/photonews/2009/08/post_20090819081201.php 2015年4月13日閲覧。 
  3. ^ a b 『朝日新聞』1985年2月14日東京夕刊第二社会面14面「新宿バス放火控訴審、××(加害者の実名)が土下座し『ごめんなさい』」
  4. ^ a b c d 『昭和55年 写真生活』p16-17(2017年、ダイアプレス)
  5. ^ a b c 『朝日新聞』1998年4月16日東京朝刊第一社会面39面「刑務所で昨秋自殺 新宿バス放火事件の××服役囚」
  6. ^ a b 『朝日新聞』1991年11月20日東京朝刊第二社会面30面「罪に…新宿バス放火事件・被害者と服役囚:2(それから)」(記者:本田雅和)
  7. ^ 雑踏の中の通行人からそのように言われたとされるだけで、誰が言ったか、あるいは実際にそう言葉を発した人物がいたかは定かではない。
  8. ^ 直接供えたのではなく、王から球団関係者を通じて送られた。
  9. ^ a b c d e f g h 『読売新聞』2002年3月21日東京朝刊第二社会面38面「[裁く]第6部・心の闇事件(5) 『無期懲役』確定から11年」
  10. ^ 朝日新聞』1984年12月31日東京朝刊新年特設面11面「84年・主なできごと(社会)」
  11. ^ a b 『朝日新聞』1986年8月27日東京朝刊第二社会面22面「新宿バス放火事件、2審も無期懲役 東京高裁、心神耗弱を認める」
  12. ^ a b 『読売新聞』1998年4月16日東京朝刊第一社会面31面「新宿バス放火事件 ××(加害者の実名)受刑者が自殺/千葉刑務所」
  13. ^ a b c 『朝日新聞』1998年4月16日東京夕刊第一社会面15面「『生きてこそ』事件の被害者ら衝撃 新宿バス放火・××服役囚自殺」
  14. ^ 監督恩地日出夫、主演:桃井かおり・犯人役:柄本明
  15. ^ 『朝日新聞』1991年11月22日東京朝刊第二社会面30面「もう一度 新宿バス放火事件・被害者と服役囚:3(それから)」(記者:本田雅和)
  16. ^ なお、2008年時点では場合により更生プログラムとして面会できる場合がある。
  17. ^ 2009年3月1日放送のフジテレビ開局50周年記念特別番組 ひもとく「日本の50年」に石井本人が出演

外部リンク編集