日本歌劇学校(にっぽんかげきがっこう)は、OSK日本歌劇団付属の劇団員の養成機関で、現在は休校中(事実上の廃校)。奈良市近鉄あやめ池遊園地内にあった。

歴史・沿革 編集

1922年大正11年)、大阪で松竹楽劇部生徒養成所として設立された。大阪松竹歌劇団付属学校への改称を経て、1956年昭和31年)4月より学校組織に改組。 1958年(昭和33年)4月に奈良市菅原町(現・あやめ池南1丁目)のあやめ池温泉場へ移転。1977年(昭和52年)12月に近鉄あやめ池遊園地内に新校舎が完成したため1978年(昭和53年)4月に新校舎へ移転。名称は他に松竹音楽学校OSK松竹音楽学校OSK日本歌劇学校とも。

劇団の経営悪化による合理化のため、歌劇学校は2000年平成12年)より募集を停止し、2001年(平成13年)3月21日に74期生14名の卒業をもって休校している。なお劇団も親会社(近鉄)の支援打ち切りのため2003年(平成15年)に一度解散した。

その後再結成されたOSK日本歌劇団は、現在では歌劇学校の代わりに研修所を設け、劇団員の養成を再開・継続している。制度の一部は歌劇学校を踏襲している。

特徴 編集

本科・研究科の二年制。各学年の首席は「組長」・次席は「副組長」に任命され、学年をまとめる[1]。定員は30名で、1990年代の倍率は5-6倍[2]

制服は、グレーのブレザー/ベストに同色のプリーツスカート。ブラウスにはリボンを付ける。通学時には帽子も着用する。

授業は1コマ1時間50分で[3]、バレエ・日舞・演劇・声楽など女性歌劇の舞台に必要な科目を学ぶ。若手劇団員が近鉄バファローズの応援パフォーマンスを行うようになってからは、1996年(平成8年)より歌劇学校でもチアリーディングが取り入れられた[4]

中学卒業後の独身女性が受験することができた[5]ため、宝塚音楽学校よりチャンスが多い。このため年度によっては、短大卒・大学中退の者も入団可能だった[6]

また宝塚と併願する者も多かったが宝塚より試験時期が早いため、OSK機関誌に入学者(本科生)として掲載された後、宝塚へ進学した者もいた。学校生時代から本名でプロフィールが掲載され、芸名が決まった後も本名と併記される。プロフィールには身長だけでなく、体重・スリーサイズも記載されたこともある[7]

脚注 編集

  1. ^ 1999年9月26日 朝日新聞(大阪)「この人に、会ってみたかった - 桜花昇さん」
  2. ^ 1993年01月27日 朝日新聞(奈良)「初舞台の準備に追われるOSK研究科生」
  3. ^ 2000年04月26日 朝日新聞(奈良)「夢をあなたに ニューOSK:4 - 日本歌劇学校・研究科生」
  4. ^ 1997年1月13日 日本経済新聞(大阪)夕刊「ドームデビューへ猛練習、猛牛に喚声、OSKの卵舞う」
  5. ^ 上限は19-20歳前後。年度によって変更有。
  6. ^ 1991年3月4日 朝日新聞(大阪)「出番ちょっぴりでも夢は満開 OSKの新人15人」
  7. ^ 「ザ・OSKレビューのすべて」OSK日本歌劇団、1984年発行 など

関連項目 編集