方広寺

京都の天台宗の寺

方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗寺院山号はなし。本尊盧舎那仏。通称は「大仏」または「大仏殿」。安置されていた大仏については「京の大仏」の記事も参照のこと。

方広寺
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方広寺本堂(妙法院の脇寺であった日厳院の客殿を、明治初頭に移築したものである[1])
所在地 京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2
位置 北緯34度59分31.58秒 東経135度46分19.43秒 / 北緯34.9921056度 東経135.7720639度 / 34.9921056; 135.7720639座標: 北緯34度59分31.58秒 東経135度46分19.43秒 / 北緯34.9921056度 東経135.7720639度 / 34.9921056; 135.7720639
山号 なし
宗派 天台宗
本尊 盧舎那仏
創建年 文禄4年(1595年
開山 古渓宗陳
開基 豊臣秀吉
別称 大仏殿
文化財 梵鐘(重要文化財
大仏殿跡及び石塁・石塔(国の史跡
法人番号 2130005001912 ウィキデータを編集
方広寺の位置(京都市内)
方広寺
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絵図に描かれた往時の方広寺大仏殿 右隣に見えるのが三十三間堂(「花洛一覧図」京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ 一部改変)
国家安康の梵鐘(重要文化財)とその銘文
鐘楼の天井画

概要編集

豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として、古渓宗陳を開山として木食応其によって創建された。豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。そのため江戸時代には(3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは)日本三大大仏の一つに数えられた[2]。なお3代目大仏の焼失後に、規模が縮小されつつも再建された、江戸時代後期に造立の4代目大仏は、昭和48年(1973年)まで存続していたが、失火により焼失し、方広寺から大仏は姿を消した。なお「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れない[3]。方広寺命名の経緯・時期は不明だが、経典(大方広経)もしくは方広会から採ったといわれ[4]、またそれらにかこつけて豊臣秀吉の尊称「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。

歴史編集

豊臣秀吉天正14年(1586年)に、松永久秀焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願[5]。当初は東山東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止され遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立)された。のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した[6]。秀吉は大規模工事に巧みであった高野山木食応其を造営の任にあたらせた[7][8]。大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五条大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。

小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。秀吉によって造立された初代大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという(愚子見記)。また、刀狩で没収した武器を再利用して釘にしたものも使われた。なお、造営期間短縮のため(既に50代になっていた秀吉が、自身の生前に落慶を間に合わせるためか)、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造乾漆造り(木造で躯体を作り,漆喰で固めた上,さらに漆を塗って金箔を貼る)で造られた(『太閤記』)[8]。また初代大仏殿は南北45間(約88m)、東西27間(約55m)の規模であろうと考えられている。これは大仏殿跡の発掘調査の結果、後述の秀頼再建の2代目大仏殿は創建時の礎石をそのまま使用しているとみられ柱位置は同じと思われること、「愚子見記」に再建大仏殿の規模について、上記寸法が記載されていることによる。初代大仏殿は資料が少なく建物構造などの全貌の把握が困難であるが(2代目大仏殿は指図(設計図)が残るほか、建物外観が名所図会などに描かれ資料が多い。ただし大仏自体を正確に記録した絵図はほぼない)、大林組が広報誌「季刊大林」にて、各種文献史料・考古学的知見・建築学的知見から復原案を提示している(「秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元」)。

同年9月25日には秀吉自身の亡父母や先祖の菩提を弔うため寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行った[9]天台宗真言宗律宗禅宗浄土宗日蓮宗時宗浄土真宗一向宗)の僧が出仕を要請された(日蓮宗不受不施派は出仕を拒否した[10])。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院に残る。当時の敷地は広大なもので、妙法院はもとより、現在の豊国神社京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重要文化財)や南大門(重要文化財・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。なお、東寺の南大門(重要文化財)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。なお初代大仏殿は資料が少なく建物構造などの全貌の把握が困難であるが(2代目大仏殿は指図(設計図)が残るほか、建物外観が名所図会などに描かれ資料が多い。ただし大仏自体を正確に記録した絵図はほぼない)、大林組が広報誌「季刊大林」にて、各種文献史料・考古学的知見・建築学的知見から復原案を提示している(「秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元」)。

文禄5年7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の初代大仏は倒壊した[11][9]。義演准后日記によると胸が崩れ、左手が落ちたという[11][12]。ただし大仏の光背は無傷で残ったという[13]。工期短縮のために銅製ではなく、木造としたことが裏目に出た。秀吉は憤り、義演准后日記には「本尊御覧、早々崩しかえしのよし仰す (秀吉公が(損壊した)大仏を御覧になり、早く取り壊せと命じた)[14]」と、宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた[15]」と記録されている。また一説には、秀吉は怒りのあまり、大仏の眉間に矢を放ったと伝わる。なお初代大仏殿は地震による損壊を免れた[13][9]。秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、由緒ある信濃善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)(善光寺如来は大名の意向で各地を流転し、当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎え、開眼法要を行うことを計画[12]。木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された(義演准后日記)。善光寺如来は、大仏を取り壊した台座の上に宝塔(厨子のようなものか?)が造られ、そこに安置されたという[16]。無傷であった光背もそのまま残されていたという[16]。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった[17]。ただ巨大な大仏殿に小ぶりな善光寺如来は不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという[12]。秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国善光寺へ戻されることとなった[12]。しかし秀吉は8月18日に死去した。秀吉の死は外部に伏せられ、8月22日には本尊の無い大仏殿で、大仏殿の完成を祝う大仏堂供養が行われた[18]

秀吉の子豊臣秀頼が遺志を継ぐ形で、豊臣家家臣の片桐且元を担当者として今度は耐震性のある銅製で大仏の再建を行ったが、慶長7年(1602年)11月、鋳物師(いも-じ)の過失により大仏の膝上部の鋳造を行っている際に出火し、大仏殿に引火して大火となる[19]。これにより初代大仏のみならず初代大仏殿も滅失した。義演准后日記には「日本六十余州の山木、ただ三時のあいだに相果ておわんぬ。太閤数年の御労功ほどなく滅しおわんぬ。(柱材は日本各地から取り寄せたが、わずか6時間で焼失した。秀吉公の数年の苦労も水の泡となった)」と記録される。

慶長13年(1608年)より片桐且元を奉行として再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には2代目大仏殿と2代目大仏が完成した。続いて大仏は金箔を押す作業に入る。慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる[20]。上記の梵鐘の銘文(東福寺南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康および徳川家を冒瀆するものとみなされ、最終的には大坂の陣による豊臣家の滅亡を招いてしまったとされる(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」とする指摘もある[21]。また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。

大坂の陣の後も方広寺は残されたが、方広寺境内に組み込まれていた三十三間堂共々、妙法院の管理下に置かれた。妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)からで、これは大坂の陣豊臣氏江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である。元和元年(1615年)8月18日には、豊国大明神の神号を剥奪された秀吉の霊が、「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられて、廃された豊国社本殿から大仏殿後方南に建立された五輪塔に移された。この石造五輪塔は現在の豊国神社境内宝物殿裏に馬塚として遺る。当時の史料ではこれを「墳墓」としている(『妙法院文書』)。なお「国家安康」の鐘について、江戸期は懲罰的措置として、鐘楼を撤去の上、地面に置かれ鳴らないようにされていたとの俗説があるが、それは誤りである。方広寺大仏殿は四方を塀に囲まれていたが、鐘楼は南側の塀外(現在の京都国立博物館 の噴水の近辺)にあった。このことは都名所図会や、花洛一覧図などの江戸時代の方広寺境内を描いた絵図からも確認できる。「国家安康」の鐘が地面に置かれていたのは、明治時代の前半期のみで、これは明治新政府の廃仏毀釈の政策(恭明宮造立の為とも)により方広寺寺領の大半が没収され、没収地にあった鐘楼が取り壊され、残った方広寺寺領に鐘が移設された為である。その後しばらくは地面に置かれ、雨ざらしとなっていたが、明治17年(1884年)に鐘楼が再建され、今日に至っている。

時は下って寛文2年(1662年)に地震(寛文近江・若狭地震)が方広寺を襲う。地震で2代目大仏は大破し、寛文7年(1667年)に木造で再興される(3代目大仏)[22]。2代目大仏は取り壊されたが、大仏躯体の銅材は、大仏再建費用捻出のため江戸幕府に売却され、寛永通宝(文銭)の鋳造に用いられたという風説が流布した。(新寛永(文銭)項目も参照)。大仏躯体の銅材は現存していないので、何らかの形で再利用されたとも思われるが、真相は不明である。ただ風説のように貨幣鋳造の原料に再利用されたとしても、寛文期の鋳銭の材料すべてを賄う量ではなかった[23]。真偽は別として、この風説は人々に広く知られており、文銭は大仏の化身であるとしてお守りとしても使用されたほか、文銭を鋳潰して、仏像・仏具にすることも行われたという[23]

戦国時代に兵火で損壊していた東大寺大仏も江戸時代中頃に再建が行われた。貞享元年(1685年)、公慶江戸幕府から勧進(資金集め)の許可を得て、東大寺大仏再興に尽力し、元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養が行われ、宝永6年(1709年)東大寺大仏殿が落慶した。宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に大仏と大仏殿が双立していた。なお京都の東福寺にも明治初頭まで大仏が安置されており、巨大な「仏手」が現在も残存している(現存部分の長さ2メートル)。これは明治の火災の際に大仏の左手部分のみが救い出され、保存されたものである。

寛文7年(1667年)に再興の方広寺3代目大仏は従前の大仏よりも長命であったが、寛政10年(1798年)に大仏殿に落雷があり、それによる火災で全焼した[24]

文化元年(1804年)に現在の方広寺本尊である3代目大仏の1/10サイズの模像とされる盧舎那仏坐像が造られる(座高約2m)[25]。方広寺を管理していた妙法院により大仏・大仏殿の再建が企図され、宝物の開帳を行い資金集めを行うなどするものの、往時と同様の規模のものが再建されることはなかった。こうした事態を憂い、天保年間(1830年 - 1844年)に尾張国(現・愛知県)の商人を中心とする有志が上半身のみの木造の仮大仏像(4代目大仏)を寄進した[26]。時同じくして、4代目大仏を安置する仮大仏殿(3代目大仏殿)も造立された[27]。上述の天保造立の大仏・大仏殿は、将来大仏・大仏殿を再建するまでの仮のものという扱いである[27]。造立された場所も従前のものとは異なり、現在の方広寺大黒天堂の東側の駐車場になっている場所に造立されていた。なお4代目大仏は仮のものとはいえ高さが約14mあり、東大寺大仏に比肩する高さを有していた [28]

明治時代になると、新政府の廃仏毀釈の政策から、1870年明治3年)方広寺境内の大部分は収公され、現在の敷地規模となった[29]。「国家安康」の梵鐘を安置する鐘楼は取り壊され(後に再建)[30]、方広寺西門は東寺へ移築された[31]。寛政10年(1798年)の大仏焼失後も、2代目大仏殿の基壇と3代目大仏の台座は、明治初頭まで残されていたようであるが[32]、それに使われていた花崗岩の石材の多くは、1873年(明治6年)に京都市の内外に築造された6基の石造アーチ橋(堀川第一橋など)の建材として転用されたと伝わる[33]。石材を剥がされたのち、土地の整地も行われたとされ[34]、これにより往時の基壇と台座は完全に消失した[35]。なお収公された方広寺旧境内には、歴代天皇や皇族の位牌等を安置する恭明宮(数年で廃絶)や[36]豊国神社の社殿が建てられた[37]

経緯は明らかでないが、明治期に方広寺は妙法院の管理下から脱し、独立したとされている。

昭和期に入り、太平洋戦争での戦災を方広寺は免れた。「国家安康」の梵鐘も金属類回収令による供出を免れた。

1973年昭和48年)の火災により、上述の天保再興の大仏・大仏殿は焼失した[注釈 1]。京都市消防局は見分の結果、その原因について「大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢の不始末。練炭火鉢の底に欠けた部分があり、そこから熱が伝わり、下に敷いてあった板が過熱してくすぶり出火。自動火災報知設備が設置されておらず,手動の設備も故障していたなど,いくつもの不運が重なって大火となった」としている(京都市消防局公式HP・朝日新聞1973/3/30の記事より)。

前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。大仏殿跡地は、2000年平成12年)から発掘調査が行われている。大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。

門前の餅屋が売っていた「大仏餅」は「大仏」の文字を型押しした餅で、大仏を訪れた人々のよい土産となった。門前、餅屋があった向かい辺りには、秀吉が築かせた耳塚がある。

境内編集

文化財編集

重要文化財編集

  • 梵鐘 - 慶長19年(1614年)京都三条釜座の名越三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである。前述の銘は撞座の左上にある。

国指定史跡編集

  • 方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔 - 石塁は方広寺旧境内を区切っていた石積みで、京都国立博物館西門から北に遺存している。石塔は豊国神社西方にある通称「耳塚」と、同神社境内東南にある通称「馬塚」(2基とも五輪塔)である。1969年昭和44年)に「方広寺石塁及び石塔」の名で国の史跡に指定。2014年平成26年)に大仏殿跡が追加指定され、指定名称を現在のものに変更した[38]

その他編集

  • 方広寺大仏殿遺物9点 - 焼失を免れた方広寺遺物として、京都市指定有形文化財の「方広寺大仏殿遺物9点」が方広寺に保存されている。上記遺物は大仏殿関連が銅製風鐸・銅製舌各1点、鉄製金輪4点で、大仏関連が銅製蓮肉片・銅製蓮弁・鉄製光背金具各1点からなる。風鐸と舌には銘文が刻まれており、「国家安康」の鐘を製作した名越三昌らによって、慶長17年(1612年)に製作されたことが分かる。他の7点についても、風鐸や舌と前後する時期の製作と考えられている[39]。上記遺物の一部は鐘楼に置かれており、それについては通年見ることが可能である。柱の金輪については京都国立博物館の庭園にも展示されている。
  • 方広寺本堂 - 方広寺本堂は、もともと日厳院の客殿であった建物を、明治に移築したものである[40]。日厳院はかつて方広寺を管理下に置いた妙法院の脇寺で、いまの京都国立博物館本館の位置にあった[41]。移築にあたり、 1/10の盧舎那仏座像(現在の方広寺本尊)が当該建物に安置(移座)されることになり、建物の改造がなされた。仏間等を打ち抜いて空間を広げ、天井高も改変し、座高約2mの盧舎那仏座像を安置できるようにした[42]。方広寺本堂建物の造立時期について、妙法院門主尭恕法親王の日記に、寛文10年(1670年)10月11日条で、日厳院の客殿指図(図面)があり、これが現在の方広寺本堂の構造と一致することから、寛文10年(1670年)には存在したことが分かる[43]。京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』では、「日厳院の建物が方広寺と関連するとすれば、秀頼による大仏殿造営の時期、すなわち慶長19年(1614年)前後という可能性も考えられる」としている[44]
  • 盧舎那仏坐像 - 現在の方広寺本尊で、3代目大仏の1/10サイズの模像とされる坐像。文化元年(1804年)の作で座高約2m[25]。往時の大仏の造形を伝える絵図は極めて少なく、貴重なものである。普段非公開だが、外からガラス戸越しに若干は見られるよう配置されている。
  • 大黒天像 - 桓武天皇の勅命により最澄(伝教大師)が延暦寺を建立するため比叡山登山中のお告げにより彫刻されたと伝えられているもの。それと併せ、その像を秀吉が気に入り1/10サイズで作らせ、手元に置いていたとする像も大黒天堂に安置されている。普段非公開。

現代に残る遺跡編集

 
大仏殿跡緑地の入り口
  • 大仏殿跡緑地公園 - 大仏殿の中心部分の遺構。2000年(平成12年)の発掘調査後に保存のために埋戻し、緑地公園化。基壇などの位置を小舗石や板石で明示。

方広寺が描かれた作品編集

 
ケンペルの3代目大仏のスケッチ(大英博物館所蔵 [45])

既述。慶長11年(1606年) 作。方広寺大仏殿が描かれているが、現存する2代目大仏殿指図(設計図)や大仏殿を描いた江戸期の他の絵図と、破風等の大仏殿の細部の形状が異なることから、(絵師のミスでなければ)初代大仏殿の造形を描いたものとされる。

2代目方広寺大仏殿が描かれている。なお大英博物館には、3代目大仏の全身を描いたケンペルのスケッチが所蔵されている。

五条大橋と市中の街並み、2代目大仏殿がそれぞれ描かれ、大仏殿の巨大さが分かる。観相窓から3代目大仏が顔を覗かせている[注釈 2]

2代目大仏殿が落雷で焼失する過程が絵図で克明に記録されている[注釈 3]

2代目大仏殿焼失後の文化5年(1808年)の出版であるが、2代目大仏殿があえて描かれている[注釈 4]

  • 「再撰花洛名勝図会」

1862年の作で、規模を縮小して再建された3代目大仏殿(1973年焼失)が描かれている。野ざらしの大仏殿基壇と台座(1798年焼失の3代目大仏のもの)が描かれており、この頃はまだ残されていたことが分かる。 [注釈 5]


漫画、とりわけ戦国時代を扱った歴史物では、豊臣秀吉による方広寺大仏造営と地震による崩壊、徳川家康による方広寺鐘銘事件が描かれることが多い。

仏の幽霊の項で、1798年落雷による大仏の焼失後、大阪の寺町の松の茂みが、往時の大仏を彷彿とさせると、大仏を懐かしむ京都民衆の間で口こみが広がり、当地は訪問者で連日賑わったとの逸話が紹介されている。

方広寺造営と地震による大仏の損壊、怒った秀吉が損壊した大仏に矢を放つ場面、方広寺鐘銘事件等、桃山時代から江戸時代初頭までの、一連の方広寺にまつわる事柄が描かれている。

交通アクセス編集

注釈編集

  1. ^ https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000159532.html 京都市消防局:昭和48年3月27日 東山区方広寺大仏殿炎上(写真提供:京都新聞社)
  2. ^ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/412635 文化遺産オンライン 高解像度版
  3. ^ https://twitter.com/nichibunkenkoho/status/1303893942035832832 国際日本文化研究センター公式Twitter 蔵書紹介 洛東大仏殿出火図
  4. ^ https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/karaku/karaku.html 高解像度版 花洛一覧図 オンライン
  5. ^ https://kyotokoteisa.hatenablog.jp/entry/daibutu-mound 「再撰花洛名勝図会」に分かりやすいよう一部着色の上、公開されている

脚注・出典編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』1983年 p.108
  2. ^ 薬師寺君子『写真・図解 日本の仏像 この一冊ですべてがわかる』西東社 2016年 p.170
  3. ^ 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年
  4. ^ 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年
  5. ^ 河内(2008) p.19
  6. ^ 河内(2008) p.26
  7. ^ 河内(2008) p.44
  8. ^ a b 村山(2003) p.113
  9. ^ a b c 村山(2003) p.114
  10. ^ 河内(2008) p.104
  11. ^ a b 河内(2008) p.112
  12. ^ a b c d 村山(2003) p.115
  13. ^ a b 河内(2008) p.113
  14. ^ 河内(2008) p.115
  15. ^ 河内(2008) p.116
  16. ^ a b 河内(2008) p.127
  17. ^ 河内(2008) p.130-131
  18. ^ 河内(2008) p.163-165
  19. ^ 村山(2003) p.116
  20. ^ 村山(2003) p.118
  21. ^ 宮本義己「徳川家康公の再評価」『大日光』64号、1992年。
  22. ^ 村山(2003) p.148
  23. ^ a b 三上(1996) p.102
  24. ^ 村山(2003) p.157
  25. ^ a b 村山(2003) p.159
  26. ^ 村山(2003) p.162
  27. ^ a b 村山(2003) p.163
  28. ^ 『大仏殿方広寺の拝観の栞』(4代目大仏焼失前に方広寺が拝観者に配布していたパンフレット)
  29. ^ 京都市埋蔵文化財研究所 上村和直『発掘調査で見つかった恭明宮』2016年
  30. ^ 京都市埋蔵文化財研究所 上村和直『発掘調査で見つかった恭明宮』2016年
  31. ^ 京都市埋蔵文化財研究所 上村和直『発掘調査で見つかった恭明宮』2016年
  32. ^ 京都市文化市民局『京都市内遺跡発掘調査概報』2003年 p.38
  33. ^ 読売新聞京都支局/編 『京をわたる 名橋100選』 p.25 淡交社、1993年
  34. ^ 京都市文化市民局『京都市内遺跡発掘調査概報』2003年 p.38
  35. ^ 京都市文化市民局『京都市内遺跡発掘調査概報』2003年 p.38
  36. ^ 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館『明治時代の恭明宮』2018年
  37. ^ 京都市埋蔵文化財研究所 上村和直『発掘調査で見つかった恭明宮』2016年
  38. ^ 平成26年10月6日文部科学省告示第140号
  39. ^ 方広寺鐘楼内の方広寺大仏殿遺物の説明書より
  40. ^ 京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』1983年 p.108
  41. ^ 京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』1983年 p.108
  42. ^ 京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』1983年 p.108
  43. ^ 京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』1983年 p.108
  44. ^ 京都府教育委員会『京都府の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』1983年 p.108
  45. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95

参考文献編集

  • 『京都市の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1979年。 
  • 碓井小三郎 『京都坊目誌』、1915年。 
  • 菅原信海; みうらじゅん 『妙法院・三十三間堂』淡交社〈新版 古寺巡礼 京都18〉、2008年。 
  • 田中緑紅 『京の京の大仏っあん』、1957年。 
  • 三上隆三 『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年。ISBN 978-4-492-37082-7 
  • 村山修一 『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003年。 
  • 河内将芳 『秀吉の大仏造立』法藏館、2008年。 
  • 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年。

季刊大林No.57初代大仏殿の復原案を提示した「秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元」がPDFで公開されている。

関連項目編集