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旧慣温存政策(きゅうかんおんぞんせいさく)、または旧慣存置政策(きゅうかんぞんちせいさく)は、明治期の沖縄県でとられた統治方針である。1879年(明治12年)から1903年(明治36年)まで続いた。

概要編集

政策のおこり編集

1879年(明治12年)の琉球処分によって沖縄県が設置され、当初政府1885年(明治18年)までに、本土同様の政令施行を計画していたという。

しかし、処分で特権を奪われた士族層の不満は大きく、サンシー事件や「旧藩民血判誓約書」[1]が作成されるなど、士族主導の反政府活動が勃発した。また、清国へ救援を求める親清派脱清人が相次ぎ、いわゆる琉球帰属問題では、1880年(明治13年)に清国側へ提案された先島諸島の分割案(先島諸島割譲案)が亡命者を急増させた。更に明治十四年の政変で政権基盤が大きく揺らいだことが、現状維持により王族・士族の不満を抑えることに向かわせた。

こうして琉球王国以来の税制、地方制度が続行される。王族及び上級士族(有禄士族)の家禄を保障し(下級士族(無禄士族)は職を失い保障も受けてはいない)、従来からの農民の土地私有を許可しない地割制度やそれに基づく現物納入などの租税制度も続行された(士族である地方役人には免税特権があった)。先島諸島の人頭税もそのまま温存された。

政策の経過編集

二代目県令となった上杉茂憲は県内を自ら視察し、庶民の困窮と地方役人の怠慢に心を痛め、上京して改革案を上申した。その熱意は政府高官を動かし、尾崎三良(三郎)が視察に派遣された。ところが帰任した尾崎は「県令達がみだりに旧慣を改めたことで民情が傷ついた」との報告を上げる[2]。事態を収拾させるために岩村通俊が派遣され、上杉を元老院議官へ転任させることで解決が図られた。改革案は拒否され、士族層への刺激を避けることが優先されたのである。

1892年(明治25年)、奈良原繁の強圧的な長期県政が始まり、杣山問題などが起きる。

最大の懸念であった琉球帰属問題は日清戦争での日本の勝利により解決し、県民感情の上でも親清派を消滅させた。

政策の終わり編集

宮古島での庶民の惨状と士族の横暴を目の当たりにした中村十作らにより、帝国議会などへの働きかけが行われ、これが世論を動かして旧慣廃止に進むこととなった。これにより、1899年(明治32年)より沖縄県土地整理法が施行され、本土同様の地租改正が始まり、1903年(明治36年)土地整理事業が完了、先島諸島の人頭税が廃止されたことで旧慣温存政策は終わった。ただし、有禄士族への金禄は1909年(明治42年)まで続いている。

脚注編集

  1. ^ 各地の士族役人が住民を集落の御嶽に集め、神前で琉球藩王への忠誠を誓約させた血判状
  2. ^ 尾崎の自伝では「殿様上がりの世間知らず」と上杉を評している。

参考文献編集