日本労働組合評議会(にほんろうどうくみあいひょうぎかい)は、戦前日本に存在した労働組合。略称は評議会

関東大震災後、ますます先鋭化した総同盟内の社会民主主義者共産主義者との対立は、1924年(大正13年)12月の共産党系組合の除名により決定的となり、1925年(大正14年)5月、総同盟内の共産主義者は日本労働組合評議会を結成し、総同盟は二つに分裂した。評議会は日本共産党の影響を強く受け、プロフィンテルンと連携を持った。

評議会は数多くの労働争議を指導し、世間の注目を集めた。なかでも共同印刷争議、日本楽器争議が有名である。渡辺政之輔らは工場委員会を組織したが、セクト主義により労働戦線を拡大、統一することはできなかった。

数々の激しい弾圧を受けた評議会は、1928年(昭和3年)4月10日治安警察法により解散命令を受け、解散を余儀なくされた。しかし、同年12月に日本労働組合全国協議会として再建された。