日置忠治

日本の江戸時代前期~中期の武士。加賀藩家老今枝直恒の子で、岡山藩家老日置忠俊養子。金川日置氏4代当主。

日置 忠治(へき ただはる、元和5年(1619年)- 元禄6年4月14日1693年5月18日))は、江戸時代前期の武士岡山藩家老備前金川1万6000石の領主。

父は加賀藩家老今枝直恒。正室は池田利政の娘心珠院。通称は若狭、猪右衛門。子は日置忠明今枝直方池田宗春室、加賀藩家老前田知臣室、加賀藩家老横山忠次室(実は兄日置忠隆の娘)、高辻豊長室(実は兄日置忠隆の娘)。兄弟に今枝近義、日置忠隆、前田直玄

生涯 編集

元和5年(1619年)4月14日、加賀藩家老今枝直恒の子として誕生した。寛永15年(1638年)、伯父(直恒の兄)岡山藩家老日置忠俊の養子となっていた兄忠隆が早世したため、岡山へ移り、代わって忠俊の養子となる。寛永16年(1639年)、忠俊の隠居により家督相続し、岡山藩家老、金川1万6000石の領主となる。

寛永17年(1640年)、藩主池田光政の養女(池田利政の娘心珠院)と結婚する。慶安5年(1652年)6月、仕置家老となる。承応3年(1654年)7月、大雨による岡山城下の洪水の被害が甚大で、復旧の資金として小判千両を藩に献金する。明暦3年(1657年)1月、明暦の大火により江戸藩邸が焼失したため、再建のため作事惣頭として江戸に赴く。延宝2年(1674年)、大凶作により飢饉が発生し、延宝3年(1675年)正月、閑谷学校の経営を任されていた津田永忠から、手習所用の米を窮民のために提供し、手習所を一時閉鎖して施粥所とすることを提言され許可した。永忠は、藩主光政の隠居後、評定所列座を辞して藩政から遠ざかっていたが、これが契機となり、延宝8年(1680年)、藩主綱政の命で、評定所列座に復帰して藩政に返り咲くこととなる。延宝5年(1677年)10月、隠居して嫡男の忠明に家督を譲る。

元禄6年4月14日没。五男の直方は忠治の兄今枝近義の養子となって今枝家を継いだ。墓所は岡山県岡山市北区御津高津の安倉山にある。

参考文献 編集

  • 『池田老臣累記』
  • 『備前家老略伝』