日吉大社
日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていた。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。境内大宮橋は日本百名橋に選定されている。
日吉大社 | |
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![]() 西本宮 本殿(国宝) | |
所在地 | 滋賀県大津市坂本5丁目1-1 |
位置 | 北緯35度4分24.4秒 東経135度51分53.9秒 / 北緯35.073444度 東経135.864972度座標: 北緯35度4分24.4秒 東経135度51分53.9秒 / 北緯35.073444度 東経135.864972度 |
主祭神 |
西本宮:大己貴神 東本宮:大山咋神 |
社格等 |
式内社(名神大) 二十二社(下八社) 旧官幣大社 別表神社 |
創建 | 崇神天皇7年 |
本殿の様式 | 日吉造 |
別名 | 山王権現 |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道第149番(滋賀第17番) |
例祭 | 4月12日 - 15日(山王祭) |
地図 |




全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。猿が神使で神猿(まさる)とする。西本宮と東本宮を中心とする400,000平方メートルの境内は国の史跡に指定されている。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている[1]。鳥居は、その上部に比叡山延暦寺を示す山形をのせる独自の形式で「山王鳥居」(合掌鳥居、総合鳥居)と呼ばれる[2]。
歴史
編集明治以前
編集文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見で、これは、日吉社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[3]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉社は、崇神天皇7年に日枝の山の山頂から現在の地に移されたという[3]。
日吉社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂にある大山咋神が降り立ったという磐座・金大巌(こがねのおおいわ)を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、比叡山の地主神である大山咋神を祀るために崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
西本宮の祭神・大己貴神については、近江大津宮(大津京)遷都の翌年である天智天皇7年(668年)、大津京鎮護のため大和国大神神社の祭神である大物主神を大己貴神として勧請し、新たに西本宮を建てて祀ったという。これは大己貴神の別名である大国主神の和魂が大物主神であると日本神話に書かれているため、両神が同じ神とみなされたためである。以降、元々の神である東本宮・大山咋神よりも、西本宮・大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
延暦7年(788年)、最澄が比叡山上に比叡山寺(後の延暦寺)一乗止観院(後の根本中堂)を建立し、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬する。そして、延暦13年(794年)の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになった。
延暦寺が勢力を増してくると、やがて日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていくようになる。日吉社は元慶4年(880年)に西本宮の大己貴神が、寿永2年(1183年)に東本宮の大山咋神がそれぞれ正一位の神階に叙せられた[3]。『延喜式神名帳』では名神大社に列格している[3]。
こうして日吉社は延暦寺と次第に一体化していき、平安時代中期には八王子山の奥に神宮寺が建てられている。また、日吉社の参道沿いには延暦寺の里坊が立ち並ぶようになっていく。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社の山王信仰も広まって全国に日吉社が勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに与えた影響は大きいとされる[3]。
天慶5年(942年)には根本多宝塔が建立される。長暦3年(1039年)8月には後の二十二社中の下八社の一つとされた。
嘉保2年(1095年)10月、延暦寺の大衆と日吉社の神人が初めて日吉社の神輿を担ぎ出して(神輿振り)、小競り合いで誤って僧を殺してしまった美濃守源義綱を流罪にさせようと要求するため、義綱の主である関白藤原師通がいる都に向け強訴を行なった。朝廷はこれを防ごうと源義綱と源頼治を出陣させて防衛にあたらせたが、その際に神輿に矢が刺さる事件が起きている。延暦寺・日吉社側は死傷者が出てついに強訴を中止して撤退した。しかし、その後延暦寺が藤原師通を呪詛し、承徳3年(1099年)6月に師通が亡くなると、延暦寺はそれを日吉社の神輿の神威であると喧伝したため、朝廷にとっては日吉社の神輿は畏怖の対象ともなっていった。これ以降、延暦寺および日吉社は度々この神輿を使っての神輿振り・強訴を繰り返し行い、平安時代から室町時代にかけての370余年の間に40数回も行われている。『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があるなど、絶大な権力を有する天皇ですら制御できない存在となっていた。
正元元年(1259年)に一部の社殿が焼失したが、室町時代には山王神道が益々盛んになり、境内に108社、境外に108社もの摂社・末社が建ち並ぶなど隆盛を誇った。しかし、明応3年(1494年)に徳政一揆によって一部を焼失する。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉社も全て焼かれて灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである[4]。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、日吉三橋などの建造物がこの時代に構築されている[3]。小瀬甫庵の『太閤記』などでは秀吉が申年の1月1日に生まれたため、日吉社の加護を得たとして幼名を「日吉丸」としたとしているが、これは創作と考えられている[5]。
延宝9年(1681年)、神仏習合や山王神道(山王一実神道)を改めようとする動きが日吉社から出て延暦寺と争いになるが、貞享元年(1684年)に日吉社は論争に敗れた。そのために翌貞享2年(1685年)に山王神道を守るように延暦寺から厳命され、日吉社は受諾している。
明治以後
編集明治政府の宗教政策は、樹下茂国、平田銕胤、矢野玄道、大国隆正・六人部是香ら復古神道系の神道家たちの影響下にあったが、この復古神道とは本居宣長の没後に門人の平田篤胤が大成した神道説で、儒教と仏教への激しい批判、習合神道(神仏習合)の否定を特徴とし、儒教・仏教が伝来する以前の神道への回帰を実現しようとするものであった[6]。彼ら平田派神道家は、政府の宗教政策を通じ、神仏分離と神道国教化を目指しており、明治政府は、自らを正当化する万世一系という近代国家の神話を全国の神社に背負わせるために、1868年(明治元年)に神仏判然令(神仏分離令、1868年)を発令した[6][7]。
これを受けて日本中で破壊的で激しい廃仏毀釈の運動が起きたが、その破壊の契機は、日吉社の社司で明治政府の神祇事務局の権判事でもあった樹下茂国率いる、吉田神社(京都市)の神官ら(祝部の生源寺希嶼、生源寺業親、樹下成言など)40名の神職で構成された「神威隊」と、彼らに付き従った坂本村の村民数十名による日吉社での破壊行為である[7][8][9]。当時の延暦寺の寺僧と日吉社の社僧の関係は良いものではなく、神仏判然令に社僧らが利権を得た形になって暴走し[注釈 1]、彼らは仏像・仏器・仏具・経典といった日吉社に飾られていた宝物を破壊し焼き払い、その数は数千点に上るといわれ、十禅師社含めた日吉社の七社すべてが彼らの暴力の被害にあった[8][10][11][注釈 2]。樹下茂国は自ら主導して作った神仏判然令を盾に破壊行為を行ったが、布告にあった神社からの仏教的なものの排除を超え、あまりに行き過ぎていたため、明治政府から権威をかさに着て私憤を晴らさないよう注意を受け、一時政府により監禁された[7][注釈 3]。この激しく暴力的な事件は、廃仏毀釈が全国に広がる発端となった[13]。
日吉社は率先して仏教色を一掃すると、延暦寺から独立して社名を日吉大社とした。彼らの破壊行為により日吉社は延暦寺の支配下から外れ、神仏判然令が出された年に、仏教色を排した近代的な山王祭が初めて行われたが、七社に奉仕していた僧身分の宮仕・下級僧侶は皆還俗して参加しており、延暦寺の僧侶の参加は許されなかった[10]。樹下茂国たちはさらに仏教の排除を進め、七社のうち、彼らが「仏教臭い」と感じたであろう十禅師、聖真子、八王子の社号を改称した[14]。
神仏判然令の翌年の1869年(明治2年)に、樹下茂国と思われる人物が『日吉社禰宜口伝抄』という史料を偽造した可能性が極めて高い[15]。これは11世紀の囗伝を生源寺行丸が16世紀に文書化したものとされ[15]、樹下茂国はこれに拠り大己貴神を除く祭神を変更した(後述)[16][17]。これらの祭神は、樹下茂国と思われる人物が明治2年初めに大津県に提出した「祭神および勧請年記云々」という文書が初出である[18]。
1871年(明治4年)、西本宮が官幣大社となる[3]。1928年(昭和3年)、東本宮も官幣大社となると、再び西本宮と東本宮の祭神を入れ替えて江戸時代までの形に戻している[3]。
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
1989年、『日吉社禰宜口伝抄』が偽造史料であることが研究で明らかになる[15]。
2006年(平成18年)6月7日、歴史的風土特別保存地区に指定された[19]。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される[20]。
日吉大社の例祭時には、現在は延暦寺の僧も参加している。
山王信仰
編集かつては境内108社・境外108社といわれていた。主な21社は山王二十一社と総称され、日吉大神と呼ばれる。
表の「祭神(諸説など)」は、神仏分離令前に祭られていた、主な祭神説をはじめとする様々な祭神説である(全ての説を挙げているわけではない)[22]。かつては山王神道(山王信仰)が盛んであった。山王神道は天台宗の教理を根本とし、山王神道の教理は天台宗の教理と同じと言ってよく、『法華経』、釈迦信仰が中心となっている[23]。天台宗の教理と同じく、釈迦如来(大比叡明神)を真ん中に、両脇に薬師如来(二宮)と阿弥陀如来(聖真子)が配されている[23]。山王信仰・天台宗では大比叡(大宮、現西本宮)、小比叡(二宮、現東本宮)、聖真子(現宇佐宮)の三神を「山王三聖」として、日吉山を代表する神として尊崇する[24]。また、山王権現と十禅師権現(童子形の神)を重視する考えもあった[注釈 4]。
社名 | 祭神(諸説など) | 本地 |
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大宮[28]、大比叡(比叡山のこと[24]) | 大比叡大明神・大宮権現(崇神天皇の王朝のあった大和の三輪山(大己貴神〔大国主神〕の神体山)の三輪明神を勧請)[28][29]。鳴鏑明神・天照大神[28] | 釈迦如来[28] |
二宮[28]、小比叡(牛尾山のこと[24]) | 小比叡大明神(国常立神[28][16]、大山咋神〔地主権現だったが、王朝の守り神である三輪明神が勧請されたことで地主権現の地位を奪われ、大宮の下に置かれた[29]〕[24])、山王権現。山末之大主神(古事記) | 薬師如来[28] |
聖真子[28](しょうしんじ) | 聖真子権現。天忍穂耳尊。宇佐八幡(宇佐八幡大菩薩)と同神とも[28][24] | 阿弥陀如来[28] |
八王子[28](やおうじ) | 八王子権現。天照大神奇魂・天照大神の五男三女神(八王子)・国狭槌尊 | 千手観音[28] |
客人[28](まろうど) | 客人大明神。伊弉冊尊[28] | 十一面観音[28] |
十禅師(じゅうぜんじ) | 十禅師権現。瓊瓊杵尊、天児屋根神、荒人神[28](山王神と言葉を交わすことができた霊能ある僧が死後荒人神となったもの[30]) | 地蔵菩薩、弥勒菩薩など[28] |
三宮[28](みぐう) | 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊[31]、白鬚明神を勧請とも[28] | 普賢菩薩、大日如来など[28] |
明治以降
編集祭神の交代と『日吉社禰宜口伝抄』の信憑性
編集歴史学者のジョン・ブリーンは、現在の山王七社の祭神は樹下茂国が考案したものと指摘しており、明治2年始めに大津県に提出した「祭神および勧請年記云々」という文書が初出である[18]。織田信長の延暦寺焼き討ちを逃げ延び、日吉社再興の立役者となった生源寺行丸は、七社の再興の基本資料として、七社および膨大な末社、摂社の由来、その配置、祭神の解説を熱心に行ったが、その中で二宮の祭神を小比叡大明神と呼び、三輪山の神が勧請される前から近くの波母山に影向して奉られており、この小比叡大明神とは天地開闢後の最初の神である国常立尊であるとみなしていた[16]。
樹下茂国は、二宮の祭神を大山咋の和魂、牛尾宮の祭神を大山咋の荒魂としており、大山咋が影向されてきたという生源寺行丸の論だけでなく、本居宣長の荒魂・和魂論と大山咋と玉依姫が夫婦であるという主張の影響があると考えられる[18]。八王子、三宮、二宮、十禅師の四社の相互関係については、本居宣長は全く言及していない[18]。また樹下茂国は『古事記』と本居宣長の『古事記伝』を根拠に大山咋を祭神としたが、宗像神社の祭神である田心姫神、白山神社の祭神である白山姫(菊理姫神)はどちらも『古事記』『古事記伝』に登場しない[32][17]。ジョン・ブリーンは八王子、三宮、二宮、十禅師の四社の相互関係を樹下茂国のイマジネーションの産物とみており、「いずれにしても現在日吉大社で祭っているのが(樹下茂国が考案した)この神々で、そしてこの神々が明治維新とともに『創出された』と断言できそうである。」と述べている[18][17]。
ブーリンは、「祭神および勧請年記云々」は樹下茂国の捏造に見えるが、彼が日吉社の元来の姿と元来の祭神に戻そうと、その正体を探った結果とも理解できると述べている[18]。またブーリンは、樹下宮は神座の真下に霊泉があり、そのため樹下茂国は鴨川で矢を拾った玉依姫に適当な神座と思ったのかもしれない、と推測している[18]。
大山咋の『古事記』登場以外、樹下茂国の主張の根拠は薄弱もしくは皆無であった[15]。11世紀の囗伝を生源寺行丸が16世紀に文書化したという『日吉社禰宜口伝抄』という史料が根拠と信じられていたが、北九州市立大学の佐藤眞人の綿密な研究(1989年)により、樹下茂国と思われる人物が明治2年に作った偽造史料である可能性が極めて高いことがわかっている[15][注釈 5]。樹下茂国が祭神とした大山咋を始めとする神々の記述はすべて『日吉社禰宜口伝抄』を根拠としており、ブーリンは「この 『日吉社禰宜口伝抄』 という偽造は、大成功を納めたと見なければならないだろう。」と評している [17]、佐藤眞人の研究以前は、皆これを中世以前のものと信じており、明治期以降、日吉社の祭神が大山咋や妃の玉依姫だと主張する際の根拠とされてきた[15]。江戸時代と全く違う近代の山王祭は、『日吉社禰宜口伝抄』に基づいている[15]。
近世 | 今日 | |||
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祭神 | 社号 | 祭神 | 社号 | 備考 |
東本宮系 | ||||
国常立尊 | 二宮 | 大山咋(和魂) | 東本宮 | 大山咋は明治以降の山王祭りの主役[16]。樹下茂国は崇神天皇七年の詔を根拠に二宮の祭神を大山咋和魂としているが、その詔は実存しない[32]。 |
瓊瓊杵 | 十禅師 | 玉依姫(鴨玉依姫神[注釈 6])(和魂) | 樹下宮 | 本居宣長は玉依姫を大山咋の妃と解釈しており[35][注釈 7]、樹下茂国によって明治に日吉社の祭神に加えられた[36]。玉依姫和魂を祭神とした根拠、樹下宮と改称された根拠は不明[14][32]。明治以降の山王祭りは、大山咋と玉依姫の夫婦神が交わり賀茂別雷神を生むという行事になっている[37]。 |
国狭槌 | 八王子 | 大山咋(荒魂) | 牛尾 | 牛尾と改称された根拠は不明[14] |
惶根 | 三宮 | 玉依姫(荒魂) | 三宮 | 玉依姫荒魂を祭神とした根拠は不明[32] |
西本宮系 | ||||
大己貴神 | 大宮 | 大己貴神 | 西本宮 | 近世と今日で唯一連続性のある祭神[16] |
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 | 聖真子 | 田心姫神 | 宇佐宮 | 生源寺行丸は、二宮の国常立尊と大宮の大己貴神の陰陽的な相互の働きが天照大神第一の子である聖真子の神を生んだと考えていた[16]。田心姫神は樹下茂国によって明治に日吉社の祭神に加えられた。田心姫神を祭神とした根拠、宇佐宮と改称された根拠は不明[14]。 |
伊弉冊尊 | 客人 | 菊理姫神(白山姫) | 白山宮 | 菊理姫神(白山姫)は樹下茂国によって明治に日吉社の祭神に加えられた。白山姫を祭神とした根拠は不明[32]。 |
現在の祭神
編集2つの本宮と以下の5つの摂社から成り、日吉七社・山王七社と呼ばれる。七社は現在、西本宮系と東本宮系に分かれている[28]。
- 本宮
- 五摂社
- 牛尾宮:大山咋神荒魂 - 大山咋神荒魂。東本宮の摂社[28]
- 樹下宮:鴨玉依姫神。東本宮の摂社[28]
- 三宮宮:鴨玉依姫命荒魂 - 鴨玉依姫命荒魂。東本宮の摂社[28]
- 宇佐宮:田心姫神。西本宮の摂社[28]
- 白山宮:菊理媛神。西本宮の摂社[28]
現在の東本宮境内の各社は「大山咋神の家族および生活を導く神々」と説明されている。
社格 | 社名 | 祭神 | 所在地 | |
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上七社 (山王七社) |
本宮 | 西本宮 | 大己貴神 | |
東本宮 | 大山咋神 | |||
摂社 | 宇佐宮 | 田心姫神 | ||
牛尾神社 | 大山咋神荒魂 | 八王子山頂 | ||
白山姫神社 | 白山姫神(菊理媛神) | |||
樹下神社 | 鴨玉依姫命(大山咋神の妃) | 東本宮境内 | ||
三宮神社 | 鴨玉依姫神荒魂 | 八王子山頂 | ||
中七社 | 摂社 | 大物忌神社 | 大年神(大山咋神の父) | 東本宮境内 |
末社 | 牛御子社 | 山末之大主神荒魂 | 牛尾神社拝殿内 | |
摂社 | 新物忌神社 | 天知迦流水姫神(大山咋神の母) | 東本宮境内 | |
末社 | 八柱社 | 五男三女神 | 東本宮参道 | |
摂社 | 早尾神社 | 素盞嗚神 | 境内入口南側 | |
産屋神社 | 鴨別雷神 | 境外・止観院の附近 | ||
末社 | 宇佐若宮 | 下照姫神 | 宇佐宮境内 | |
下七社 | 末社 | 樹下若宮 | 玉依彦神(鴨玉依姫神の子) | 東本宮境内 |
竈殿社 | 奥津彦神・奥津姫神 | 西本宮境内 | ||
東本宮境内 | ||||
摂社 | 氏神神社 | 鴨建角身命・琴御館宇志麿 | 東本宮参道 | |
末社 | 巌滝社 | 市杵島姫命・湍津島姫命 | ||
剱宮社 | 瓊々杵命 | 白山姫神社境内 | ||
気比社 | 仲哀天皇 | 宇佐宮境内 |
境内
編集- 西本宮本殿(国宝) - 祭神:大己貴神。崇神天皇7年創建。天正14年(1586年)再建。慶長2年(1597年)改修。上七社(山王七社)。かつて床下にある下殿で仏事が行われた。檜皮(ひわだ)葺きで、屋根は日吉造という日吉大社特有の形式。正面から見ると入母屋造に見えるが、背面中央の庇(ひさし)部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形態(縋破風)になっているのが特色。
- 西本宮拝殿(重要文化財) - 天正14年(1586年)再建。
- 西本宮楼門(重要文化財) - 天正14年(1586年)再建。楼門の軒下四隅には神猿が彫られている。
- 大宮竈殿社 - 祭神:奥津彦神、奥津姫神。下七社。
- 包丁塚
- 宇佐宮本殿(重要文化財) - 祭神:田心姫神。仁和年間(885年 - 889年)創建。慶長3年(1598年)再建。上七社(山王七社)。西本宮本殿、東本宮本殿と同様、屋根は日吉造である。
- 宇佐宮拝殿(重要文化財) - 慶長3年(1598年)再建。
- 宇佐若宮 - 祭神:下照姫神。中七社。
- 宇佐竈殿社 - 祭神:奥津彦神、奥津姫神
- 気比社 - 祭神:仲哀天皇。下七社。
- 宝蔵 - 校倉造。
- 白山姫神社本殿(重要文化財) - 祭神:白山姫神。慶長3年(1598年)再建。上七社(山王七社)。
- 白山姫神社拝殿(重要文化財) - 慶長6年(1601年)再建。
- 剱宮社 - 祭神:瓊々杵命。下七社。
- 小白山社 - 祭神:大己貴命
- 八坂社 - 祭神:素盞嗚神
- 北野社 - 祭神:菅原道真
- 忍耐(しんぼう)地蔵
- 恵毘須社 - 祭神:事代主神
- 救済(おたすけ)地蔵
- 神輿収蔵庫 - 上七社それぞれの神輿が7基(全て重要文化財)が展示されている。現在の山王祭で使用される神輿はこれらではない。
- 三宮宮遥拝所 - 八王子山の麓にある。
- 牛尾宮遥拝所 - 八王子山の麓にある。
- 三宮神社本殿(重要文化財) - 祭神:鴨玉依姫神荒魂。慶長4年(1599年)再建。上七社(山王七社)。八王子山の山頂付近にある。
- 三宮神社拝殿(重要文化財) - 慶長4年(1599年)再建。本殿と接続している。懸造。
- 牛尾神社本殿(重要文化財) - 祭神:大山咋神荒魂。天喜元年(1053年)創建。文禄4年(1595年)再建。上七社(山王七社)。八王子山の山頂付近にある。
- 牛尾神社拝殿(重要文化財) - 文禄4年(1595年)再建。本殿と接続している。懸造。
- 牛御子社 - 祭神:山末之大主神荒魂。中七社。牛尾神社の拝殿内に祀られている。
- 金大巌(こがねのおおいわ) - 黄金の大巌とも。大山咋神が降り立ったという磐座。日吉大社の原点である。
- 奥総社 - 祭神:天神地祇。伝教大師最澄像を祀る。かつての神宮寺の跡地である。最澄の父・三津首百枝が子の誕生を祈った場所でもある。八王子山のさらに奥にある。
- 東本宮本殿(国宝) - 祭神:大山咋神。天智天皇7年(668年)創建。文禄4年(1595年)再建。上七社(山王七社)。日吉造。牛尾神社の里宮でもある。1868年(明治元年)から1928年(昭和3年)までは祭神が大己貴神(大物主神)であったため、「大神(おおみわ)神社本殿」と呼ばれていた。かつては現在地の北西にあった。建築形式は西本宮本殿に似る。
- 東本宮拝殿(重要文化財) - 文禄5年(1596年)再建。
- 大物忌神社(大津市指定有形文化財) - 祭神:大年神。中七社。東本宮本殿の背後にある。
- 稲荷社 - 祭神:宇賀之御魂神
- 二宮竈殿社 - 祭神:奥津彦神、奥津姫神。下七社。
- 神饌所
- 新物忌神社 - 祭神:天知迦流水姫神。中七社。
- 亀井霊水 - かつての閼伽井。
- 樹下神社本殿(重要文化財) - 祭神:鴨玉依姫命。天仁2年(1109年)創建。文禄4年(1595年)再建。上七社(山王七社)。三宮神社の里宮でもある。本殿の真下に霊泉の井戸がある。樹下神社本殿・拝殿の並びは東本宮本殿・拝殿・楼門の並びに対して直交している。元々の祭神は十禅師で、樹下神社はかつては十禅師社と呼ばれていた。(参照:十禅師)
- 樹下神社拝殿(重要文化財) - 文禄4年(1595年)再建。
- 内御子社 - 祭神:猿田彦神
- 樹下若宮 - 祭神:玉依彦神。下七社。
- 神輿庫
- 東本宮楼門(重要文化財) - 天正・文禄年間(1573年 - 1596年)再建。
- 須賀社 - 祭神:素盞嗚神奇魂
- 巌滝社 - 祭神:市杵島姫命、湍津島姫命。下七社。
- 猿岩 - 猿の霊石ともいう。猿の形をした岩である。
- 氏神神社 - 祭神:鴨建角身命、琴御館宇志麿(日吉社社家始祖)。下七社。
- 氏永社 - 祭神:祝部希遠(日吉社社家の生源寺家祖)
- 八柱社 - 祭神:五男三女神。中七社。
- 正覚院稲荷大明神 - 祭神:荼枳尼天
- 日吉大社境内古墳群 - 古墳時代後期の円墳が約70基ある。
- 石造仏塔 - 西本宮楼門の西にある。
- 橋殿橋 - 橋は途中で途切れている。
- 祇園石 - 牛頭天王が宿る磐座。
- 大威徳石 - 大威徳明王が宿る霊石。
- 参集殿
- 社務所
- 行者社(行者堂)
- 神猿舎
- 神馬舎
- 惣社 - 山王ニ十一社を祀る。
- 合祀社 - 子安社、子立社
- 日吉会館
- 猿塚 - 日吉大社境内古墳群のうちの一つ。
- 日吉三橋 - 天正年間(1573年 - 1593年)に豊臣秀吉が寄進したと伝えらている。木橋が現在の石橋に架け替えられたのは寛文9年(1669年)。大正6年(1917年)8月、日吉三橋として指定文化財となる。
- 大宮橋(重要文化財) - 西本宮(大宮)へ向かう参道にかかる花崗岩製の石橋反橋。
- 走井橋(重要文化財) - 大宮橋のすぐ下流にかかるお祓いをするための石橋反橋。
- 二宮橋(重要文化財) - 東本宮(二宮)へ向かう参道にかかる花崗岩製の石橋反橋。
- 走井祓殿社 - 祭神:瀬織津比咩、速開都比咩、気吹戸主、速佐須良比咩
- 走井杉
- 早尾神社 - 祭神:素盞嗚神。中七社。境内入口の南側に祀られている。参道を挟んだ向かいには求法寺があり、当社入口の正面階段前には六角地蔵堂がある。
- 境外
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西本宮拝殿(重要文化財)
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西本宮楼門(重要文化財)
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東本宮 本殿(国宝)の後部。削がれた屋根が日吉造の特徴を示している。
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東本宮拝殿(重要文化財)
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東本宮 楼門(重要文化財)
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左から宇佐若宮、剣宮社、小白山社、八坂社、北野社、白山姫神社拝殿
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宇佐宮拝殿(重要文化財)
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宇佐宮本殿(重要文化財)
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白山姫神社拝殿、本殿(重要文化財)
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白山姫神社本殿(重要文化財)
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樹下神社拝殿(重要文化財)
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樹下神社本殿(重要文化財)
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三宮神社(左)・牛尾神社
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二宮橋(重要文化財)
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大宮橋(重要文化財)
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走井橋(重要文化財)
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三宮神社拝殿(重要文化財)
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牛尾神社拝殿(重要文化財)
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金大巌
文化財
編集国宝
編集- 西本宮本殿 - 天正14年(1586年)再建。
- 東本宮本殿 - 文禄4年(1595年)再建。
重要文化財
編集以下の建造物は東照宮(江戸時代の建立)を除いて安土桃山時代の建立である。
- 西本宮拝殿
- 西本宮楼門
- 東本宮拝殿 附:旧天井格縁 1本
- 東本宮楼門
- 摂社宇佐宮 2棟
- 本殿
- 拝殿
- 摂社樹下神社(じゅげじんじゃ) 2棟 - 樹下神社は東本宮と同じ敷地にあり、東本宮の参道と樹下神社の参道が直角に交わる、特異な配置になっている。
- 本殿
- 拝殿
- 摂社白山姫神社 2棟
- 本殿
- 拝殿
- 摂社牛尾神社 2棟 - 牛尾神社と三宮神社は八王子山に位置し、拝殿は懸崖造になっている。
- 本殿
- 拝殿
- 摂社三宮神社 2棟
- 本殿
- 拝殿
- 末社東照宮 3棟(日吉東照宮参照)
- 本殿・石の間・拝殿(1棟)
- 唐門
- 透塀
- 日吉三橋 3基 - いずれも石橋である。
- 大宮橋
- 走井橋
- 二宮橋
- 日吉山王金銅装神輿 7基
国指定史跡
編集- 日吉神社境内
滋賀県指定有形文化財
編集大津市指定有形文化財
編集- 大物忌神社本殿
大津市指定史跡・名勝
編集- 唐崎神社境内
大津市指定無形民俗文化財
編集- 山王祭 - 主に4月12日から15日に行う
指定解除された文化財
編集- 東照宮橋(石橋)- 旧国宝建造物。1935年(昭和10年)6月29日の水害で流出し、指定解除された。
主な祭事
編集- 大戸開き神事(1月1日) - 歳旦祭にあたるもので、日の出の前に松明の火に照らされる中、片山能太夫によって西本宮では能の「翁」(日吉の翁)が、東本宮では謡曲『高砂』が奉納される[3]。このときの松明の火を自宅へ持ち帰って炊事に使う風習があるため、発火とも呼ばれる[3]。
- 山王祭(4月14日) - およそ1,300年前、三輪明神が坂本に移ったとき、地元の人が大榊を奉納したのが起源とされる。祭礼の期間は神輿上げ、大榊の神事、午の神事、献茶祭、花渡り、宵宮落とし、粟津の御供、神輿の還御、酉の神事、船路の御供まで1か月半に及ぶ[3]。特に山王七社の神輿の渡御は豪壮であり、大榊の神事が静寂の中で行われるのと対照的であるという[3]。
- 山王礼拝講(5月26日) - 万寿2年(1025年)、僧が修行もせずに僧兵としての活動ばかりしていることが嘆かれ、西本宮にて日吉大神を祀る法華八講が開催されたことが起源とされる[3]。修祓や祝詞の後、法華経の問答が行われ、神仏習合の名残がうかがわれる[3]。
- みたらし祭り(7月) - 摂社である唐崎神社で開催される夏越しの大祓神事[3]。大祓、茅の輪くぐり、人形流し、琵琶湖の湖上での護摩木のお焚き上げなどが行われる[3]。下半身の病気や、婦人科の病気に神徳があるとされる[3]。なお、唐崎神社は七瀬の祓所のひとつとされる[3]。
- もみじ祭(11月) - 様々な行事のほか坂本地区一帯を含めライトアップが行われる。
現地情報
編集関連文献
編集- 嵯峨井建『日吉大社と山王権現』人文書院、1992年。
脚注
編集注釈
編集- ^ 神仏分離令の直後に日吉社の例ほど急速で激しい廃仏毀釈は他になく、奈良国立博物館の野尻忠は「首謀者(樹下茂国)の個性に依る部分も大きい」と指摘している[9]。
- ^ 宮内庁(1968年)、『明治天皇紀』慶応4年4月1日条に記述された日吉神社神官の暴挙は次の通りである。「客月二十八日,神仏混淆禁止の令発せらるゝや,比叡山日吉神社社司神祇事務局権判事樹下茂国・同神社社司生源寺希璵等,神仏分離のため神体調査の要ありと為し,同社三執行に社殿の鍵鑰の交付を求む,社僧白毫院之れを座主宮に啓して其の指揮を仰ぐにあらざれば交付すること能はざるを答ふ,是の日,茂国等,播磨国明石御崎神社・三河国猿投社・信濃国下諏訪社・同国ツ中島八幡宮・美作国天窟戸開社神職等四十余人及び坂本村農民等を率ゐて日吉神社に至り,社殿を破壊し,大宮に於ては神体を除き,仏像・経巻・仏具等を焼棄し,二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮社等に於ては尊体・本地仏・経巻・仏具・鰐口の類を焼棄し若しくは之を社家に携行す,為に山内騒擾するを以て,十日,布告して祠官の暴挙を禁じ,神社に在る仏像・仏具等の処分は稟請して後其の事に従はしむ,又十三日,延暦寺の僧徒を諭して日吉神社の祭事に関ることなからしむ」[12]
- ^ 明治政府が神仏判然令の勢いを弱めたわけではない。樹下茂国は岩倉具視とも昵懇で、明治政府の一部はこうした暴力的な廃仏毀釈の運動を黙認していた[8]。
- ^ 日本の天台宗の宗祖最澄が比叡山に入った際に最初に出会ったのが稚児と山王権現で、それらが天台宗にとって非常に重要な意味を持つという説「一児二山王」があり、これは稚児の神聖視から成り立つ[25]。天台宗では鎌倉末期になると「一児二山王」という言葉が盛んに用いられており、1414年の奥書がある『厳神鈔』では、この「一児」とは十禅師であるとされている[26][27]。
- ^ 「(佐藤眞人の「日吉社及び山王神道の研究」の)第二部では山王神道典籍の成立とその偽書について考察する。第一章は日吉社祭神論の最古本とされてきた『日吉社禰宜口伝抄』について、諸書の検討から疑問を呈し、その成立は近世末期から明治初頭の頃と証拠づけて、本書の信憑性を否定したことは、大きな成果になっている。」(主任審査委員:早稲田大学文学学術院・教授 大久保良峻、審査委員:早稲田大学文学学術院・教授 土田健次郎、國學院大學名誉教授・客員教授 岡田莊司)[33]
- ^ 鴨玉依姫神は賀茂氏の祖神。「タマヨリヒメ」とも呼ばれ、この名は「神霊の依りつく乙女(巫女)」という意味を持つ。(神武天皇の母ともされるタマヨリヒメとは別の存在)[34]
- ^ 江戸時代の本居宣長は大山咋の正体を探求し、鎌倉末期の『釈日本紀』『山城風土記』 の有名な伝説に触れ、玉依姫が賀茂別雷を生むことになった矢は大山咋の記述にある鳴鏑を意味しており、よって大山咋は玉依姫と夫婦であり、賀茂別雷の父だと主張しており、こうした見解は当時の日吉社の神職の間で定着していたと考えられている[35]。
出典
編集- ^ 「日吉」の読みについては以下による。
- 日吉大社公式サイト「よくいただくご質問」(2012年5月6日閲覧)
- 公益財団法人国際宗教研究所の日吉大社の項(2016年11月6日閲覧)
- ^ 『天台宗開宗千二百年記念 比叡山––日本仏教の母山』別冊太陽、平凡社、2006年、83頁。ISBN 4-582-94496-5
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 日吉大社(滋賀県神社庁)
- ^ “西本宮御鎮座1,350年記念”. 日吉大社 2019年6月11日閲覧。
- ^ 渡辺世祐『豊太閤と其家族』日本学術普及会、1919年、35-36頁 。
- ^ a b 神尾 2003, p. 4.
- ^ a b c ブリーン 2009, pp. 157–158.
- ^ a b c 高橋 2019, p. 9.
- ^ a b 野尻 2017, p. 89.
- ^ a b ブリーン 2009, p. 157.
- ^ 【コラム】”国宝”誕生の軌跡 滋賀県立公文書館(2017年12月8日)2020年10月27日閲覧
- ^ 神尾 2003, pp. 15–16.
- ^ 【時を訪ねて 1868】廃仏毀釈(京都・奈良)危機生き延びたお地蔵さん『北海道新聞』日曜朝刊別刷り2020年9月27日1面
- ^ a b c d ブリーン 2009, p. 158.
- ^ a b c d e f g ブリーン 2009, p. 161.
- ^ a b c d e f ブリーン 2009, pp. 148–149.
- ^ a b c d ブリーン 2009, p. 172.
- ^ a b c d e f g ブリーン 2009, pp. 159–160.
- ^ 歴史的風土保存区域及び歴史的風土特別保存地区指定状況(平成29年3月31日現在)国土交通省
- ^ “琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産”. 文化庁. 2020年9月20日閲覧。
- ^ 黒田 2003, p. 88.
- ^ 福留 2013, pp. 16–17.
- ^ a b 菅原 2001, pp. 192–193.
- ^ a b c d e “三十番神様”. 真成寺. 2025年4月16日閲覧。
- ^ 小山 2007, pp. 25–26.
- ^ 小山 2007, p. 25.
- ^ 小山 2007, p. 42.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 福留 2013, p. 16.
- ^ a b 菅原 2001, p. 131.
- ^ 名波 1984, p. 103.
- ^ ブリーン 2009, p. 149.
- ^ a b c d e ブリーン 2009, p. 160.
- ^ “博士(文学)学位請求論文審査報告要旨「日吉社及び山王神道の研究」”. 早稲田大学リポジトリ. 2025年5月17日閲覧。
- ^ “主祭神”. 日吉神社. 2025年3月26日閲覧。
- ^ a b ブリーン 2009, p. 159.
- ^ ブリーン 2009, p. 168.
- ^ ブリーン 2009, p. 145.
- ^ ブリーン 2009, p. 148.
参考文献
編集- 高橋義人「第二章 京都の将来設計 1. 文化・伝統の保存、継承、発展 (ア)有形文化財の保全」『「日本文化創出を考える」研究会2019年度報告書』2019年、8-10頁、CRID 1020290617322072707。
- 野尻忠「明治維新と廃仏毀釈」『平成28年度文化財防災ネットワーク推進事業 九州国立博物館の取り組み』、九州国立博物館、CRID 1020000781908977153。
- 福留瑞美「堀河題による日吉社奉納百首-俊成・為家・阿仏尼の奉納百首の比較から見る表現上の違い-」『國文學』第97巻、関西大学国文学会、2013年3月31日、15-33頁、CRID 1050001202912693632。
- ジョン・ブリーン「近代山王祭りの原点--官幣大社日吉神社史の一齣」『人文學報』第98巻、京都大學人文科學研究所、2009年12月30日、143-175頁、CRID 1390572174797209088、doi:10.14989/134784。
- 小山聡子「寺院社会における僧侶と稚児 : 『往生要集』理解を中心として」『二松學舍大學論集』第50巻、二松学舎大学文学部、2007年、25-44頁、CRID 1050001202565137920。
- 神尾登喜子「石清水八幡宮と神仏分離 ―近代京都における風景の一断面―」『阪南論集. 人文・自然科学編』第38巻、山梨県立女子短期大学、2003年3月、1-18頁、CRID 1050845763799971200。
- 黒田龍二「中世日吉社における神仏関係とその背景」『神と仏のいる風景: 社寺絵図を読み解く』国立歴史民俗博物館 編集、山川出版社、2003年。
- 菅原信海『日本人の神と仏: 日光山の信仰と歴史』法蔵館、2001年。
- 名波弘彰「『平家物語』に現れる日吉神社関係説話の考察 : 中世日吉神社における宮籠りと樹下僧」『文藝言語研究. 文藝篇』第9巻、筑波大学大学院人文社会科学研究科 文芸・言語専攻、1984年12月、158(69)-114(113)、CRID 1050846638327826048。