新演伎座
新演伎座(しんえんぎざ)は、1942年(昭和17年)、俳優の長谷川一夫が山田五十鈴らと設立した日本の劇団であり、第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)、長谷川が映画会社として改組した日本の劇団である。戦後の名称は株式会社新演伎座である。「新演技座」は誤り。
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 解散消滅 |
設立 |
創立 1942年 設立 1948年2月 |
業種 | サービス業 |
事業内容 |
演劇の公演 映画の製作 |
代表者 | 長谷川一夫 |
資本金 | 3,000,000円 - 1948年 |
関係する人物 |
山田五十鈴 清川峰輔 専務取締役 田口功夫 |
特記事項:1952年 解散 |
略歴・概要
編集1942年(昭和17年)、東宝映画所属の俳優であった長谷川一夫が、山田五十鈴らと実演の演劇を行うために設立、同年3月1日 - 3月25日、東京宝塚劇場で、第一回公演を打った[1]。演目は、菊田一夫作・演出の『ハワイの晩鐘』、六世藤間勘十郎作・演出の『鷺娘』、川口松太郎作、金子洋文演出の『お嶋千太郎』であった。
戦局が深まった1944年(昭和19年)、最終公演を行う[1]。
戦後、1946年(昭和21年)に活動を再開[1]、同年9月9日 - 10月2日、東京・有楽座で、菊池寛作、衣笠貞之助演出の『藤十郎の恋』を公演する。同年11月、長谷川と山田は、第二次東宝争議の最中に「十人の旗の会」を結成して日映演東宝支部を脱退した。長谷川と山田は、1947年(昭和22年)3月25日、新東宝の前身、新東宝映画製作所の設立に参加、同社の設立第1作で市川崑監督の『東宝千一夜』にそろって出演した[2]。同年11月10日、後援会の会報『新演伎座』第1巻第1号を発行する[3]。同会報には、田口功夫やのちのマルベル堂社長の三ツ沢正治が携わった[4]。同年末から1948年(昭和23年)初にかけて、中国地方、四国地方、九州地方を巡業した。
長谷川は同年いっぱいまで新東宝映画製作所に所属したが、1948年(昭和23年)2月、自ら代表となって新演伎座を株式会社化し、「株式会社新演伎座」となる[5]。資本金は300万円、清川峰輔が専務取締役に就任した[5]。同年、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)のCAC(映画芸術協同)と共同で、両社の設立第1作『幽霊暁に死す』を製作、東宝の配給で同年10月12日に公開された[6]。同年、演技研究所を発足、若尾文子やのちの紙芝居師・梅田佳声が入所している。
1949年(昭和24年)2月7日 - 3月6日、有楽座で巌谷真一・衣笠貞之助作、衣笠演出の『鬼あざみ (春秋常夜燈)』を上演した。配給提携は東宝に限らず、松竹、大映とも行った。
1952年(昭和27年)、経営が思わしくなく、同社を解散した[1]。長谷川は大映京都撮影所に入社、山田はフリーランスとなった。
フィルモグラフィ
編集- 『小判鮫 第二部 愛憎篇』 : 監督衣笠貞之助、1949年 - 配給東宝
- 『恋狼火』 : 監督洲多競、1949年 - 配給東宝
- 『銭形平次捕物控 平次八百八町』 : 監督佐伯清、1949年 - 共同製作新東宝、配給東宝
- 『足を洗った男』 : 監督冬島泰三、1949年 - 配給松竹
- 『甲賀屋敷』 : 監督衣笠貞之助、1949年 - 配給大映
- 『傷だらけの男』 : 監督マキノ正博、1950年 - 共同製作東日興業、配給東宝
- 『お富と与三郎』前篇・後篇 : 監督冬島泰三、1950年 - 配給松竹
- 『城ヶ島の雨』 : 監督田中重雄、1950年 - 配給大映
- 『千両肌』 : 監督冬島泰三、1950年 - 配給大映
- 『火の鳥』 : 監督田中重雄、1950年 - 配給大映
- 『鬼あざみ』 : 監督冬島泰三、1950年 - 配給大映
- 『修羅城秘聞 双竜の巻』 : 監督衣笠貞之助、1952年 - 共同製作大映京都撮影所、配給大映
- 『続修羅城秘聞 飛竜の巻』 : 監督衣笠貞之助、1952年 - 共同製作大映京都撮影所、配給大映