新浪博士

日本の心臓血管外科医、医学博士

新浪 博士(にいなみ ひろし、1962年〈昭和37年〉 - )は、心臓血管外科医、医学博士である。東京女子医科大学病院副院長兼心臓血管外科主任教授。一般社団法人メディカル・ニューウェイブ理事。本名は、新浪 博(にいなみ ひろし)[1]。兄は、サントリーホールディングス株式会社代表取締役社長の新浪剛史

来歴 編集

生誕から中学時代 編集

1962年、神奈川県横浜市で生まれる[2]。小学生の時は、内向的な性格でプラモデル製作が趣味だった[3]。手先が器用だったため、将来は歯科医になるように親に言われ、その気になった[4]。小学3年生になると、礼儀を覚えさせるため、親から強制されて剣道を習い始める。外交的でスポーツマンの兄、剛史とは正反対でスポーツも得意ではなかったが、中学生の時は、アチーブメントテストで兄より成績上位であった[3]。中学では、歯科医よりも医者の方がいいと思い直した[4]

高校時代 編集

3歳離れた兄と入れ替わりで神奈川県立横浜翠嵐高等学校に入学。教師から神奈川県のバスケットボール優秀選手に選ばれた兄と比較され、身体能力の違いに驚かれる。翠嵐高は進学校であるが自由な校風で、長髪やパーマ、細身のパンツなどグラムロックの影響を受けたファッションを好む真面目ではないグループに属していた[3]白い巨塔 (1978年のテレビドラマ)を見て財前五郎に憧れ、本格的に外科医や大学教授を志した[4]

浪人から大学時代 編集

公立大学の受験に失敗し、私立に通えるほどの経済的余裕がなかったため1年間浪人生活を送った後、1981年、群馬大学医学部に入学[5]。大学2年生までは、数学、物理、ドイツ語などの教養科目履修と、剣道部の部活動などを行った。3年生からは解剖学を履修。解剖学の石川律と親交を持つ。4年生の夏にスタンフォード大学に留学する兄に同行し、石川から紹介された解剖学の研究者の下で知識を広げた[6]。剣道は、卒業まで続けて三段に昇段した[3]

大学院から留学時代 編集

1987年、大学卒業後、東京女子医科大学大学院に進学。同年、同大学附属日本心臓血圧研究所外科に入局。1991年、大学院で博士課程修了[5]。同大学心研循環器外科の助手となる[7]。基礎医学の習得に限界を感じ始め心臓血管外科か脳神経外科への専攻を強めた頃、タイム (雑誌)補助人工心臓の記事に興味を持ちウェイン州立大学に留学。帰国後、研究を評価されるも臨床にレッテルを貼られたため、臨床機会を求めてメルボルンのアルフレッド病院に留学して心臓移植の経験を積み、続いてシドニーのロイヤルノースショア病院に留学して外科医ドン・ロスのメンターを受けながら冠動脈大動脈バイパス移植術の経験を積んだ。シドニーでは「ミニマムナンバー200」という最低でも1人の医師が年間200件以上の手術を行わないと技量が保てないとする考え方に共感し、後に『300件位やっていれば世界の水準に達する』という信念の礎とした[6]

東京女子医科大学附属第二病院から埼玉医科大学国際医療センター時代 編集

1998年、帰国後[5]東京女子医科大学附属第二病院心臓血管外科助教授に昇進[7]。2000年頃に人工心肺装置を使用しないオフポンプ冠動脈バイパス手術を始めた天野篤から色々な手術を経験するように勧められ、2004年、天野の居る順天堂大学医学部心臓血管外科に移籍。付加価値を身につけることの重要さに気づかされ、3年間勤務した後、2007年、埼玉医科大学病院心臓血管外科教授に昇進した。病院設備移転のため、ほどなくして埼玉医科大学国際医療センター・心臓病センター心臓血管外科に移動。埼玉では、患者の家に挨拶に回って認知度を上げつつ、丁寧な手術で評判を上げる地道な努力によって、2015年には心臓手術件数848件で日本一多い病院になった[8][5][7]。2016年から、メディカル・ニューウェイブの活動でミャンマータイラオスに年数回おもむき、医療技術指導や臨床を行う[9]

東京女子医科大学病院時代 編集

2017年、東京女子医科大学に戻り[10]、後に東京女子医科大学病院副院長となる[7]。2022年、新浪を含めた7名の医師が、連名で急激な働き方改革に対する質問書を同大学の理事長などに送った[11]

テレビ出演 編集

作品 編集

著書 編集

  • 数こそ質なり 「人の10倍の手術数」の心臓外科医が実践するプロの極意 (2014年3月 KADOKAWA ISBN 978-4041107386)

監修 編集

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ 有名医執刀せず、患者死亡”. 佐賀新聞 (2017年5月16日). 2022年11月11日閲覧。
  2. ^ 「第二波の鍵は開業医にあり」―女子医大新浪教授に聞く”. CaNoW. エムスリー (2020年8月17日). 2022年11月11日閲覧。
  3. ^ a b c d 猪瀬聖 (2017年12月4日). “兄はプロ経営者、弟は外科医 新浪兄弟が学んだ翠嵐高 新浪博士・東京女子医科大学教授が語る(上)”. NIKKEIリスキニング. 日本経済新聞社. 2022年11月11日閲覧。
  4. ^ a b c 猪瀬聖 (2017年12月11日). “「会社員は無理」 翠嵐担任の一言で医師志望固める 新浪博士・東京女子医科大学教授が語る(下)”. NIKKEIリスキニング. 日本経済新聞社. 2022年11月11日閲覧。
  5. ^ a b c d 教員情報 新浪博”. 東京女子医科大学. 2022年11月13日閲覧。
  6. ^ a b 「あいつは臨床ダメ」を覆した仕事術(前編)―医師による、医師のための健康ライフハック Vol.3”. キャリアデザインラボ. エムスリー (2019年3月10日). 2022年11月11日閲覧。
  7. ^ a b c d 心臓血管外科 医療相談 新浪 博士”. 会って話せる医療相談セカンドオピニオン. メディカルスキャニング. 2022年11月11日閲覧。
  8. ^ 付加価値を身に着けた心臓血管外科医(中編)―医師による、医師のための健康ライフハック Vol.3”. キャリアデザインラボ. エムスリー (2019年3月10日). 2022年11月11日閲覧。
  9. ^ 2017年7月期事業報告”. メディカル・ニューウェイブ (2017年7月1日). 2022年11月10日閲覧。
  10. ^ 大動脈疾患治療で国内トップクラスの実績”. 東京女子医科大学 (2020年7月6日). 2022年11月11日閲覧。
  11. ^ 岩澤倫彦 (2022年9月24日). “《決起した7人の医師》(以下略)”. 文春オンライン. 文藝春秋. 2022年11月11日閲覧。

外部リンク 編集