日本の儒教

日本における儒教
日本の儒学から転送)

日本の儒教(にほんのじゅきょう)では、日本における儒教について概説する。

概要 編集

儒教は、の行いに従い、文王武王の法令を信奉し、孔子を尊び、其の言を重んじ[1]三代の礼制を踏襲している思想体系で、紀元前の中国に興る。

日本では儒教は学問(儒学)として受容され、国家統治の経世済民思想や帝王学的な受容をされたため、神道仏教に比べて、宗教として意識されることは少ない。なお中国では儒教は「名教」「礼教」「孔教」「孔子教」という呼称があり、宗教として認知されることが多い。

歴史(〜中世) 編集

日本への伝来 編集

日本へ儒教が伝わったのは仏教よりも早く、継体天皇の時代の513年百済より五経博士が渡日して以降のことである。さらにはこれ以前にも、王仁(わに)が『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』などにあり、概ね5世紀頃には伝来していたものと考えられている。儒教の思想は多神教を奉祀する神道と相入れやすかったと考えられ[要出典]、儒教よりもさらに以前(4世紀頃とされる)に入ってきていた道教、儒教と同時期に入った陰陽五行思想を併せ、それまでの呪術的な側面に科学的な論拠を与えて後の陰陽道につながる素地が生まれていた。[要出典]

飛鳥時代 - 平安時代 編集

飛鳥時代では仏教の普及に熱心であった蘇我氏の台頭もあり、飛鳥京を中心に仏教遺構が数多く建造された。だが、乙巳の変以降の皇室、特に斉明天皇は儒教に深く帰依したと考えられ、亡夫である舒明天皇御陵八角墳としたり、多武峰に置いた両槻宮とその関連遺構(酒船石遺跡飛鳥水落遺跡狂心の渠など)には儒教と陰陽道の影響が強く顕れている。

その後の平安時代初期においては天武天皇が発布した律令制にも儒教の影響が見られ、儒教の思想は官吏養成に応用され、また国家で研究を行う学問として式部省の被官の大学寮において明経道として教授された。しかしながら、日本では科挙制度が取り入れられなかったためか儒教本来の価値が定着せず、学問の主体は、実学的な文章道と、道経色が強い陰陽道に移った。やがて神仏習合が進んで救済に加えて鎮守の意味も獲得した仏教が隆盛となり、空海の『三教指帰』では儒教道教に対する仏教の優越が主張されている。

ただし、貴族社会において儒教が全く廃れた訳では無く、『論語』については、元慶3年(879年)8月に陽成天皇が自ら講義を行ったことが『日本三代実録』に見え、藤原頼長の日記『台記』に度々記述が登場するなど、教養として広く読まれていたことが分かる[2]

鎌倉時代 - 安土桃山時代 編集

南宋朱熹によってはじめられた朱子学は、日本では宋学と称され、日本へは1199年正治元年)に入宋した俊芿が儒教の典籍250巻を持ち帰ったのが始まりとされる。以来、渡宋した円爾弁円中巌円月らの禅僧やの侵攻を避け、南宋から渡ってきた知識人によって広められ、1299年正安元年)、元より来日した一山一寧がもたらした注釈によって学理が完成されたといわれる。14世紀に入ってあらわれた天台宗の僧玄恵は朱子学に通じ、後醍醐天皇の側近として仕えたともいわれる。

南北朝時代から室町時代にかけては、京都五山鎌倉五山など主として臨済宗禅宗寺院において儒学が研究された。また、15世紀前半、上杉憲実によって再興された下野国足利学校でも儒学の講義がおこなわれた。

15世紀後半の応仁・文明の乱により京都が荒廃したため、公家や僧侶などの文化人は地方へ下り、各地の大名や有力武士をたよるようになったため、儒学者も地方に拡散した。桂庵玄樹周防大内氏肥後菊池氏薩摩島津氏などに儒学を講じ、薩南学派の基礎をきずいた。土佐の南村梅軒は朱子学を講じ、南学(海南学派)を開いた。南学は、近世以降、京都を中心とする京学と並び、儒学の一学派をかたちづくった。

歴史(近世) 編集

江戸時代 編集

 
大成殿(孔子廟)(2010年2月3日撮影)
 
大塚先儒墓所(東京都文京区)。儒葬専用墓地。
 
室鳩巣の儒式墓(大塚先儒墓所内)

江戸時代になると、それまでの仏教の僧侶らが学ぶたしなみとしての儒教から独立させ、一つの学問として形成する動きがあらわれた(儒仏分離)。中国と朝鮮から、朱子学と陽明学が静座(静坐)(座禅)などの行法をなくした純粋な学問として伝来し、特に朱子学は幕府によって封建支配のための思想として採用された。朝鮮の姜沆の影響を受けた藤原惺窩の弟子である林羅山徳川家康に仕え、以来、林家大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。

第5代将軍徳川綱吉は、幕府の文治政治への転換に際し儒学を重要視し、林鳳岡をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、1690年元禄3年)、孔子廟湯島に建立し(湯島聖堂)、そこで、林家の私塾として「学問所」が開講され朱子学が教授されるようになった。

徳川吉宗は、概念的な朱子学を遠ざける傾向があり、また、林家当主が連続して若く亡くなるなどして、一時、朱子学は低迷するものの、松平定信が老中となると、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、1790年寛政2年)には、当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として林家の門人が学ぶことを禁ずるなど規制を図った(寛政異学の禁)。1797年(寛政9年)までには「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。林述斎は、養子として林家に入り、柴野栗山古賀精里尾藤二洲寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、林家中興の祖と呼ばれた。

以下に林家の学派の主要な師弟関係を示す(太字は林家当主、添字は代数)。

林羅山 1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
林鵞峰 2山鹿素行
 
 
 
 
林鳳岡 3
 
古学(聖学)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
林榴岡 4井上蘭台秋山玉山岡島冠山黒沢雉岡松平乗薀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
林鳳谷 5井上金峨渋井太室
 
 
 
 
折衷学林述斎 8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
林檉宇 9鳥居耀蔵林復斎11佐藤一斎安積艮斎松崎慊堂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
林学斎12佐久間象山山田方谷塩谷宕陰大槻磐渓安井息軒

朱子学は、幕政及びそれに倣う諸藩において、立身出世の途となり、林家の他の学派も成長した。特に木下順庵門下には、新井白石室鳩巣雨森芳洲祇園南海ら多くの人材を輩出した。将軍侍講である奥儒者の地位は江戸後期までほぼ林家が独占したが、徳川吉宗の治世では例外的に、室鳩巣が1725年から1734年まで奥儒者を務め、荻生徂徠の門人である成島信遍も奥儒者となっている。その後、成島家の司直が幕府の正史『御実紀』(『徳川実紀』)編纂などの功績から文政年間(1818-1831年)に奥儒者に任じられたのを皮切りに、同家系から養子成島筑山と養孫成島柳北も奥儒者となった。

幕府や諸藩においては官学として朱子学が中心であったが、日本では、中国本土や朝鮮と異なり科挙が採用されていなかったため、中国本土や朝鮮では順次衰退していった陽明学が命脈を保つこととなった。代表的学派として、中江藤樹が一家を構え、その弟子である熊沢蕃山岡山藩において執政するなど各地に影響を残した。いわゆる近江商法にその影響を見る者もいる。また、1724年享保9年)には、大坂の豪商たちは共同して学問所懐徳堂」を設立し、初代の学主として三宅石庵が迎えられ、朱子学に混交した陽明学が教えられた。後に、この系列から中井竹山中井履軒富永仲基山片蟠桃佐藤一斎らが輩出される。このように朱子学に加え陽明学が地歩を固める中、『伝習録』等を通じ、幕末における維新思想をはじめとした各種の運動(大塩平八郎吉田松陰高杉晋作西郷隆盛河井継之助佐久間象山山田方谷 等) に影響を与えた。陽明学研究は江戸期を通じ進み、中国本土での清末における陽明学再評価時には、ほとんど忘れられていた陽明学左派李卓吾の『焚書』や『蔵書』が逆輸出されるほどであった。

その他、儒教と仏教が分離する一方、山崎闇斎によって神儒一致が唱えられ、垂加神道などの儒教神道が生まれた。朱子学を批判的に摂取する貝原益軒なども現れた。日本の儒教の大きな特色として、朱子学や陽明学などの後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する聖学(古学)、古義学古文辞学などの古学が、それぞれ山鹿素行伊藤仁斎荻生徂徠によって始められた。

特に山鹿素行は朱子学を批判して幕府から処罰された。彼は古学という独自の学問体系を確立し、寛文5年(1665年)、天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって纏められ山鹿流として継承される。ただ、素行が唱えた「士道」は「諌めても改めぬ主君なら臣から去るべし」[3]など「二君に仕えず」という従来の武士道の対極にあり[注釈 1]、かつ「日本こそが中朝(中華)である」という[4]孟子による儒教的世界観を完全否定する思想だったため、古学派は多くの藩で排斥された[注釈 2][注釈 3]

江戸時代中期に書かれた葉隠では、当時主流となっていた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、藩内でも禁書の扱いをうけた。この時代には一定の批判もあったが、安定期が長く続くと封建社会を支える儒教的思想が定着し、幕末ごろには兵学や武士道の実用性が失われた。

江戸時代を通して、武家層を中心として儒教は日本に定着し、水戸学などにも影響、やがて尊王攘夷思想に結びついて明治維新への原動力の一つとなった。一方、一般民衆においては、石田梅岩石門心学などわずかな例外を除き、学問としての儒教思想はほとんど普及しなかった。

儒学の体系化と立身出世という実益により武家層へ浸透した結果、有事に備えて技術を継承する必要性から同じく体系化されていった兵学にも影響を与えた。それまでの兵学は実戦での経験を踏まえ、作戦部隊の運用や編制など現実的な内容が中心であったが、江戸時代以降は儒学の影響を受け倫理的な側面が強調されるようになった。また生存術や処世術的な意味合いだった武士道も、主君への忠義など幕藩体制を支える思想や倫理を伝授する学問へ変化した。

歴史(近代) 編集

明治時代になると、儒教的合理主義の影響を受けて江戸時代から一部行われてきた神仏分離運動が激化し、廃仏毀釈が行われた[5]

1885年欧化主義者の当時の文部卿森有礼によって儒教的な道徳教育を規制する命令が出されたが、1889年に暗殺されため、再び教育の儒教性が強まった[6]元田永孚ら宮中の保守的な漢学者の影響によって、1890年制定の教育勅語などに儒教の思想が取り入れられ、奨励された。井上哲次郎は江戸時代の儒学を扱った三部作『日本陽明学派[古学派,朱子学派]之哲学』を著して、この分野における研究を拓いた。

『論語』の一節や朱子学の教えが引用されることは多く、道徳や倫理の古典として受け入れられた。特に『論語』は現代に至るまで日本語訳や解説書が多数刊行されている。

渋沢栄一は『論語と算盤』を著し、『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げる「道徳経済合一説」という理念を打ち出し、近代経済と儒教思想の融合を図ったが、広く普及することはなかった。また、戦前戦後の日本の政財界に隠然とした影響を与えた安岡正篤は、正統な儒教思想の後継であるとは言い切れないが、公的には陽明学者と称した。

一方で「実学」の重視を主張する福沢諭吉は儒教を妄説とし、厳しく批判した。また、津田左右吉は『支那思想と日本』『文学に現われたるわが国民思想の研究』などで儒教など中国の影響を排除した文化史を描こうとした。

歴史(現代) 編集

敗戦後、教育勅語軍人勅諭戦陣訓などは撤廃された[7]ウェーバーマルクスの研究が盛んになると「アジア的停滞性」を生んだ存在としての評価がされるようになり、歴史教科書等でもこうした評価が定着している[8][9]和辻哲郎は敗戦に至った日本の停滞の原因を、林羅山の儒教政策と鎖国政策に求めた[10][11]

儒教を宗教として捉える研究者は少数派であるが、学術研究において儒教の本質を宗教としてとらえる道を開いたのは、山下龍二加地伸行である[12]。山下は天地鬼神や祖先への祭祀を儒教の中心に据え、加地は宗教を死を語るものと定義して祖先崇拝を儒教の本質としている。ただし、こうした儒教への解釈については池田秀三などから批判が寄せられている。

戦後の儒教運動としては、新左翼から保守派に転向し「封建主義者」を称した呉智英がいるが、保守派の間でも「日本が儒教国家でない」とし、その点を評価する論客もおり(ケント・ギルバートなど)、評価は必ずしも一定ではない。

現代の文化人類学ホフステッド(ヘールト・ホフステッド、オランダ人)などによる実証的研究などでは、東アジアの「儒教文化圏」が国際比較上は同種の文化圏として認識される。

日本の儒学者一覧 編集

古代・中世
近世
朱子学
薩南学派(朱子学の一派)
土佐朱子学(南学
水戸学(朱子学の一派)
陽明学
古学 (聖学)
古義学
古文辞学
古注学
折衷学
考証学
近現代

儒教を宗教として信仰せずに儒教を研究する学者は、「儒学者」といわずに、「儒教研究者」と呼ぶべきとする見方もある[要出典]。ただし京都大学教授の吉川幸次郎や、評論家の呉智英は、自らを儒者であると主張し、儒教の立場からさまざまな立論を行っている。

関連項目 編集

孔子廟は各国に存在するが、日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(儒教の中でも、特に朱子学)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 山鹿素行は「自らが所属する共同体への倫理(主家への忠義など)と天からあたえられた倫理(天倫)が衝突した場合に武士は天倫を選択すべき」と考えた。
  2. ^ 白島稽古屋敷(のちの「修道館」)を擁する広島藩浅野家は素行が批判した朱子学を藩学とした。(朱子学以外の素行の古学などの教授は学問所への出入りが禁じられた。)
  3. ^ 素行の子孫は弘前藩平戸藩に仕えた。津軽家と松浦家は近現代に天皇家の親族となる(正仁親王妃華子と中山一位局慶子)。

出典 編集

  1. ^ 班固,前漢,『漢書·藝文志』
  2. ^ 古勝隆一『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、P152-153.
  3. ^ 『山鹿語録』巻二十一「士道」
  4. ^ 『中朝事実』寛文9年(1669年)
  5. ^ 柏原と明治維新7 | 大阪府柏原市
  6. ^ 廣嶋龍太郎「森有礼の道徳観 : 文相期の徳育政策面から」『明星大学教育学研究紀要』第20巻、明星大学教育学研究室、2005年3月、78-93頁、ISSN 1346-664XNAID 120006771926 
  7. ^ 荒川紘「教育基本法と儒教教育」『東邦学誌』第39巻第1号、愛知東邦大学、2010年6月、37-52頁、ISSN 0287-4067NAID 110007603043 
  8. ^ 朱子学の伝統は現代社会の危機を救える | ハフポスト LIFE
  9. ^ 永井 和「戦後マルクス主義のアジア認識
  10. ^ 和辻哲郎 「鎖国 日本の悲劇
  11. ^ 和辻哲郎 埋もれた日本 ――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況――
  12. ^ 山下は「儒教の宗教的性格」(1968年、『朱子学と反朱子学』研文社、1991年所収)・『孔子を語る』(「NHKこころをよむ」テキスト、1993年)で、加地は『孔子-時を越えて新しく』(1984年、ISBN 4081850011)・『儒教とは何か』(中公新書、1990年、ISBN 4121009894)・『沈黙の宗教-儒教』(1994年, ISBN 4480051996)でその持論を展開している。

参考文献 編集